第128話 後始末の始まり

 ――清澄の死から7ヶ月が経った――



 中央公園のほうから蝉の鳴き声が聞こえてくる。距離はかなり離れているのに、やかましいくらいに「サラスパティ」店内まで響いてくる。


 猛暑でうだる夏の金沢。


 真昼間だというのに、店内は空調が効いていない。そんな上等な設備はないのだ。ふざけるな。煮立って死んでしまう。


「よちよち。いい子ね、可愛い」


 イザベラは俺の娘を抱きかかえて、ベロベロバアをしてあやしている。娘は丸い餅のような顔に怯えを見せているが、いくらかイザベラに慣れたようで、「まぁ」と柔らかな声を発してきた。


 俺は、カウンターの向こうでグツグツと煮立っているお湯を見ては、いつイザベラが手を滑らせて、娘をボチャンと落としかねないか、そればかり気になっていた。


「頼むから、カウンターの外に出てくれ。心臓に悪い」

「大丈夫よ。私を誰だと思っているの。SKAの元幹部よ。そんな初歩的なミスを犯すわけが――」

「大体、夏の暑い昼間に、なんで湯を沸かすんだ。ただでさえ湿気が多くていやになるのに、頭、どうかしてるんじゃないのか」

「まあまあ、いいじゃないの。そんなことより、そろそろ時間じゃないの?」

「……気は乗らないが」


 俺は携帯電話を開いて、時間を確認すると、立ち上がった。


「とにかく、子守は頼んだぞ。絶対にカウンターの中に入れるなよ。いいな」

「はいはい。信用されてないのね、私」

「いいから、早くこっち側の椅子にでも座らせてやってくれ。危なっかしいなあ」


 最後の最後まで、俺はイザベラにしつこいくらい念を押して、彼女がようやくカウンターの外に出て長椅子に娘を寝かせてから、俺は安心して店を飛び出した。時間は押していた。


 香林坊109の前に列を作っているタクシーに駆け寄り、湯涌温泉までの運転を頼んだ。運転手は、「いいんですか?」と確認してきたが、俺が時間がないことを告げると、納得したようだった。バスで行けば六分の一くらいの料金で行けるのだが、仕方がない。40分はかかるから、約束の13時には間に合わなくなる。


「やっと金沢にも平和が戻ってきましたねえ」


 兼六園下の交差点を通過する時、運転手は俺に話しかけてきた。


「ん? あ、ああ……そうですね」


 かつて、この交差点でバインドボイスと戦ったことを思い返していたので、危うく聞き逃してしまいそうになった。


 あの時の戦いで、あやめは命を落としてしまった。


 死体はいつの間にか消えていた。親父や、その他の死体も同様だった。誰が持ち去ったのか、いまだにわからない。おかげで、本当にあやめは死んでしまったのか、それすらもわからなくなってしまった。


 一応、俺はある仮説を立てている。だけど、あくまでも仮設の域を出ず、根拠もないので、あまり自信はない。


「まったく、去年は何が起きているのかと思いましたよ。金沢中でテロだの連続殺人だの……おまけに、日本各地で自爆テロ騒ぎじゃないですか」

「爆弾を体に巻きつけた狂信者が、各地で自爆した事件ですね」

「そうそう。あれ、なんて言いましたっけ? さ……さ……」

「三元教」

「ええ、そうですそうです。でも、教祖が自殺してくれて、本当よかったですよ。焼身自殺の上、スカイホテルから飛び降りたんですってね。まったく、昔のサリン事件といい、これだから新興宗教ってやつはろくでもないもんです。あんな連中、とっとと滅べばいいんですよ」


 同意は示さず、とりあえず黙った。運転手の考え方は理解出来なくもないが、俺には受け入れられない。部外者でありながら、何もかも知っているかのように振る舞われるのは、あまりいい気分がしない。


「俺の――」

「はい?」

「死んだ教祖は、俺の、兄だった」


 運転手は言葉を失った。


 タクシーは路肩に止まり、後部座席のドアが自動で開いた。


「降りろ」


 血走った目を向けて、運転手が汚く罵ってくる。


「降りろ! 金はいらんっ。人殺しの家族乗せてる思うと、気分悪くなってくるわ。むしろ、金沢から出てけや!」

「俺は、兄貴とは無関係だぞ。それでも放り出すのか」

「連帯責任やろが! ガタガタ言わんと、車降りんかい!」

「わかった」


 俺が車を降りると、すぐにタクシーのドアは閉まった。


 助手席側の窓が開けられ、運転手の、「死ね!」という罵倒の言葉が聞こえてきた。タクシーは猛スピードでその場を去っていった。


 俺はすぐに新しいタクシーを止めて、乗り込んだ。


(罪が先か、人が先か……)


 あのタクシーの運転手は、俺が兄清澄のことを話さなかったら、きっと最後まで人の好いオッチャンとして、湯涌までの道中、好意的に接してくれたことだろう。だけど、俺の素性ひとつで、態度がガラリと変わってしまった。


 俺は溜め息をつく。


 長い戦いを終えて、結局手に入れたものは――何ひとつマシになっていない世界。人間というものの虚しさは、未来永劫変わらないのかもしれない。






 俺は、湯涌に着くまでの間、他の連中のその後について振り返ってみた。幸い、今度の運転手は寡黙な人だったから、俺の思索を邪魔することもなかった。


 リーファは上海に戻り、瓦解寸前に陥った父の組織を、見事に再生して、まとめ上げていた。


 一ヶ月前、俺に電話をかけてきた。最後の戦いの場から逃走したファティマを、用心棒として雇ったとの話だった。


「あなたが私を裏切ったことは忘れてあげる。だから、またいつか、昔のような激しいセックスをしたいわ」


 電話の向こうで、吐息混じりに誘惑してきたリーファは、俺が何か言う前に、一方的に通話を終了させてしまった。あの偏執的な女が元気に生き残っている、そのことだけで、俺は気が滅入りそうだった。


 本来ならリーファの右腕となるはずのシャンユエは、「私には他になすべきことがあるから」とリーファの誘いを断って、恋人のアズとともに姿を消してしまった。その後の消息を知る者は、俺の周りには誰もいない。


 お袋は、遠野屋旅館の経営に精を出している。一時期は親父の蒸発(さすがに死んだとは伝えられず、死体が無くなっていたこともあり、俺は嘘をついた)でパニックにもなっていたが、最近になってようやく落ち着いてきたようだ。


 義弟の小次郎も、学業に励むかたわら、お袋の仕事を手伝っている。旅館の跡取りは心配する必要がなさそうだ。


 堂坂組長は、部下を大量に死なせてしまったことを悔い、自ら組長の座を下りてしまった。直系の組織同士で跡目争いに発展しそうになったようだが、結局ずば抜けて権勢を誇る組がトップに立って、他の組を頭から押さえつけた。大したトラブルにならずに終わったそうだ。


 八田刑事は両脚を失い、車椅子生活を余儀なくされているが、驚くほどポジティブ思考で(少なくとも周囲に大しては明るく振舞って)、警察署ではデスクワークに精を出し、家では家族にサービスをして、楽しい生活を送っているそうだ。


 意外と、タフな男だった。


 風間マドカは、シャンユエたちと同じように、姿を消してしまった。



 

 俺が把握しているのは、大体このようなところだった。






 車は湯湧谷に入り、旅館や飲食店の立ち並ぶ閑静な商店街を進んでいく。一番奥にある「白鷺の湯」の前で停まり、自動でドアが開かれた。


 外に出ると、「白鷺の湯」の玄関に三匹の猫がたむろしていた。俺が近寄ると、バッと身構え、警戒心を剥き出しにする。ちょっと悪戯心を起こした俺が、「にゃあ」と言いながら足をダンッと踏み鳴らすと、三匹の猫は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


「……何をやっているんだ、お前さんは」


 聞き覚えのある声が、俺を揶揄してくる。


 俺は顔を赤くした。よりによって、この人に見られてしまうとは。(実は)大好きな猫を前にして、理性を失っている姿を目撃された俺は、恥ずかしくてまともに相手の顔が見られなかった。


 倉瀬刑事――いや、もう引退したから、ただの倉瀬さん――が、玄関口に立っていた。


「私はもうひと風呂浴びたところだ。お前さんもさっさと汗を流してこい」


 倉瀬さんは、顎をしゃくって、中に入るよう促してきた。


 俺は小さく頭を下げると、券売機で券を買って、さっさと中に入っていった。タオルを持っていなかったので、番台で100円払って、「白鷺の湯」とプリントされた小さなタオルを一枚購入した。


 湯に浸かっていると、いまさらながら、去年の戦いの疲れが一気に流れ落ちてゆくような気がした。


(まるで、同窓会だな……)


 これから会う面子のことを考えると、思わず苦笑せずにはいられない。会うのはたった二人だが、あの激戦を戦い抜いた戦友たちだ。早くも懐かしさのようなものを感じてしまう(もっとも、倉瀬さんは俺に対して親しみなんて感じていないだろうが)。


 風呂から上がると、男湯を出てすぐ右手にある、畳敷きの休憩スペースに、待ち合わせていた二人の姿があった。


 一人は、もちろん倉瀬さん。


 そして、もう一人は、美鈴伊咲ちゃん。


 またの名を、リビングドールといった。

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