第22話 出会い

 これは、俺と彼女の最も古い記憶——。


「初めまして、私は夜桜祈璃よざくらいのり。2年生だよ」


 小学生になった春のことだ。


 俺の入学した小学校では、集団登校が採用されていた。

 新入生が登下校に慣れるまでの間、同じ地域に住む上級生が付き添いをしてくれる。


 しかし不幸にもと言うべきか、今となっては幸いと言うべきか、俺の家の近辺には同世代がほとんどいなかった。


 俺を除けば、あとはたったひとり。

 存在は一応知っていたが、一度も会ったことのないひとつ年上の女の子。


「夜桜祈璃?」

「そう」

「祈璃ちゃん?」

「こら。祈璃さんだよ?」

「祈璃ちゃんだね! おれは鷹宮蒼斗たかみやあおと、よろしく!」


 それが、夜桜祈璃さんだった。

 この時はまだ、ごくふつうに学校へ通っていた。


「もぉ、生意気な子ね」

「へへへっ」

「まぁいいわ」


 ——大嫌い。

 と、そんな口癖がまだなかった頃の彼女である。


「それじゃあ蒼斗くん、一緒に登校しよっか」


 柔らかく微笑んだ祈璃さんは、俺の手を優しく包み込んで横に並び、ゆっくりと歩き出す。


「手を放しちゃダメだからね?」

「うんっ」


 初めての登校の不安も興奮も全て、受け止めてくれた。


 そんな、桜の咲き誇る始まりの思い出。


 それからと言うもの、単純な俺は祈璃さんにとことん懐いてしまった。

 1年生のクラスにも友だちはいたけれど、それ以上に彼女と遊ぶことが楽しかった。

 集団登校の期間が終わっても当然のように一緒に登校したし、休み時間には必ずと言っていいほどの頻度で2年の教室を訪ねた。

 今思えばウザ絡みと思われてもおかしくないような俺の行動を受け入れて、ずっと一緒に遊んでくれた。

 

 半年ほどが経過して、とある休み時間のことだ。


「あ、祈璃ちゃんだ!」


 体育の授業の帰り、同じく移動授業だった祈璃さんを見つけて駆け寄った。


「こんにちは」

「うん、こんにちは!」


 祈璃さんは足を止めて、笑顔で俺を迎える。


「体育だったの?」

「そうだよ、50メートル走っ」

「こんなに汗だくになって……ちゃんとタオルで拭かないとダメだよ?」


 そう言って、ハンカチで汗を拭き取ってくれた。


「聞いて聞いて。おれね、クラスで一番だったんだよ」

「それはスゴイね。蒼斗、運動神経いいんだ」

「おれ、えらい?」

「うん。偉い偉い」

「へへへっ」


 頭を撫でてくれる。

 こうされるのが俺はとても好きだった。

 祈璃さんに褒められたくて、頭を撫でてもらいたくて、頑張っていたのだろう。


「教室まで一緒に行く?」

「行くっ」


 1年生と2年生の教室は同じ3階だ。

 2人並んで階段を上り、教室を目指した。


 その間も色々な話をする。

 今日の授業で習ったことだとか、クラスメイトのことだとか、給食はなんだろうねとか、放課後また遊ぼうねとか、そんなとりとめのないこと。


 矢継ぎ早な話を祈璃さんは穏やかに笑いながら聞いてくれた。


 その時間が今この瞬間にも終わろうとしている儚いものだったなんて、俺は考えたこともなかったんだ——

 

「ぐ、うぅ……っ!?」


 突如、祈璃さんが廊下の真ん中で両手で身体を押さえながらうずくまる。顔が苦痛に歪み、脂汗がダラダラと垂れていた。


「……え?」


 頭が真っ白になった。視界が急速に歪んでいく。

 直前まで話そうしていた、楽しい話、面白い話、どうでもくて、とても大切なこと、全部どこかへすっ飛んだ。


「い、祈璃……ちゃん? どうしたの……?」


 祈璃さんは俺の問いかけに答えなかった。答える余裕すらなかったのだろう。


 俺はただ、何が起きているのか推し量ることさえ出来ずその場に立ち尽くす。


 何もできない子どもだった。


 まもなく周りの生徒たちが異常に気づいて先生を呼びに行った。

 そして祈璃さんは救急車で街の医療センターへと運ばれる。


 その身に起こった突然の発作——それが、全てを変えてしまうことになる。


 その後、何日経っても祈璃さんが再び学校に姿を見せることはなかった。

 俺は1人で登校して、1人で帰った。


 風のウワサで、入院しているということを知った。


 俺は必死になって時刻表とにらめっこして、授業が終わったらすぐさまバスに乗って、どうにか病院へと辿り着く。小学1年生にとっては、十分すぎる大冒険だった。


「あの、ここに祈璃ちゃん——夜桜祈璃って子、入院してますか? 部屋、教えてください」


 背伸びしながら顔を出して総合案内で尋ねると、看護婦さんは申し訳なさそうに渋い顔を見せる。


「……ごめんねぇ僕。患者さんからの要望で、そういうことは答えられないの」

「そんな……」

「ごめんね」


 落胆を抑えきれず消沈する俺の頭を看護婦さんは撫でた。……瞬間、どうしようもなく胸が締め付けられる。


「……お、お願いします! 友だちなんです! 大事な、友だち……!」


「そ、そう言われてもねぇ……」


「お願いします!」


 何度も何度も頼み込んだ。

 子どもに恥も外聞もありはしない。周囲の注目にも気づかず、俺は頭を下げた。


「……わかったわ」


 根負けした看護婦さんはため息をついて、俺に耳を寄せるようジェスチャーする。


「特別に教えてあげる。……私が言ったって、絶対言っちゃダメだよ? 祈璃ちゃんに怒られちゃうから」

「っ、うん! ありがとう……!」


 エレベーターに乗って、教えられた病室に向かう。

 そこはたくさんあった4人部屋ではなく、個室だった。扉の前で見上げると、夜桜祈璃という名札があって安心する。まだ漢字は読めないが、ふりがながあって助かった。

 

「——祈璃ちゃん!」


 ノックなんて礼儀も知らないまま、俺は勢いよく扉を開けて押し入った。


「…………っ」


 祈璃さんはベッドに寝ていた。俺に気づいて上半身を起こすと、今までに見たことのない苦々しく暗い表情でギリッと歯を食いしばる。


「どうして、来たのよ……」


「え……?」


「どうして……」


「祈璃ちゃん?」


 首を傾げながらベッドへ歩みを進める。


 しかし、俺に掛けられた言葉は残酷なものだった。

 


“来ないで”


“どっか行って”


“もう私に関わらないで”



 突き放し、拒絶する言葉。


 あの優しい祈璃さんが決して使うはずのない、冷たい呪言だ。



「あなたなんか、大嫌いだから」



 祈璃さんは変わってしまった。


 その瞳は、まるで世界の全てを拒絶するかのように、ひどく鋭利に研ぎ澄まされていた。


 それに一瞬でも狼狽えなかったと言えば、嘘になるだろう。


 だけど、それでも。

 その後のことは、知っての通り。



“ぜったい、離れてやるもんか!”



 そう叫んで、毎日のように通った。


 それがあの頃の祈璃さんにとってどれだけ辛いことであったか、今の俺なら想像ができなくもない。


 俺はただ彼女と一緒に遊びたくて、話がしたくて。彼女も心の奥底ではそう思ってくれていると、無垢なままに信じていた。

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