第19話:誰もいない部室で二人きりって…ゾクソクするね

 俺が尋ねた瞬間、浅桜は脱兎の如く駆け出した。さながら突風のように一瞬でトップスピードに加速する。日本女子陸上界の至宝のスプリントを目の当たりにして感嘆のため息を吐きたいところだが置いていかれるわけにはいかない。


「ちょっと待て、浅桜! 答えを聞かせてくれ!」

「───ッツ!? どうして追いつけるの!?」


 ピッタリと後ろに張り付きながら再度尋ねる。まさか追いつかれるとは思わっていなかったのか、浅桜は驚愕混じりの声音で逆に質問を飛ばしてくる。


「確かに浅桜は速いけど、熊と追いかけっこした時に比べたらそりゃ……なぁ?」

「熊と追いかけっこ!? キミは一体何を言っているんだ!?」

「別に、そのままの意味だけど……?」


 昔、一緒に山に入った爺ちゃんとはぐれたことがあった。ただでさえ心細いのに悪いことは重なるもので偶然にも熊とバッタリと遭遇してしまったのだ。

 これがハチミツの大好きな黄色い奴なら友達になれたかもしれないが生憎と現実の熊はそんな優しい存在ではない。むしろその対極の存在。おかげで命がけの鬼ごっこをする羽目になった。


「ちょっと、いつまで追いかけてくるつもり!? というかキミの体力は底なしなの!?」

「山で鍛えたからな。そんなことよりいい加減止まってくれ!」


 俺はもう一段ギアを上げて浅桜に肩に手を伸ばして強引にブレーキをかけさせる。びくっと身体を震わせる浅桜。いきなり触れたことを心の中で謝罪しつつ、俺はもう一度彼女に、今度は少し語気を強めて問いかける。

「本当は足に違和感があるんじゃないのか?」

「……どうしてそう思うの?」

「持久力の後に足を伸ばすような仕草をしていたから。あと反復横跳びをしている時も踏ん張りが効いていないように見えたからかな?」


 走り終えた後に足を伸ばしたり気にする素振りを見せるのはなんてことはない普通のこと。ただその時の浅桜は不協和音を感じているような表情を浮かべていた。

 最初は些細なことでも放置したら後々取り返しのつかないことになるかもしれない。だから確かめたかった。結果的にただの杞憂で〝勝手に勘違いして肩を掴んできた変態〟と言われることになったとしても。

「違和感は…………ある。ここ最近、ふとももが少し張っている感じ」


 俺の追及に根負けしたのか浅桜は恐る恐る呟いた。思っていた通りだったと喜ぶべきか、それを誰にも話さずに放置していることを怒るべきか嘆くべきか。


「やっぱり……練習後のケアはちゃんとしているんだよな?」

「それはもちろん。自分なりに出来る範囲でになるけどやってる」


 どこか申し訳なさそうに俯きながら話す浅桜。俺の目の前にいるのはオリンピック金メダル候補のトップアスリートではなく、叱られることを怖がるごく普通の女の子だった。


「そういうことなら一つお願いがあるんだけど───俺に浅桜の身体のケアをやらせてもらえないかな?」

「…………はい?」


 我ながら突拍子のない提案に浅桜もキョトンとした顔になる。無理もない、クラスメイトとはいえ入学してからまともにしゃべったのは今日が初めて。初日から噴水に飛び込むような得体の知れない男にこんなこと言われても戸惑うだけだ。


「やましい気持ちはないし変なことはしない。やるのは至って真面目なマッサージだ」

「……出来るの? 部活にも入っていない、アスリートに縁のないキミが私の身体のケアが」

「自信はある。爺ちゃんのために独学だけど人体について勉強したし、知り合いの整体師にも色々教えてもらったから少しは詳しいつもりだ」


 今も現役のマタギとして、狩猟の時期になると山に入っている爺ちゃんは喜寿を過ぎている。歳をとっても変わらずに活動できるのは若い時から身体のメンテナンスに気を遣ってきたからだと爺ちゃんは言っていた。


「よくわからない男に身体を触られたくない気持ちはわかる。だから断ってくれてもいい。でもその代わり放置だけはしないでくれ」


 言いながら俺は頭を下げる。

 浅桜の場合、身体は成長途中でありながら出力はすでに日本トップレベル。軽自動車にスポーツカーのエンジンを積んでいるようなもの。これではいつ壊れてもおかしくはない。そして一度壊れたら元の状態に戻すことはほぼ不可能だ。


「……わかった。そこまで言うならお願いする。だから頭を上げて」


 言われた通りにすると、降参だよと言わんばかりに浅桜はため息を吐きながら肩を竦めていた。


「本当にいいのか、浅桜?」

「いきなり〝足のケアをさせてくれ!〟って言われたら誰だって不気味に思うでしょ? というか普通ならドン引きだよ」

「それはまぁ……確かにそうだな」


 思い立ったが吉日、思考をすっ飛ばして行動に移す環奈と同じようなことをしていることに今更ながらに気付いて反省する。


「でも誰にも言ってない足の違和感を見抜かれたことは紛れもない事実だからね。ただ少しでも変なことをしたらぶん殴って警察に突き出すからそのつもりで」

「そんなことは絶対にしないって誓うよ」

「ハァ……その言葉、信じるからね。それじゃ着いてきて」


 浅桜に案内される形で女子陸上部の部室に入る。その中は意外と広く、トレーニング機器こそないもののストレッチ用のマットなどが配備されていた。これなら横になってマッサージが出来そうだ。


「そもそも冷静に考えたら、昼休みに誰もいない部室に男の子を連れ込むのってなんか卑猥だよね」


 浅桜はどこか倒錯的な笑みを浮かべながらテキパキとマットを広げて地面に敷いていく。俺に変なことはするなと口酸っぱく言っておきながら、よからぬ妄想をしているんじゃないだろうな。俺は状況に流されるような軟弱な精神の持ち主ではない。


「体育の授業終わりっていうシチュエーションもまたいいよね。汗で透けそうで透けていない体操着も実にそそる!」

「…………」


 頭の中で〝早く逃げろ〟と警報が鳴り響く。ストイックでカッコいいアスリート系女子だと思っていたら脳内はお花畑でピンク一色とでもいうのか。


「さて。なんとなくマットを敷いたんだけど私はどうすればいいかな?」

「そ、それじゃその上にうつ伏せになってもらえるかな? まずは触診して状態を確かめるから」

「触診……フフッ、いいね。ゾクゾクしてきた。お手柔らかに頼むよ、五木」


 こちらにやましい気持ちがあることを疑ったり、変なことをしたらぶん殴って警察に突き出すとか言っていたと人と同じ人物とは思えない艶美な声で浅桜が囁く。

 ドクンと脈打つ心臓。俺は動揺を悟られないように一度深呼吸をしてから無防備な浅桜の身体に手を伸ばす。


「……っあ、ぁんっ!」


 背筋に電流が走るような甘美な声が浅桜の口から洩れる。俺はざわつく心に蓋をして、無心で彼女の身体のケアに全神経を注ぐのであった。



 結局この後、昼休みが終わるギリギリまでマッサージを行った。時折見せる蠱惑的かつ倒錯的な浅桜の姿に理性が消滅しかけたがチャイムが俺を救ってくれた。


「すごい! 嘘みたいに足が軽くなった!」


 よほど嬉しかったのか、その場で飛んだり跳ねたり腿上げをしたりする浅桜。そのたびに果実がプルンと激しく揺れるので俺はそっと視線を逸らす。


「でもこれは一時的な処置に過ぎないから。これからは練習後のストレッチをもっとちゃんとした方がいいよ」

「うん、そうだね……ちょっと私の方でも考えてみるよ。ありがとう、五木」

「日本の至宝にケガをされるわけにはいかないからな。それより急いで戻って着替えよう。このままだと午後の授業に間に合わなくなる」


 鳴ったチャイムは昼休みが終わる十分前を告げるもの。昼飯は諦めるしかないが着替えだけでも済ませたい。


「ジャージのままで授業を受けるのも悪くないけど、さすがに二人そろってだとよからぬ噂が立つかもしれないね」

「さすがにそれは勘弁願いたいかな」


 もしそうなったら環奈がどんな反応をするか。仮に教室では大人しくしていても家に来たら何をしでかすか考えたくもない。


「フフッ。それじゃ五木が怒られないためにも急いで戻ろうか。教室には時間差で入るようにしないとね」


「そうしよう。一緒に滑り込んだらそれはそれで誤解を生みかねないからな」


 そんな軽口を叩きながら俺と浅桜は急いで部室を後にし、着替えを済ませて何とか授業が始まる前に教室に戻ることに成功した。

 スマホには環奈から鬼のような大量のメッセージが送られてきており、さらに膨れっ面で睨まれたがこれは想定内。ただ想定外だったのは───


『浅桜さんの様子、おかしくないか?』

『なんか表情がスッキリしているよな。いいことでもあったのかな?』

『表情も蕩けているというかなんて言うか……色気が増してないか?』


 浅桜の変化に気付いたクラスメイト達が一体昼休みの間に何があったのかとざわついたのだった。



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