第127話 そして人間になる

 俺の体の上に、雪が降り積もってくる。


 まだ生きているのが不思議なくらいだ。ホテルの屋上、50階くらいの高さから墜落したのだから、即死していてもおかしくない。


 地面に激突する瞬間、体が一瞬だけ宙に浮かんだ。正確には、墜落のスピードが遅くなったのだろう。清澄の能力か、ユキなのか、あるいは――


 仰向けに倒れている、俺の頭のほうから、何者かが歩み寄ってきた。俺には、そいつが誰だかわかっている。


「夫の魂を救っていただき――ありがとうございます」


 人を殺したのに、礼を言われるのは初めてだ。


 俺は起き上がった。体はなんともない。それどころか、胸に刺さっていた剣はいつの間にか取れて、みぞおちの傷口も塞がっている。


「あんたが治してくれたのか。風間マドカ」

「ええ」


 清澄の妻、マドカは白い面を眉ひとつ動かさず、無表情で頷く。夫の死を意識しないよう、努めて気丈に振舞っているようだった。


「こういう時、俺みたいな人間は死んで退場するのがセオリーじゃないのか」

「死んで済むのであれば」


 マドカは、そっと雪をつまむと、天を仰いだ。そういえば、いつの間にかまた雪が降り始めている。清澄の能力が発動していた関係で、天候にも影響が出ていたのだろうか。


 清澄は。


 清澄は黒焦げの死骸となって、路上に転がっている。落下の衝撃で四肢は異様な方向にねじれて、見るに耐えない変わり果てた姿となってしまった。


 俺は、その死体が本当は生き別れた実の兄であることを思い出し、急に胸の奥から悲しみがせり上げてくるのを感じた。


 俺が、殺してしまった。


「死んで済む、とか、そういうことじゃないだろ。俺は死神だ、悪魔だ。俺が生きている限り、俺は人を焼き続ける。わかるか? それが、俺の全てだからだ。俺は人の魂を焼いて喰らう、魔人だ。俺はここで死ぬべきだったんだ」

「それが、あなたの物語ですか」


 マドカの声は震えている。


「私は、そのような結末、認めません――娘が、ユキが愛した男性が、命を落とすことで終わる物語なんて、そんなの残酷すぎます」

「人の道、だからだ」


 誰が教えてくれたのか。俺の心の中にふと浮かんできた言葉。無意識のうちに発してから、俺は無性に懐かしさを感じていた。いつどこで、誰に言われた言葉なのだろう?


「どんな理由があろうと、人殺しは人殺しだ。人間の築き上げたルールに縛られることは良いことか悪いことなのか、その是非は置いておいても――人の中で生きていくのであれば、人を殺してはならない」


 人を殺すことは、人の道から外れている。詭弁のようなくだらない哲学は要らない。悪いことは、悪い。それで十分だ。


「ならば、簡単に死を選ぶのも、人の道を外れていることになりませんか」


 マドカは正面から険しい目で睨んでくる。


 俺はかぶりを振り、路上に落ちていた火炎放射器を拾い上げ、肩に担いだ。ここで議論しているつもりはない。


「また、生き残ってしまったか」


 俺は呟いた。


 あやめは死に、親父も死んだ。実際にその場を見たわけではないが、生きていないであろうことはわかる。他にも、この戦いで命を落とした人間は大勢いるはずだ。


 どうして、俺だけ生き延びてしまったのか。


 これがひとつの物語なら、俺のような男はユキを守りぬいた後、静かに息を引き取るのが筋というものだろう。それなのに、俺はまだ生きている。


 いや、よそう。


 せっかく、風間マドカが助けてくれた命なのだ。自暴自棄になって、無駄に散らせる必要もあるまい。


「……俺は、家に帰って、着替えてくる」


 振り向かずに、背後にいるマドカへ声をかける。


「ユキたちには、ピース・レジャーに行くよう伝えてくれ。警察に捕まらないように、世話を頼む」


 それだけ言って、俺は手を振り上げ、マドカに後を託した。


 立ち去る俺に対し、マドカは何も言わない。ホッとしているのか、平然としている俺に憤りを感じているのか。


 少なくとも、この結末に虚しさを感じていることだけは、明らかだった。



 ※ ※ ※



 家に戻ると、暗い室内の食卓上に、レンタルビデオ店の袋が置いてあるのを見つけた。


 灯りをつける。


 黒い布製の袋から、DVDのケースを取り出す。


「ああ、そういや、この映画……」


 いつだったか、あやめが観たい観たいと騒いでいたアニメ映画だ。やたらと主題歌を歌っていてうるさかった記憶がある。


 食卓に、メモが置いてあった。


『浮気者のアキラくんへ  ぜんぶ終わったら、いっしょにみようね  あやめ』


 簡潔な文章は、自分が生き延びることを確信していたのか。それとも、死の予感から目を逸らしていたのか。


 あやめは、死んだ。もう帰ってこない。


 これが、大切な人を失うということなのか。


 母親を殺された清澄の気持ち。恋人を殺された上杉小夜の気持ち。俺にはわからなかった悲しみ。なるほど、こんなに辛いことはない。


 呻き声が聞こえた。獣が唸るような低い呻き声。だが、それは誰でもない、俺自身の声だった。抑えようとしているのに、喉の奥から漏れてくる。あやめの笑顔を思い返した瞬間、とうとう爆発した。


「ふ……ぐ……」


 俺は、生まれて初めて泣いていた。


 0歳の時に母を焼き殺された体験のせいか、俺は一度も悲しい思いをして泣いたことがなかった。後悔したことがなかった。何かに執着することもなかった。乾いた心を持った人間だった。


 だから、俺はマッドバーナーという悪魔になれたのだ。


 あやめを失ったことで、初めて俺は人間になった。人間の心を知った。誰かを愛することを知り――愛する人を失う苦しみを知った。


『俺は、心まで化け物に成り果てたくはなかった』


 かつてユキに語ったように、俺は人間と化け物の境界線上で長年苦しみ続け、そしてついに、人としての心を手に入れた。


 だけど、それは俺にとって、本当に幸せなことだったのだろうか?


 戦いは終わり、ユキは助かった。もう誰も彼女の命は狙わないだろう。マンハントは失敗し、清澄もあの世へ旅立ったのだから。


 俺たちの勝利だ。


 だけど、虚しい。


 戦っている最中は未来への希望に突き動かされ、全て終われば平穏な日々が戻ってくると信じていた。


 結局、何も変わっていない。SKAが完全に滅んだわけでもなく、世界中の殺人鬼が消えるわけでもない。この世界の歪みは永遠に存在し続け、消えることはない。この戦いは、しょせん清澄の個人的な復讐心に端を発した、小規模な争いに過ぎなかった。


 残ったのは疲労だけ。勝利の喜びなどない。束の間の休息の後、また戦いの日々がやって来る。


 安息など、永遠に訪れない。


 それでも、生きるしかない。


 飯を食い、睡眠を取り、楽しい明日を過ごす。それが人間の本分であり、人として生きるべき道なのだから。難しいことは抜きにして、生きている以上は、とにかく生き続けるしかないのだ。




 電話が鳴った。


 ユキからだ。


『玲さん⁉ 玲さん! 変なこと考えないで――死なないで!』


 母親から何を聞いたのか、ユキが鼻声でまくし立ててくる。あまりの音量に、俺は顔をしかめて、携帯電話から耳を離した。


「大丈夫、死ぬために戻ったわけじゃあない。すぐにピース・レジャーへ戻る。もうちょっとだけ待っててくれないか」

『うん、うん……きっとだよ。きっと、必ず、すぐに来てね』

「ああ、約束する」


 俺は電話を切った。


 こんな感じで、いいのかもしれない。


 未来のことは未来になって考えてもいいだろう。いまは、ユキを守り抜いたことを良しとしよう。自分で自分を労おう。


 俺は大切な人を守った。自分も生き延びた。それなりの結果だ。犠牲者のことを嘆いても、不満を抱くほどの結末ではない。これで良かったんだ。この結果で、良かったんだ。




 家を出る前、ふと俺はあることに思い至った。


 どうして俺はユキを守ろうと考えたのだろうか?


 1月、一緒に早朝のランニングをしていた時、SKAのリリィ・ミラーが現れた。そこで俺は、なぜかユキを守ることを宣言してしまったのだ。


 残酷なリリィの言葉が、容赦なく彼女を責め立てる。


 その無残な態度が、俺の胸の奥に潜む、何かの感情を刺激した。頭に、熱いものが走る。今まで感じたことのないような、燃える心。怯えて泣き続けているユキを見ていると、なぜか、俺は――

 

 この気持ちは、なんだ。


 俺はひとつの推論を立てた。だが、その内容はあまりにも残酷なものだった――死んでしまった、俺の愛する妻あやめにとっては。


 一人の人間として、俺は泣き崩れる少女を見て、義侠心に震えたのだと解釈していた。しかし、本当はそうではなかったのかもしれない。


 人間は、一生を送る中で、何人の人間と出会うのだろうか。そして、その中でたまたま結ばれた恋人がいたとして、果たしてその相手が、世界中の人間の中で最も愛せる人間だと、断言出来るだろうか。


 まだ出会っていないだけで、本当はより自分と波長の合う相手がいるのではないだろうか。


 俺もまた、出会ってしまったのかもしれない。


 あやめ以上に、心を惹かれてしまう女性に。


 だから俺は一人の人間としてではなく、最初からずっと、一人の男として……。


 いや、やめよう。あやめが可哀想だ。


 そんなことは絶対に考えてはならない。


 この先、きっと俺はユキと結ばれてしまう。自然とユキと一緒に生きるようになってしまうだろう。


 それでも、この結論だけは、俺の胸の中にしまっておこう。


 いつか死ぬ日まで、ずっと――


 あやめの魂を、悲しませないためにも。

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