第2話 酒保しゃんぜりぜ①
警察から逃げて、静岡駅の近くにある小さな公園まで、俺らは走った。
俺も彼女も息切れしていて、額に汗を浮かべていた。
「はぁ…っ、はぁ…っ、なんとか撒けたようだな」
彼女の手を離して、俺は膝に手をついて言った。
「ははは、それ、フラグだから」
同じく彼女も、ケラケラと笑いながら言う。
「さて、じゃあ俺は帰るよ。新静岡駅を避けてね」
時刻は、夕方の4時だった。夏至手前の6月10日なので、まだ空は明るいが、そろそろもう帰らないとヤバい時刻だった。
「え?まだもうちょっといようよ」
彼女は、乱れた髪を整えながら駄々をこねる。
「と言われても、別に行くアテも何もないし」
「行くアテならあるよ?」
「嘘だろもしかして警察署!?自首するのか」
「違う違う!」
ふへへ、と不気味な笑みを、彼女は浮かべる。
「君と私ってぇ、多分運命だと思うんだよね」
何を突然言い出すのか。
「同じ場所で、同じような犯罪を犯して、そして今、ここにいる」
「そこから運命要素をどう感じた」
「ふふ、女の子ってのはね、言葉にしたらウソに感じる、そういうところに神秘性を感じるの」
「なんかの新興宗教に勧誘する気か?」
「違うよ。本当に、本当だけど偶然に、君と私は、この公園に逃げたね」
「うん」
「偶然にも、この近くに、私が働いてる店があるの」
「ほらやっぱ宗教勧誘じゃん」
「だから違うって!!」
まぁ俺がここまで言うのも、そういう経験があったからなのだが。あー思い出したくない。あの時はタダ飯食えると思ってついて行っただけなのに……。
「ねぇ、聞いてる?」
彼女は訝しげにこちらを見ている。
「うん。聞いてる聞いてる」
「絶対ウソだ……。で、そのお店が偶然にもこの近くにあるの。ちょっと寄ってかない?」
「と言われましても現在お金がない故、断るしか—」
「奢るから。ね?」
「えぇ……」
何故そこまで俺に執着しようとするのか。正直ちょっとよくわからない。
自分は彼女に何か恩を着せた覚えはないし、縁もゆかりもない。第一、さっき会ったばっかりだ。
「ほら、行こ?」
彼女は俺の手を取る。しかし、あどけないようで何処か底が見えないその顔に、俺は見入ってしまった。
まるで、シータに出会ったパズーのような、冒険心が僕のなかで湧いた。
ギュッと、彼女は僕の手を握る。僕はその手を握り返した。
名前も知らない女の子に、僕はその『お店』に連れて行かれた。
○
「
掛け看板を見て、俺は言った。
「そう。酒保しゃんぜりぜ。ここが、私が働いてるお店だよ。と言っても、居酒屋もどきみたいなお店だけど」
「へぇ」
外観は、居酒屋というよりかはオシャレなジャズバーのように見えた。
木製の片開きのドアがその雰囲気を存分に醸し出している。オフィスビルの一階にあるお店なので、だいぶこじんまりはしているが、立派な佇まいだった。
「お昼でもやってるのか?」
ポケットから鍵を取り出してる彼女に、俺は聞く。
「んいや、私が今から
ガチャ、と鍵を開けて、ドアを開ける。
中の雰囲気は、外から想像した通りではあった。
オレンジ色の落ち着いた照明に、西洋酒から日本酒まである大きな酒棚。長いカウンターテーブルに、2つだけあるラウンドテーブル。
客は最大でも20人が限界だろう。それでも、店内は小綺麗なので、新参なお店って感じだが。
「着替えてくる。座ってて」
彼女はそう言って、店の奥に消えて行った。言われた通りに、俺はカウンターの端に座る。
特にやることもないので、ぼんやりと店の内装を眺める。すると、すぐ近くにメニュー表があるのに気づいた。
それを手にとって見てみる。値段はまずまずだった。いや、こういう居酒屋にしては少し安い。良心的な価格だ。だが、少しばかりのツッコミどころが。
「この店の雰囲気で和食か…」
そう、メニューのほとんど、いや全てが和食だった。特に、家庭的な料理がその大半を占めていた。
しかしまぁ、小生は和食が好みなので、ありがたいところではある。
「お待たせ」
店の奥、もとい更衣室から出てきた彼女は、目を見張るほどの可愛さだった。
「どう?似合いすぎてぽかーんって感じだけど」
「いや、まぁ…すげぇな」
人の印象は、こうも服装で変わるのか。
彼女の着ていたウェイトレス服は、カーキ色を貴重としたコックシャツと赤いエプロンだった。どちらもサイズが少々小さく、体のラインが丸見えだった。もはやコスプレにも見える。
「若干ウェスタンな雰囲気に感じるな。そう思えば、この店もそんな雰囲気だし」
「でしょ?でも、ガンマンはいないよ。ナイフしか使えないから」
「ははは、確かに」
いや、こんな会話したあとにこう考えるのも無粋だが、この店の名前、『酒保しゃんぜりぜ』だろ?なんでウェスタンな雰囲気してんだ。シャンゼリゼ通りって、フランスだろ?
まぁ、そんなどうでもいいことは置いておいて。
「適当に選んでいいよ。そこにメニューあるでしょ?」
彼女は調理場に立ち、言う。
「それじゃあ……鮭の照り焼きで」
「あぁ、それ無理」
「へ…?じゃあ、唐揚げ…」
「あぁ、それも無理」
「竜田揚げ」
「無理だね」
「キャベツと豚肉の——」
「無理無理」
一体どういうことや。
「何なら良いんだ……」
「ふふん」
彼女は得意げに鼻を鳴らしたあと、こう言った。
「私ね、豚の生姜焼きしか作れないの」
……は?
「ちょっと待て。え?生姜焼きしか作れない?」
「そう。私はそれ専用の調理人よ」
「マジかよ。じゃあ、はなから俺に奢ろうとした料理って……」
「そう。生姜焼きだよ。だからもう、ほら。ここに豚肉がある」
彼女は手元に、薄くスライスされタッパーに入れられた豚肉を見せる。
うーん。やはりこのお店、ツッコミどころが満載である。
「まぁ生姜焼き好きだし構わないけど……よくそれでこの店で働けたね……店長は何か言わないの?」
「ん?まぁ、それは後々ね……」
気まずそうに言って、彼女は調理を開始した。まずはキャベツの千切り。手際よく葉を重ねて、ザクザク切ってゆく。
生姜焼きしか作れないと言っただけあって、その慣れた具合は感心する。
「上手いね」
「でしょ〜」
続いて玉ねぎ。染みているのか、半目を開けて切っている姿が、ちょっと滑稽だった。
豚肉はどうやら筋切りされているようで、何も手は加えられていなかった。
そしてタレ作り…と次のステップを踏むはずが、彼女は俺に、背を向けるよう指示をする。
「なんでや」
「タレの内容は企業秘密。だから見せられない」
「企業秘密っつったって……1対1対1だろ?」
「よく知ってるね……でも
仕方ないから、俺は椅子を回して向こうを向く。壁に貼られたゴッホのひまわりもどきの絵を、まじまじと見た。
背を向けつつ、俺は疑問を呈す。「これ、毎回お客さんにやってるのか?」
「そうだよ?まぁ大体は、『見ないで下さいねーー!』って注意喚起する程度だけど」
「それもそれで異常だな」
「だって仕方ないじゃない……時々主婦が、私のレシピ盗もうとするもの。もう3人にバレたわ」
「バレてんのかい」
「次会ったらそいつもタレにする」
「やめたれよ」
そんなしょうもないギャグをはさみつつ、下準備が終わり、俺は椅子を戻す。豚肉には片栗粉がかけられていた。
「ま、この片栗粉にもちょっと細工があるんだけどネ」
彼女はニヤリと笑顔を浮かべる。それ、やばい粉じゃないよな?けど、白いし……
まぁ、企業秘密か。
さて、そろそろ焼き始めようかと、彼女がコンロの火を付けた時、店のドアが開いた。
「アヤメ、もう開けてるのかい」
女性の声がした。
振り返ると、すらっと高い身長の、白髪の女性がそこに立っていた。
「まだ開店時間じゃないはずだが……あれ、お客さんかい?」
「あ、どうも……」
気圧されるほど、彼女の身長は高かった。180〜190センチほどあった。
しかも、顔つきには凹凸があり、目の色は透き通った氷のような色だった。つまり、日本人ではない。
「紹介するね、この店のもう一人の従業員、『タシュケント』さんよ」
豚肉を焼きながら、先ほど『アヤメ』と言われた彼女は言った。
「タシュケントです。日本に来る前は、ロシアで諜報員をやっていました」
「ちょ、諜報員!?」
俺は更に気圧された。
「冗談ですよ。本当はウイスキー工場で働いていたんですよ」
「は、はぁ……」
タシュケントさんは俺に握手を求める。それに応え、手を握るが、
彼女の手はすっごいゴツゴツしていて、今にも握りつぶされそうであった。いや、これ本当に諜報員だったんじゃ……。
「アヤメ、今のこの時間帯から客を取るって、どういう了見だい」
アヤメはフライパンを見つめながら言う、「別に。ちょっといい眼を持った人がいたから、連れてきただけだよ」
「良い眼…ね。店長のジジィと同じ事言っちゃって……。あぁ、すまないねお客さん。見苦しい会話しちまって」
いえいえ、と俺は手を横に振る。
と、ここでタシュケントさんが、興味深いことを言った。
「店長がいなくなってから、客が来なくて、アヤメも焦ってるのさ」
店長がいなくなってから?
俺は思わず、アヤメの方を見る。
「はぁ……、そうやって新規客に、愚痴をこぼすのも、よくないと思うな」
アヤメはため息をつく。
「そう言ったって、事実だろう?生姜焼き専門店って、揶揄されてたじゃないか」
「仕方ないじゃん、私それしか作れないんだし」
「でも、このままだと潰れるのも時間の問題だな」
「はぁ!?何言って……って、タシュケントさんのせいでちょっと焦げちゃったじゃない!」
「まぁまぁ落ち着いて…」
俺は二人の仲をとりなす。しかし、この店の崖っぷち具合は、相当のようだ。
タシュケントさんは頭をかき、こっちを向いて、「お客さん、名前は?」と言う。
「あぁ…桜橋零二です」
「そうか。じゃあ、アヤメ、この零二くんにその生姜焼きを食べてもらって、このお店が続けれるか続けれないか、ジャッジしてもらおう」
「「はぁ!?」」
アヤメと俺は、声を重ねた。
「零二くん、料理はするのか?」
「は?へ?まぁ、一応…毎日……」
と言っても、晩飯を母と自分の分作るだけだが。
「毎日なら素晴らしい。アヤメの作った生姜焼きが、お店として通用するかしないかぐらい、わかるだろう?」
「そりゃあ……わからないこともないとは思いますが……」
助け舟が欲しく、アヤメの方を見るが、彼女は眼を細めてこちらを睨むだけだった。
「単なる高校生に…そこまでの重役を課します…?」
俺はタシュケントさんに苦言を呈す。
「私はね、お店ってのは閉店する雰囲気を醸し出しながら閉店するんじゃなくて、最高のサービスを最後までやり遂げて閉店するべきだと思うんだ。そして、そのタイミングは今が最後だよ。アヤメ」
タシュケントさんの言うことが正論なのか、そうでないのか、俺にはわからないが、少なくともアヤメはそれを黙って聞いていた。
「という訳で零二くんとやら、頼むんだぞ」
「は、はい…。」
俺は制服の襟を正し、机上の割り箸を一膳抜き取った。
アヤメは千切りしたキャベツと共に、生姜焼きを皿に盛り付けた。それをゆっくりと、俺の前に置いた。
黄金色に輝くタレがかかった、食品サンプルより綺麗で、唾液腺を揺さぶってくる見た目の生姜焼きだった。
俺は思わず唾を飲み込む。こんなもん、不味いわけがない。
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