第126話 物語の終わり

 俺も、清澄も、一歩も動かずにいる。


 背後からはイザベラとファティマの激しい一騎討ちの音が聞こえてくる。剣と拳銃が交差する金属音。イザベラが発砲する音。


 雪は降り続ける。


 俺たちの薄汚れた戦場を清らかに染めてゆく。これが最後の戦いだというのに、静かな空間と化していた。


「真実は――いつまでも、私の胸の中だ」


 清澄は、微笑みながら、意味のわからないことを言ってきた。もう一人いる娘、ユキの双子の姉のことを話しているのだろうか? それだけではなさそうな思わせぶりな様子に、俺は不穏なものを感じた。


「なあ、晃一。お前は何を望む? 考えてみれば、私はお前と兄弟の会話をしたことがない。この戦いの後には、どちらかしか生き残らない。ならば、せめて少しばかりの談話をしないか。私は、そう望むのだが――」

「断る」


 俺は火炎放射器を構えた。


 何を、いまさら。


「そもそも、『どちらかしか生き残らない』というのが気に食わないな。俺は相討ち覚悟だ」

「……やれやれ。私は遠慮して、わざと遠回しな言い方をしたのだよ? ならば、正確に言ってやろうか。この勝負、私が必ず勝つ。だから、二度と会えなくなるお前と、最後にゆっくり話をしたい――そう思っている」

「心外だな。自分の娘を道具としか考えていないような奴に、一方的に負けるつもりはない。共に死のうとも、俺はお前を、倒す」

「娘は、道具、か――」


 清澄は冷ややかな笑みを浮かべた。


「ああ、そうだよ、晃一。私にとって、娘は道具でしかない。“かあさま”を復活させるための、道具だ。利用価値のある人形でしかないのさ――」



              ※ ※ ※



 車を運転していた会社員は、謝罪には来なかった。


 事故の後、全ては保険会社を通じてやり取りが行われた。雪希が信号無視をしていたこともあり、先方の会社としては、自分たちの責任割合は0だと見なしているようだった。


 実際には、3対7で向こうの責任となった。雪希が植物状態となったことが、多少は向こうの同情を買ったようだった。


 でも、事故を起こした本人は、謝罪には来なかった。


 私は考えた。


 人とはなんだろう。人が人を殺すとは、なんだろう。


 この世界には、SKAに所属するような殺人鬼たちが大勢いる。そして、その何万倍もの数の、“正常者”を自認する人間たちが大勢いる。だけど、その“正常者”である彼らは、人間の死に全く関わっていないと言えようか?


 交通事故で人を殺す。いじめで死に追いやる。過酷な労働で命を削らせる。それが間接的なものであろうと、人は誰でも、殺人者たりうる。そこに境界線などない。


 殺人を犯す人間が異常なのではない。


 殺人を犯さないでいられる人間は、ただ単に、幸運の星のもとに生まれているだけなのである。


 私の弟、晃一は、マッドバーナーという殺人鬼となった。だが、年に一回人を殺すということ以外は、極めて良識に溢れている男である。むしろ、巷に溢れているような軽薄な男たちと比べれば、兄の手前味噌になるが、惚れ惚れするほどの好漢と言えるだろう。


 その、年に一回の殺人もまた、クリスマスイブという限定された日に行われることを考えると、私は晃一に同情せずにはいられない。ルクスによる我が一家の虐殺事件が、当時乳幼児であった晃一の心にトラウマを植えつけたのであろうことは、明らかなことであった。


 人間の運命とは、いつどこで変転するかわからないものだ。


 その時、どんな弾みで自分が殺人者となるか、わかったものではない。


 この世界は、死で溢れている。


 その死に触れた人間が、すなわち殺人者となってしまう。人を殺すから殺人者なのではない。人の死に触れてしまったものが、殺人者なのだ。


 一方で私は、「殺人こそ人の本質」とするルクスの考え方が、正しいとも思えない。


 なぜなら、“かあさま”は私に教えてくれたからだ。


『どんなときでも、人の道を進むのよ、清澄。それが人間の生きる意味なのだから』


 ああ、やはり。


 やはり、“かあさま”に会いたい。


 早く、“かあさま”に会いたい。



 ※ ※ ※



「人の道など……知ったことか」


 清澄は、またも何を考えているのか、独り言を呟いた。


 俺は腰を落として、身構えた。


 言葉は要らなかった。もう戦いは始まっている。耐火服越しに、毛の逆立つようなピリピリした空気を感じる。


 本当は、話すべきことは数多くあったのかもしれない。清澄から聞き出すべきことも……だけど、時間が来てしまった。終止符を打つ時が。この長きに渡る戦いに幕を下ろす時が。


 物語の終わりが、始まろうとしている。


「九、天、応、元」


 清澄は両手を閉じ、指で印を結びながら、呪文を唱え始めた。


 頭上に、黒雲が渦巻き始める。


「雷、声、普、化、天、尊」


 雷鳴が轟いた。


 何が起きるのか、理解する暇もなく――俺の体に、雷が落ちた。


「ぐ、お、お!」


 耐火服はラバー素材も混じっている。電撃にもある程度の耐性はある。それでも、激戦でボロボロになった耐火服の穴から電気が流れ込んできて、俺の生身の体に痺れが走った。


 膝をつく。


 俺の隙を見逃さず、清澄は突っ込んできた。どこから取り出したのか、研ぎ澄まされた剣を腰溜めに構えて、体当たりを仕掛けながら俺を突き刺そうとしてくる。


「くっ」


 俺は火炎放射器の引き金を引いた。炎が噴出される。清澄はサイドステップで炎をかわすと、俺が火炎放射で薙ぎ払おうとする前に、懐へと一気に飛び込んで、剣で斬りつけてきた。


 耐火服の肩口が切り裂かれる。


「破壊と死を司る七星剣だ――仙道の技術の結晶たるこの剣を受けて、果たしてどこまで耐えられる?」


 ご丁寧に説明を加えてくる清澄。余裕の態度からは、自分が絶対に負けないという自信が感じ取れる。


 俺は殴りかかったが、清澄はいとも簡単にかがんでかわした。


 やっと俺は思い出した。ユキと同じ能力――清澄は時を操ることが出来る。奴の目には、俺の攻撃は全てスローに見えるはずだ。どんな攻撃を仕掛けようと、清澄には大して脅威ではない、ということだ。


 またも剣で斬られた。


 俺は、拳を振り、火炎を噴射し、あらゆる攻撃を試みた。フェイントも交えた。けど、清澄は全て軽やかにかわすと、反撃の剣をお見舞いしてくる。攻撃直後の俺はよけられない。俺ばかりダメージが蓄積されてゆく。


(どうあっても、殺せない敵――!)


 なるほど、ユキを殺そうとしていた殺人鬼たちはこんな心境だったのだな、と呑気にも俺は考えていた。それほど焦ってはいなかった。


 自分でも理由はわからないが、俺は平常心を保っている。


(違う、殺せないなんてことはない。手はあるはずだ。こちらの動きを後出しで回避しようと、反撃出来ようと、そんな小細工の通用しない方法が――)


 敵は、俺の攻撃を確実に回避する。


 回避させなければ一撃で倒せるような火炎放射をも、目で見てかわしている……だったら、そもそも回避させなければいいのではないだろうか。逆説的ではあるが。


 地上では、どうあっても攻撃を当てられない。


 ならば、空中だ。


 奴を空中に浮かび上がらせる――あるいは、落とせば。


 それには、隙が必要だ。


 清澄を回避不能なゾーンへと追いやるためには、隙を作らなければならない。


 問題は、どうやって隙を生み出すか。


 そのとき、俺の左腕に剣が突き刺さった。火炎放射器を持っていない方の腕だ。


「ぐ⁉」


 激痛に、マスクの内側で顔をしかめる。


 清澄はただ剣を刺しただけで終わらず、「九天応元雷声普化天尊!」と片手で印を結んで、口早に呪文を唱えた。


 すぐに清澄は、剣から手を離す。


 頭上の黒雲から雷光が伸びて、俺の左腕に刺さった剣に絡みつき、刃を伝ってくる。たちまち、俺の左腕の内部まで電撃が伝わってきて、筋肉の繊維や骨や血管を一瞬のうちに焼き焦がしてしまった。


「がああああ!」


 脳味噌を寸刻みで抉られるような痛みに、俺は耐え切れず絶叫を上げる。 


 清澄はまた剣を掴み、俺の左腕から引き抜いた。


「次は、その胸に刺してやろう――!」


 剣を構えた清澄が、体勢を低くし、まさに跳びかかろうとしていた。


「お父さん!」


 隠れていたユキが、再び姿を現し、叫んだ。


 清澄は、ピクリと身を震わし、攻撃を中断した。


「お父さん」


 もう一度ユキは声をかけた。


 清澄は目を大きく見開いて、ユキのほうを凝視している。一見、隙だらけだが、俺に対する警戒は怠っていない。


 いまはタイミングが違う。


「沙希……」

「お父さん、もうやめようよ」


 穏やかな口調でユキは話しかけてくる。何を考えているのか、清澄は動きを止めてユキの言葉に耳を傾けている。


 サキ、というのはユキの本当の名前なのだろうか。俺にはわからない。


「わかってくれ、沙希。私は、“かあさま”にまた会いたいだけなんだ。そのために、こんな戦いを――」

「死んだ人は戻らないの、お父さん」

「言わないでくれ、そんなこと。“かあさま”だけは別なんだ。“かあさま”だけは死なない。何度でも蘇る。“かあさま”は不滅なんだ」

「私に記憶を宿したみたいに?」

「あれは失敗だった……私は焦っていたんだ。それでも、お前の中には“かあさま”の記憶が刷り込まれた……あと少し、あと少しなんだ」

「“人の道”を忘れたの?」


 清澄の顔が青ざめる。


 俺は傍観するより他はない。この瞬間は、俺の介入する余地などない。ユキと、清澄と――顔も知らない俺の母との、三人だけの対話の時間なのだから。


「“かあさま”……?」

「私はあなたのお母さんじゃないわ、お父さん。でも、私の中には、風間鏡子の意思が宿っている――お父さんが、自分でやったことじゃないの。だから私は、全てわかっている。風間鏡子が、あなたに何を言ったのか。何を伝えたのか」


 顔にかかった雪を払いのけ、ユキは険しい表情で頷いた。


「あなたの母に対する愛は、よく理解出来る――でも、あなたは人として越えてはならない境界線を越えてしまった」

「全部、“かあさま”のためなんだ。わかってくれ、私は“かあさま”にどうしても側にいてほしくって……」

「あなたは、SKAと何も変わらない」


 ユキの宣告に、清澄は硬直した。顔がクシャクシャに歪んでくる。


「あなたは自分の歪んだ行いを正当化し、人間としてあるべき姿を逸脱してしまった」

「私は、私は、“かあさま”……」

「だまりなさい」


 凛とした声で、ユキは言い放つ。それはユキ本来の心の強さが表れたもののようにも感じられるし、別の誰かが憑依しているとも捉えられなくもない。いずれにせよ、ユキの小さな体から、溢れ出んばかりの気迫を感じ取れる。


 ユキは、本物の聖母と化した。


「古来より人を殺すことの是非については議論が重ねられてきました。でも、議論になるのは答えがないからではありません。欲望や執着に負けた人間が己の悪しき心を正当化するために、『人を殺すことは必ずしも悪ではない』と主張してきただけ。本当は、答えは二極化するようなものではありません。人を殺すことは――誤った行いなのです」

「殺された人間がいる! 殺されそうになっている人間がいる! 世界を守るためには誰かを殺さなければならない! “かあさま”は、一を救うことで、千を見殺しにしろというのですか!」

「話が別です」


 清澄の反論を、ユキはぴしゃりと撥ね退ける。


「誰かを守るために戦うことと、行いとしての殺人は、同一のものとして語られるべきことではありません。人々の営みの中で運悪く命を落とす者もいる――だからと言って、人の営みを完全に否定することが出来ますか? 一方で、命を失った人が納得のいく結末を迎えたと思えますか? 清澄、あなたは“私”を蘇らせるために、策を尽くした――その結果、大勢の人間を巻き添えにすることも厭わず」

「だって、だって」

「挙句の果てには、日本人への復讐まで目論んだ」

「だって、みんなが悪いから――“かあさん”のことを、見捨てたから!」

「彼らが“私”を見捨てても、“私”は彼らを見捨てない」


 突風が吹き、雪が横殴りに吹きつけられてくる。小規模な吹雪の中で、ユキはゆったりと両腕を広げ、慈愛に満ちた笑みを浮かべて、清澄を見つめた。


「清澄。あなたは、このまま、殺人者としての生を終わらせるつもりですか? それとも、聖人になりますか? さあ、どうするのです」

「わ、私は」


 清澄は剣を上げ、下げ、また上げ、また下げる。目の前にいるユキが、母の意思にもとづいて喋っているのか、それともユキの演技なのか、判断に困っている様子だった。


 吹雪の勢いが増す。一瞬、ユキも、清澄の姿も、見えなくなった。すぐに視界は晴れ、二人の様子が見えてくる。


「お父さん」


 ユキは、また元に戻っていた。


「お父さん……私ね、赤ちゃんが出来たの」


 お腹に手を当てて、幸せそうに語るユキ。


 清澄は憔悴した顔を上げて、ぼんやりとユキのことを見ている。


「玲さんと、私の間に出来た赤ちゃん。なんか、不倫みたいになっちゃったけど、私は好きな人の子どもを宿せたから、全然後悔してない。玲さんとあやめさんには、悪いことしたけど……」

「いや」


 俺は思わずユキの最後の言葉を否定した。


 俺は、あるいは――。


「晃一と、沙希の、子どもか……」


 清澄は力なく笑みを浮かべる。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、感情が一切表れていない笑み。


「うん。お父さんの、孫だよ」

「孫……私に、孫」


 その時、雪がやんだ。


 白雪で包まれていた空間に、急に夜の闇が戻ってくる。視界が開け、金沢市街の夜景が屋上のフェンスの向こうに広がっている。遥か彼方には、白山連峰の威容がかろうじて浮かび上がっている。


「私の、孫」


 清澄は、焦点の合わない目を、右へ左へ泳がせていたが、やがて目線をはっきりとユキに合わせると、にっこりと微笑んだ。


「いいなあ……私の、孫か」


 言葉に、異様な響きがあった。


 戦闘中だったイザベラとファティマも、戦いの手を止めて、清澄のほうを向いた。何かが起きていることを察したのだろう。


「孫、か。会ってみたいな……」


 清澄は剣を構える。


「会って――みたいな」


 突然、清澄は俺に向かって突進してきた。


 剣の切っ先が、俺の胸を狙っている。咄嗟に俺は身をひねって、剣をかわした。耐火服の脇腹の部分が切り裂かれる。すぐに清澄の体を上から押さえつけようとしたが、俺の手の動きよりも早く、清澄は体当たりを仕掛けてきた。


「ぐ⁉」


 意外と重量感のある体当たりを喰らい、俺の体はズルズルと後退させられてしまう。


 屋上の端まで一気に押しやられて、俺の体はフェンスへと叩きつけられた。何か術でも使っているのか、清澄はさらに力を込め、フェンスごと俺を押し倒した。バキリ、とフェンスの下端が折れる音が聞こえた。


 フェンスが倒れたいま、奈落への空間を遮るものはない。あとちょっと外へ押し出されれば、俺は墜落してしまう。


「お父さん、やめて!」


 ユキが叫んだ。


 清澄の顔に動揺が走る。俺の上に乗っている清澄の体から力が抜けた。


 隙だ。奴に隙が出来た。いまなら、勝てる。


「おおおおお!」


 俺は、まだ自由の利く右腕で、清澄の体をガッシリと抱え込んだ。


 床を蹴り、清澄を抱えたまま、空中に飛び出す。


「いやああ!」


 ユキが叫んだ。


「沙希――」


 娘に語りかける口調で、清澄は愛しげに呟いた。それは、俺が唯一聞くことの出来た、清澄の父親としての声だった。






 俺たちは、高層ホテルの屋上から、落下を始めた。



 

 風で服がはためく。袖の長い道服を着ている清澄などは、風に煽られてバタバタと衣を激しく鳴らしている。


 胃の奥からこみ上げてくる、落下に対する恐怖心と昂揚感。


 地面に激突するまでの数秒――その間に、決着をつける必要がある。


 俺は無理だが、清澄は時の流れを操ることが出来る。墜落直前に落下の速度を抑えれば、無傷で着地出来るはずだ。だから、地面に叩きつけて勝つ、という手は使えない。落下中に倒すしか、方法はない。


 空中なら身動きが取れない。地に足をつけている状態なら全ての攻撃を避けてしまうだろう清澄も、空中ではかわしようがない。


 俺は火炎放射器の先を清澄に向け、引き金を引こうとした。


 手に衝撃が走る。清澄が、俺の手を蹴ったのだ。火炎放射器が弾かれ、頭上に舞った。武器がない。


 胸部に鋭い痛み。みぞおちに、剣が刺さっている。背中まで貫通しているようだ。ガスマスクの中で、俺は血を吐いた。


「九天応元雷声普化天尊――!」


 素早く呪文を唱える清澄。


 さっき、俺の左腕を焼いた技。剣を避雷針として、雷を落とし、相手の肉体を内部から傷つける残虐な戦法。


 胸の内部に電撃など流し込まれたら、一撃で死んでしまう。勝ち目はなくなる。


「さらばだ、晃一」


 清澄は冷ややかに別れを告げてきた。






 ふと、俺は考えた。


 どうして俺と清澄は戦っているのだろう。お互い、ユキを巡って命懸けの戦いに臨んでいる。だけど、本当にそれだけが、俺たちの戦う理由なのだろうか。


(清澄は、俺のことをどう思っていたんだろう)


 嫉妬だろうか。憎悪だろうか。


 それとも、本当は俺のことを――


 ああ、違うな。


 本当は、戦う必要なんてなかったのかもしれない。


 清澄も……俺も。


 狂っていたのは、清澄だけでなく――俺も、だった。


 どれだけ誠意を持って生きようとしても、俺は罪もない人間を次々に焼き殺していった狂気の殺人鬼。自分でも気が付かないうちに、俺の精神は――


 俺の精神は、平和よりも戦いを、活かすよりも殺すことを、好むようになってしまっていた。


 殺人鬼マッドバーナー。


 生き別れの兄をも炎で焼き殺そうとする、悪魔の化身。


 それが俺だ。


(でも、俺は……)


 たとえ人殺しであろうと、守りたい人間がいる。俺は罰を受けてもいいが、大事な人だけは最後まで守り抜いてから、死んでいきたい。


 だから、その大事な人を傷つけようとする清澄を――俺は、倒さなければならない。


 戦いを避ける道はない。


 俺は、清澄を、絶対に倒さなければならないのだ。






 雷鳴が上空から響いてくる。


 間もなく落雷が襲ってくる。俺の胸に刺さった剣へと目がけて。そして、俺はあっという間に内臓を焼き尽くされて、死ぬ。




 高速で落下してゆく俺たちを追いかけるように、ホテルの壁面に沿って、雷光が走ってきた。光の速さで迫り来る稲光。もう、助かる術はない。




(だめか……)




 空中だから攻撃を避けられないのは、俺も同じだ。観念して、敗北を認めた。せめてユキだけでも無事に生き延びてほしいと、願った。




 その瞬間、奇跡が起きた。




 雷は俺のすぐ上で止まった。何かにぶつかったと思ったら、空中に四散して、掻き消えてしまった。俺の胸の剣まで到達しなかった。




 火炎放射器だった。


 清澄が蹴り飛ばした俺の火炎放射器が、ちょうど落雷の軌道上に飛んでいたため、代わりの避雷針となったのだ。




「馬鹿なっ――⁉」


 清澄が目を見開いた。




 俺はすぐ上を落下している火炎放射器に右手を伸ばし、掴み寄せると、清澄に噴射口を向けた。


 今度こそ。




「さようなら、兄さん」




 死にゆく者への、せめてもの贈り物。


 俺は、清澄のことを、「兄さん」と呼んだ。それを奴がどう感じたのか、俺にはわからない。あまり聞こえていなかったのかもしれない。




 俺が引き金を引く直前、清澄は、「お母さん」と呟いた。




 炎が噴き出る。清澄の目には、どう映っているのか。時間の流れを遅くして、ゆっくりと火炎が迫ってくる様を眺めているのか、それとも恐怖心を和らげるために、時間を早回しにしているのか。


 どちらにせよ、俺には関係ない。




 火炎は、清澄の鼻先まで迫った。俺にもまた、全ての流れがスローモーに見えた。






「う お お お お お お!」






 清澄の絶叫が、耳奥にまで響いてきた。







 ※ ※ ※






 清澄は海の上に立っていた。


 水平線が霞んでいる。すぐに清澄は、自分の立っているこの大海原は、まっすぐ平行に、どこまでも続いているのだと悟った。地球上の海ではない。どこか別の星……いや、別の世界か。


 肩を叩かれた。


 振り返ると、“かあさま”が立っている。


 謝ろうとした。自分が犯した罪の数々を、母に懺悔しようと思った。


 母は柔らかな笑みを見せて、首を横に振った。「もういい」と言ってくれているようだった。


 永遠に続く海。果てのない時間。やがて自我も溶けてゆくであろう無限の世界で、清澄は母といつまでも二人でいられることに喜びを感じていた。


 死んでも独りぼっちではなかった。


 “かあさま”は約束を果たしてくれた。先に天国で待ってくれている、と幼い清澄に誓ってくれた“かあさま”は、本当に待ってくれていた。


 清澄は母と手を繋いだ。長い間待ち望んでいた、母の温かい手。


 涙がこぼれた。清澄は母の体に顔を埋め、泣きじゃくった。幼い頃に奪われてしまった幸せな時間が、ようやく自分のもとへと帰ってきた。


 もう、何も要らなかった。


 母と一緒にいられる時間さえあれば。

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