3 大切な人

第20話 大切な人

 今日はゴールデンウイークの中日で、悲しいことに大学は通常授業だった。


 トホホと思いつつ、それも悪くない。


 お隣さんとの登校は俺にとって授業のモチベーションそのものだ。


 今日はどんな話をしようか。そんなことを思いながら部屋を出て、祈璃さんを待つ。


 しかし、いつもなら俺より早いか殆ど同時くらいに出てくる彼女が姿を現さない。


「祈璃さん、遅いなぁ……」


 もしかして、登校日だということを忘れている?

 いや、そういうボケは俺の役目であり彼女に限ってあり得ないだろう。


 とりあえずインターホンを押してみようと思って隣室へ足を向ける。

 その時、ガチャッと203号室のドアが開いた。


「あ、祈璃さん。おはようございます」


 よかった。胸を撫で下ろしつつ、片手を上げる。


「……おは、よう」


 あれ……?


 すでに何十回、いや子どもの頃を合わせれば何百回と聞いてきたそのつれない挨拶に、違和感を覚えた。


 見れば、いつも通りの清楚なロングスカート。

 ストレートの黒髪だって太陽の光に照らされながら艶やかで美しく揺れていて——


「え?」


 ——らしくない、わずかな乱れが窺えた。


「……じゃあ、行きましょ」


 至って平然と横を通り抜けようとするが、その横顔に垂れる一筋の汗。吐息のように小さな声。小刻みに肩を揺らす荒めの息遣い。足取りはフラフラと右に左に覚束ない。

 こちらを一切見ようとしないその態度は、いつもに増してよそよそしかった。


 ぞわりと嫌な感覚がする。

 心の奥の方が、警鐘を鳴らしていた。


「祈璃さん、待った」


 後方から左手を掴む。


「な、なにっ……」

「ちょっと失礼」


 そのまま手を引いてこちらに引き寄せると、俺は腰を屈めて視線を合わせ、額と額を合わせる。


 しっとりと汗ばんだ肌から、明らかに異常な体温を感じた。


「熱、ありますよね」

「……ない」

「絶対あります」

「ないったらない」


 これ以上ない仏頂面で視線を逸らされる。


 ……どうせ言っても聞かないのだから、こうするしかない。


「ちょ、ちょっと……!? 何するの……!?」


 むりやり身体を抱え上げて、お姫様抱っこした。


「や、やめて! 下ろして!」

「いたっ。ちょ、マジ痛いんですけどっ」


 両手両足をフルに使って暴れる祈璃さん。

 意外と元気いっぱいだ。ちょっと安心する。


 しかしやっぱり体が重いのか、抵抗はすぐに止んだ。


「大人しく俺の部屋で寝てください」

「……なんでよりによってあなたの部屋なのよ」

「その方がそそるので」

「……えっち」

「ウソウソ。勝手知ったる部屋じゃないと看病も上手くできないじゃないですか」


 祈璃さんの部屋へ連れて行っても、俺は何をどうしてあげることもできない。


 俺は部屋の扉を開ける。


「あと、そういうことは大声で言わないと効果ないですよ」

「……できるわけないでしょ。バカ」


 その羞恥心のおかげで、アパート住人に通報されずに済んだ。


 部屋に連れ込んで、ベッドに寝かせる。が、祈璃さんはすぐに起き上がって端に腰掛けた。


「……べつに、そんなに酷くないのよ」


 言い訳する子どもみたいに、俯いている。


「本当よ。この時期はよく体調崩しやすいの。でも、ただの風邪。すぐ治るわ」


「それならなおのこと、さっさと寝てくださいな」


「あなたに看病されるようなことじゃない」


 キッと意志のこもった鋭い瞳が俺を貫いた。


「……もう、心配かけたくない。迷惑かけたくない。だから……」


 だから、祈璃さんの不調を無視して、忘れて、気づかなかったことにして、楽しい大学生活を謳歌していろと?


 ふざけんな。


「心配させてもらえないことが、俺にとってはもの凄く迷惑で、この上なく悲しいことです」


「…………っ」


 自然と、語気が荒くなってしまった。


 バツが悪そうに縮こまった彼女の姿を見て、深く後悔する。


「あの、祈璃さん」

「……なによ」


 完全に拗ねてしまっている。

 でも、強い瞳は健在だった。一瞬怯んでいたくせに、やっぱ気が強い。


 それに負けないように俺は優しく語りかける。


「俺、祈璃さんと再会してから毎日がすごく楽しいんです」


 前向きに、真っ当に生きてきたつもりだった。友だちを増やして、楽しく、遊んで。


 でも、見る目がある人には気づかれていた。家族や、かつての恋人や、お婆ちゃん。もしかしたら、椎名さんも。


 本当は何をしたって、心が動くことはなくて。何を食べたって、ろくな味がしない。


 俺の人生はずっと、上部だけの空っぽになっていた。


 ——1ヶ月前、祈璃さんに再会するまでは。


 あの日から、まるで昔の風景が戻ってきたかのように、楽しくてたまらない。 


 だからこそ、この大学生活が大切だ。


「でも、楽しければ楽しいほど、毎朝目覚める度に思います。祈璃さんが本当はもういなくて、全ては俺が描いた都合の良い夢だったんじゃないかって」


 実際、1ヶ月前まではそれが俺にとっての現実だった。


「だから、これは、俺の自己満足なんですけど……」


 俺はしゃがみ込んで、祈璃さんと視線を合わせた。白くて細くて、傷ひとつない綺麗な手のひらを握る。


「こういう時くらい、チカラにならせてくださいよ」


 何も知らずに失うのはもう懲り懲りだ。


「頼りないかもしれないですけど、少しは甘えてください。大丈夫。俺たちの関係は、一方通行なんかじゃないですから」


「………………」


「ダメですか?」


「……私は、昔からあなたに甘えてばかりよ」


「俺が祈璃さんに甘えていたんだよ」


「……バカ」


 力なくそう囁いて、最後には俺の手を握り返してくれた。

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