第4話 鹿島アヤメ

その後皿洗いやら掃除やらを手伝って、その日は終わった。


開店日は金土日の3日間。今日、つまり月曜日は営業していないらしく、客が来ることはなかった。


タシュケントさんは、『この後闇の組織と会いに行く』と言って、早々に店を去った。あの人何者なの本当に。


俺とアヤメは、適当に雑談をしつつ、店の鍵を閉めた。


「家まで送っていくよ」


鍵をポケットに入れて、俺は言った。外はもうすっかり薄暗くなっていた。雲が多く、星は見えない。


「いや、この後があるから…それに……」


アヤメは最後まで言い切らず、口を閉じた。そのうえ、俺と顔を合わせようとしない。


俺は、そのアヤメの職場までついていくことにした。しかし、歩きだしても、アヤメは俺の数歩先を歩いていて、ちっとも振り返らない。足取りが、何処か重そうにも見えた。


アヤメは北上するように、街中のビル街に向かっていく。


「そういえば、名前を聞いていなかった。君の名前は?下の名前は、アヤメでいいんだよな?」


俺は歩きながら、彼女の背中に語りかける。


「『鹿島アヤメ』だよ。逆にお兄さんの名前は?」

「さっき言ったろ…桜橋零二だ。0と2が合わさって零二な」

「そういえばそうだった。お兄さん、いい名前だね」


『君』呼びから『お兄さん』呼びに戻っていることに違和感を感じつつも、俺は彼女について行く。


「なんの仕事をやっているんだ?もう8時だが…」

「……お兄さんには関係ないでしょ」


アヤメの足は止まらない。向かっている方向には、ネオンな光が沢山灯っているように見えた。行き交う人々のガラも少しばかり悪くなっているように感じた。


心の何処かが、ざわめき始めた。


アヤメは、まばゆく光る看板が多くある場所で、足を止めた。趣味の悪い衣装やら、照明やらが散見されるその場所で。


やめてくれ。そんなところで足を止めないでくれ。と、俺は情けなくも脳内で懇願した。


アヤメは振り返る。不気味な笑顔を浮かべて。


「お兄さん、ここでいいよ」

「あ、アヤメ…さん……」

「ふふ、私ね、異性に源氏名以外で呼ばれたの、お兄さんが初めてかもしれない。それじゃあね」


アヤメは、そのままネオン街に飲み込まれに行った。その時の横顔は、まるで……まるで…、堕ちた女神のようだった。


失恋したかのような損失感が、ポッカリと体内で空洞を作った。その場で呆然とする俺に、色んなキャッチの人が声をかけた。でも、なんて言われたのか、俺はもう、覚えていない。





家に帰ってもそのポッカリが埋まらないのか、俺は暗い面持ちで玄関を開けた。


「零二!何やってたの!晩ごはんも作らないで!!」


母親が、鬼の形相で玄関に立っていた。


「あぁ、うん。ちょっと用事があって」

「用事って何よ!ママに黙ったままで!」


怒りが込められた手のひらが、俺の頬を叩く。


「家事もしないで外で遊んでたって訳ね!このッ…!誰のお陰で高校行けてるとおもってるの!」

「はぁ…すみません」


僕の気分は最悪で、もう母親に弁解する気も湧かなかった。


「ほらさっさと作る!私たばこ吸ってるからね」

「はい…」


まぁ、俺がたばこを吸い始めたのも、この人が原因だ。人がいようがいまいが関係なし。どこでも吸う。


母子家庭で育った俺は、運悪く毒親に当たってしまった。父と母はすでに離婚しており、父の顔を俺は詳しく覚えていない。何年も前に会ったきり、最後だからだ。


母は仕事が忙しい(と自分で言っている)ので、家事の7割は俺が担当している。兄弟がいないので幾分か楽だが、いかんせん宿題が多いエリート高に通っているので、体感的には負担が多い。


高校に通えているだけまだマシ、と自分に言い聞かせているが、振り返るそこにはいつも、暗く、重苦しい何かが、俺の身にしがみついていた。


でも、アヤメは、鹿島アヤメはどうなのだろうか。俺と同じ、こんな重苦しい何かを持っているのだろうか。


そんな事を考えながら、俺はコンロの火を『弱』でつけた。










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