第10話:据え膳食わぬは男の恥の語源について考える

「お待たせしました。とてもいい湯で身体も温まりました」

「お、おう。それは何よりだ」


 お風呂上がりでほんのり蒸気した肌。しっとりとした髪。俺の用意したシャツは少しサイズが大きかったのか袖はまくっていて裾も余っている。しかし制服の時ですら存在感を主張していた胸元は隠し切れずにむしろ強調される形となってしまい、高校生になったばかりとは思えない艶美な色気を醸し出す結果になっている。

 また下に履いているのは短パンで、健康的かつ適度な肉付きのある太ももが露になっているのも目によろしくない。


「久しぶりの再会なのに……たくさん気を遣わせちゃってごめんなさい」


 しゅんと肩を落としながら俺の隣に腰を下ろす環奈。そこは対面だろうと言いかけるが、十数年前はこうして並んで座るのが常だったので寸前で言葉を呑み込む。


「何度も言っているけど気にしないでいいって。ただいきなり噴水の中に入った時は驚いたけどな」

「あ、あの時は頭と身体が行けって本能に囁いたんです! そうしないといけないって思って、気が付いたら身体が勝手に動いていたんです!」


 支離滅裂な弁明をする環奈。普通は本能が訴えるものだろうと心の中でツッコミを入れつつ苦笑いを零す。


「わかってるよ。大方あのハンカチがご両親か祖父母から入学祝いにプレゼントしてもらった大切な物とでも考えたんだろう? 上質な生地にイニシャルも入っていたし」


 環奈が噴水の中から回収してきたハンカチ。それを持ち主に返す際にチラッと『Y.K』のアルファベットが見えた。あの子のために誰かが刺繍を施したのは言うに及ばず。であるならば思いの強い物に違いない。

 それを環奈は女の子から事情を聞いた時点で想像したのだろう。彼女の頭の回転速度は常人の三倍以上なので、あることないこと想像して自分の中でストーリーを創ってしまうことが昔もよくあった。周囲から気味悪がられていた理由がこれなのだが、この癖は十数年経った今も治っていないようだ。


「陣平君は昔から本当に私のことをわかってくれていますね。昔と変わってなくて安心しました」


 そう言って安堵のため息を吐く環奈。

 良かれと思ってしたことなのに逆に相手を困惑させ、得体の知れないモノを見る目を向けられたことに対する孤独と恐怖。あの場で気落ちをしていた原因はやっぱりこれだったか。


「まぁ……あれだ。また同じようなことが起きたら躊躇いなく噴水に入るのだけはやめような? 今日みたいにすってんころりんしてずぶ濡れになったら大変だからな」

「陣平君の意地悪……冷汗三斗になるような醜態は二度と晒しません!」


 頬を膨らませながら環奈はぷいっとそっぽを向く。というか噴水の中で転んだのは冷や汗が三斗も出るくらいは恥ずかしかったのか。ならこれ以上触れるのはやめた方がいいな。逆襲が怖い。


「はい! 噴水での話はこれでお終い! それより陣平君、今の私を見て何か言うことはありませんか?」

「唐突にどうした?」

「もう……本当に陣平君は鈍感ですね。今の私は陣平君のシャツを着ているんですよ? つまり彼シャツってやつですよ?」


 どうですか、言いながら四つん這いになってずいっと身体を寄せてくる環奈。手を床についているせいで胸元に空間が生まれてデコルテラインとその奥にある二つの秘宝が見えそうになっている。俺は思わず視線を逸らした。


「最後に会ってから十年近く経ちましたからね。私も結構大人になったんですよ?」

「そ、そんなことはわざわざ言わなくてもわかってるよ。というかそういう目で見られるのは嫌なんじゃないのか?」


 散々人のことをエッチだなんだと言って蔑んだ人物と同じ発言と行動とは思えない。おかげで俺の頭は深刻なバグを起こす寸前だ。


「それは学校にいたからです! それにTPOは大事だって言いましたよね? 二人きりの時ならいいんです」


 何をしてもね、と妖しく微笑みながら環奈は口にする。その妖艶な顔付きにゴクリと生唾を呑み込む。可愛かった幼馴染は知らぬ間に痴女になっていた。だが誘惑に屈するわけにはいかない。俺を信じて家に来てくれたんだ。それを裏切るような真似は絶対に出来ない。


「フフッ。どうしたんですか、陣平君? お顔が真っ赤ですよ?」

「う、うるさい! それ以上近づくな! 少し離れろ!」

「近づいちゃったら……どうなるんですか?」


 据え膳食わぬは男の恥ということわざがある。

 食べてくださいと差し出された膳に手をつけないのは男の恥ということから、女性からの積極的な誘いに受け入れないのは男の恥という意味になった。ちなみに据え膳とはすぐに食べられる状態に用意された食事のことをさし、それが転じて女性からの持ちかけられた情事のことをいう。必死に理性を手放すまいとどうでもいいことを考える。


「そ、それは……」


 ダメだ、何も言葉が出てこない。俺の頭はショート寸前だ。


「なん―――てね! 冗談ですよぉ!」

「…………環奈さん?」


 幼馴染の女の子の名前を呼ぶには相応しくない殺気の籠った声が思わず口からこぼれる。だが俺の心情などお構いなしに環奈は立ち上がり、顎に手を当てながらニヤリと口角を上げる。


「陣平君の理性を試してみただけです。おかげで想像以上に陣平君が初心ってことがわかりました」


 そうか、よくわかった。そっちがその気ならこっちだって考えがある。俺も立ち上がってしてやったりの顔をしている幼馴染に宣告する。


「……俺もわかったぞ。制服が乾いたらすぐに家から出ていけ。金輪際この家の敷居はまたがせないからな!」

「なっ!? どうしてそんなことを言うんですか!?」

「思春期男子の純情を弄んだからに決まっているだろうが!? そういう幼馴染に育てた覚えはありません!」

「全部冗談ですよ!? お願いだから拗ねないでください! 機嫌戻して!」


 そっぽを向く俺の袖を掴んで必死に訴えてくる環奈。ここで〝はい、わかった〟とすぐに言えば調子に乗るのは火を見るよりも明らか。少し反省するがいい。


「意地悪なこと言わないで! もう多分、きっと、maybeしませんから! 昔みたいに陣平君の家でお泊り会させてくださいよ!」

「お泊まり会なんて絶対にさせないからな!?」


 俺が即答すると環奈は肩をがっしり掴んで〝陣平君のいけずぅ!〟と叫びながらがくがくと激しく揺らしてくる。

 昔もよく環奈のわがままを突っぱねたら決まってこういう風にされたよな、としみじみと思い出しながらお泊り会をした時のシミュレーションをこっそりと行う。


「……わかりました。テコでもうんって言わないなら私にだって考えがあります。震えて待っていてくださいね、陣平君」


 この時の環奈の言葉を俺は適当に聞き流したのだが、翌日そのことを早速後悔することとなる。




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