2 蔑み美人の夜桜さん
第12話 桜
週が明けて、今日から前期の授業が始まる。
珍しく早朝に目を覚ました俺は、インスタントコーヒーを入れてベランダに出た。
春とはいえ朝はまだかなり肌寒い。
熱々のコーヒーが身体を内側から温めてくれた。
「ふぅ……」
この1人暮らし感。大学生感。控えめに言って、最高だ。
この気分が味わえるのなら、早起きも悪くない。
「おっ? あれって……」
視線の先に見覚えのある姿を見かける。
アパートに近づいてくるのを見計らって手を振り、声をかけた。
「祈璃さーん!」
声に気づいてこちらを向き、足を止めてくれた。しかしすぐにぷいと顔を背けて、さよならされてしまう。
「まぁ、いつも通りだな。うん」
こんな塩対応で今更へこむ俺ではない。
急いで靴を履き、部屋を出る。アパートの階段を下って、敷地内の小さな駐車場へ。
するとちょうどよいタイミングで祈璃さんがやって来た。挨拶を済ませてから話しかける。
「何してたの?」
「ランニング」
無愛想に答えた祈璃さんは健康的な汗を流していた。
昔の姿からはとても想像ができない。
服装だってランニングウェアに短パン、黒タイツと非常にスポーティで、なんだろう、ちょっと瞳が潤んでしまいそう。
酒を飲んで大人になった俺は、涙腺が緩くなっているのだろう。
「……なによ」
マジマジと見つめられた祈璃さんは居心地悪そうに身じろぎする。
「いや、健康的でいいなって」
「……ならあなたも走れば?」
「俺、ただ走るだけって苦手なんですよね」
球技とかスポーツでないと、なかなか走る気にはなれない。マラソン大会とかめちゃくちゃ苦手だった。集中力がもたないんだよな。
「祈璃さんは走るの好きなんですか?」
「まぁ。風を受けるだけでも気持ちいい」
「そうですか」
なら良かった。心の底からそう思う。
「俺もたまにだけど、一緒していいですか?」
「……ご勝手にどうぞ」
「はい。勝手にします」
話をしながら階段を上り、部屋の前まで戻ってくる。
「それでは。ランニングお疲れ様でした」
俺は扉を開けて部屋へ戻ろうとするが、背中に視線を感じたままなのが気になって振り向いた。
「……っ」
思った通り、祈璃さんと目が合う。
「あの……」
美しい黒タイツの足を擦り合わせながら、控えめに声をかけてくる。
「……登校、どうする? 一緒に行く?」
「………………………」
「……わ、忘れて。バカ言った」
この時、俺はまさしく目を丸くしていただろう。
まさかあの祈璃さんがこんな提案をしてくれるなんて、思ってもみなかった。
これが、サシ飲み効果……!
と、感傷に浸っている暇もなく祈璃さんは自己完結して表情を曇らせ、身を引いてしまう。
部屋に戻ってしまいそうなその手を、俺は思わず掴んだ。
「ぜひ、ご一緒させてください」
「……はやく言ってよ」
祈璃さんは不満いっぱいに口を尖らせた。
今日は俺も祈璃さんも2限からの授業だ。
早起きの弊害でかなりの時間を持て余しつつ、登校時間を迎える。
時計はとっくに午前10時を回っていた。
高校までだったらとっくに遅刻の時間。社会人でも当然アウトな重役出勤。大学生のフリーダムっぷりを初日から思い知る。
部屋を出るとほとんど同時、タイミングを合わせたみたいに隣の扉が開いた。
スポーティから一転、いつものお淑やかなロングスカートだ。
「それじゃ行きましょ。新入生さん」
「よろしくお願いします、先輩」
大学までの道のりは徒歩で10分ほど。
途中には桜並木がある。
「もう満開ですねぇ」
「そうね」
「今度お花見でもします?」
「これから毎日見るんだからそこまでしなくていいでしょ」
「まぁ、たしかに」
でも、本当に美しい桜だ。これから毎年、これが見れるのだろう。期待に胸が高鳴る。
並木道を抜けると、あっという間に大学が見えてきた。
短い登校時間がちょっと寂しい。
こんなふうに思うのは何もかもが楽しくて仕方なかった、小学一年生の頃以来だ。
2人揃ってキャンパスへ足を踏み入れる。
ここまで来るともう周りは学生だらけ。先週までは新入生とサークル勧誘の先輩だけだったことを考えると、単純にその3倍ほどの学生がここに揃うのだろう。
人口密度が高すぎて、もはやちょっと腰が引ける。
隣の祈璃さんは特に変わりなく、澄ました顔で歩いていた。
そういえば、大学での祈璃さんってどんな感じなのだろう。
友だちと一緒に笑い合ったりするのだろうか。今の様子を見ていると、あまり想像がつかないが……。
「ねぇねぇ、あれって有名な蔑み美人の夜桜さんだよね?」
「う、うん……たぶんそうだと思うけど……」
ふと、周囲の視線とヒソヒソ話が気にかかる。
「……男の人と歩いてるね」
「こんなこと今まであった?」
「ないない。……というかあの男の子だれ? 新入生?」
「やっぱ彼氏じゃない?」
「うーん、そこまでの距離感には見えないけど……」
「初々しいやっつだ!」
「……たしかに夜桜さんの雰囲気、ちょっと変わったかも」
明らかに俺と祈璃さんが注目されていた。
「ぐぉぉ!? なぜ我らが女王が男連れでぇぇぇ!?!?」
「おいおい、これはどういうことだ!?」
「だ、誰か聞いてこいよ!」
「む、ムリムリ! あの目で睨まれたら俺なんてすぐ昇天しちまうよ!」
「そんなんむしろご褒美だるぉ!?」
「死んだらもう夜桜さんに会えなくなるだるぉ!?」
「くっ、かくなる上は……問答無用であの男を始末するしか……!!」
オタクっぽい男子学生たちは束になって大混乱に陥っていた。身の危険を感じる。
「あの、祈璃さん。大丈夫なんですかね、これ」
「なにが?」
「なんか、すごく注目されてるなぁと」
「べつに気にしなくていい。実害ないし」
……本当にそうか?
訝しみつつも、実際のところ遠巻きにごちゃごちゃ言っているだけのようなので俺も無視することにした。
「祈璃さんってやっぱり人気者なんですね」
「は? どこが?」
「蔑み美人の夜桜さん。大学の女王様」
いよいよ確信を持って告げると、途端にムスッとした顔をされてしまう。
「それやめて」
「どうしてそう呼ばれるようになったんですか?」
「知らないわよ……私は普通にしてただけだもの」
普通っていうと今と同じような感じだろうか。
真刀のごとく研ぎ澄ました瞳に、私に近寄るなっていう孤高のオーラ全開。いくら美人でもこれに話しかけるのは勇気がいる。
そんな生き方、もうしなくていいのに。
「もしかして友だちいないんですか?」
「うるさい」
「いないんだ」
「うぅ、し、仕方ないでしょ。学校なんて久しぶりすぎて、どうすればいいかわからなかったし……なんか、避けられてるし……」
しゅんと悲しそう。
やはり、意図してこの状況を作ったわけではない。昔と違ってそんな理由がない。
「なら、今学期からは友だち1人ゲットですね」
「は?」
「俺がいますから」
「……………………」
「幼馴染は友だちですよね?」
「…………女の子がよかった」
「無茶言わないでくださいよ……」
「……ふん」
スタスタと早足に俺を置いていく祈璃さん。追いかけようと思って足を踏み出すが、その直前にふわりと彼女は振り向いた。
「…………………」
ぐぬと葛藤した瞳でこちらを見つめる。
「……授業どこ?」
やがて小さくそう言った。
「どこ?」
ボーッとしてたら、ちょっと不機嫌そうに追及される。
「あ、あー、たしか6号館の第10教室だったような……? まだ行ったことないんですよね」
「案内する。付いてきて」
そしてまた、遅れている俺のことなんてお構いなしに歩き出す。
幸い祈璃さんは美人すぎて目立つから、見失うことはない。俺は駆け足で追いかけて、再びお隣さんポジションを確保した。
初見の大きな建物(おそらく6号館)に入って、エレベーターで上階へ。
この間、説明は一切なく黙って私について来い状態。なんて男らしいのだろう。
「ここよ」
「助かりました。ありがとうございます」
「しっかり勉強しなさい。居眠りとかしちゃダメだから」
「肝に銘じます」
キリッと背筋を伸ばして見せると、満足そうに頷いてくれた。
「じゃ、またあとでね」
祈璃さんはクールそのもので、その場を後にする。
友だちは大学の先輩である。それは新入生にとって、非常にありがたいことだった。
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