第120話 一閃

 “奴”、キングナックル・ケインは、バーから見える金沢の夜景に見惚れて、ワイングラスを片手にぼんやりとしていた。


 一年前、警察署長を襲撃して、撲殺した時のことを思い返している。


 どうして自分はフォーチュン教授の指示に逆らい、あの赤ん坊を殺さなかったのだろうと不思議に思う。


 それだけではない。


 他の殺人の時も、なぜか子どもだけは殺していない。いや、殺せない。


 ティーンエイジャー以上であれば容赦なく殺せる自分が、見るからに子どもとわかるような人間相手には、急に動悸が激しくなり、殴れなくなってしまうのである。


(なんでだろうか……)


 ケインは頭をひねって考えるが、わからない。


 彼は、大事な記憶を思い出せずにいた。



 ※ ※ ※



 ケインは、アメリカの農村に生まれた。


 彼の父親は、暴力男だった。そして変態でもあった。妻はいない。離婚していた。顔立ちの整っているケインに女装をさせては、性行為に興じていた。近所では善良な男で通っているが、家では本性を露わにしていた。


 ケインには弟がいた。幼い赤ん坊だった。父はさすがに弟にまで手は出さなかったが、いずれ成長したら父の慰み物になるのは、時間の問題であった。


 ある日、近所に住む黒人男性が、たまたまケインの父の変態行為を目撃した。小さな子どもになんてことをするんだと、憤慨した黒人男性は、警察に訴え出た。


 警察の訪問を受けた父は、シラを切った。実際、ケインに対して暴力を振るったわけではなく、ただ女装させての性交渉を楽しんでいただけなのである。そこに強姦や虐待の事実を見つけられなかった警官たちは、問題無しとして署に帰っていった。だが、黒人男性は、納得していなかった。


 その後も、ケインの父の行為は続いていた。直腸まで引き裂かれるのではないかという激痛に、ケインは何度も泣き叫んだ。次第にエスカレートした父の行為は、やがて近所の他の人間にも知れ渡ることとなった。それでも、誰も止めようとはしなかった。最初に発見した黒人男性を除いては。


 ケインが八歳の時、事件が起きた。


 堪りかねた黒人男性は、家に押し入り、ケインの父を銃で撃ち殺すと、ケインを外へと連れ出したのだ。


 外に出た瞬間、ケインは金切り声を上げて、黒人男性の手を振り払った。家の中に入って、父の死体にすがりつき、オイオイと泣きじゃくった。


 ケインは父が嫌いではなかった。犯されるのは苦痛であったが、それでも父のことが好きで、ずっと一緒にいたかった。それなのに、黒人男性の勝手な価値観で、大好きな父を殺されてしまった。自分は助けなんて求めていなかったのに。


 包丁を持ったケインは、外に飛び出すと、黒人男性を刺した。何度も何度も刺した。「ニガー! ニガー!」とひたすら罵声を浴びせ続けた。黒人男性が動かなくなってから、ケインはまた家の中に入ると、幼い弟を抱えた。適当に金をポケットに突っ込み、逃げ出した。


 その後、弟と放浪していたケインだったが、ついに一ヵ月後、弟は風邪を悪化させて死んでしまった。


 悲しみにくれるケインの前に、一人の老人が現れた。中国の嵩山少林寺を追われた破戒僧だった。


「命は流転する。生殺もまた然り。お前の父が殺され、弟が死んだのも御仏の導きだ。殺すことは禁忌ではない――自然の摂理だ」


 僧侶の教えを受けたケインは、彼に師事して拳法を学んだ。体内の気を練り、通常の何倍もの破壊力や防御力を生み出す技も会得した。


 人を活かさず、殺す。


 全ては運命なのだと、師は教えてくれた。ならば、自分が人を殴り殺すのもまた、運命。


 彼は力を得て、師の下を離れると、殺人活動を開始した。


 ターゲットは、黒人中心だった。無論、彼の父を殺した男が黒人であったこともあるが、理由はそれだけでなく、ただ無差別に殺していても芸がないので、ある程度の基準を設けようと考えた――その結果、わかりやすく肌の黒い人間を中心に殺せばいい、と心に決めたのである。


 やがて、対象は有色人種全体に広がっていった。


 殺す、殺す、殺す。


 ケインは余計な思想など持っておらず、歪んだ性癖から人を殺すのでもなく、ひたすら殺人という行為にこだわり、楽しみを感じ、ライフワークとしていた。すなわち、ケインは言うなれば、最も殺人鬼と呼ぶにふさわしい男なのである。


 人を殺すことが、自分の運命。天殺星をその身に宿し、いつか死ぬ日までとにかく人を殴り殺し続ける――ケインという男は、そんな狂気の塊だったのである。


 そのケインでも、幼い子は殺せない。絶対に殺せない。


 原因は、弟を死なせてしまったことがトラウマになっているからに、他ならない。だが、当の本人は、そんな過去のことは忘れ去ってしまっていた……。



 ※ ※ ※



「オーウ、イエローモンキーガキマシタカ」


 バーの中に入ってきた倉瀬に対し、カウンターに座っているケインは、後ろを振り返らずに声をかける。


 電気が切れて暗くなっているバーの中。窓の外、眼下に広がる金沢市内の夜景が眩く見える。店内が暗い分、余計に外が明るく感じられる。いい雰囲気だ、とケインは微笑んだ。世紀の格闘ショーをやる舞台として、実にふさわしい。


「藤さんの仇を討ちに来た」

「フジサン? フジヤマノコトデスカー?」

「とぼけるな。お前が殺した警察署長のことだ」

「オウ、アノヒトデスカ。ワタシガハンニント、シッテタノデスカ?」

「色々あってな。あるいは、金沢へ行く列車の中で、初めてお前さんと会った時から、薄々感づいていたのかもしれない」

「ナルホド。アノトキノ、ジイサンデスカ」


 ケインは丸椅子を回転させて、倉瀬と向き合った。


 ちょうど、暗かった店内に灯りがともされた。倉瀬の横の水槽も青白く光り、空気ポンプがゴポゴポと作動を始めた。リビングドールが、このバーにだけ電気を供給させているのだ。倉瀬が戦いやすくなるよう、室内を明るくして。


「デハ、ハジメマショウカ」

「ああ、始めよう」


 倉瀬とケインは、お互いに歩み寄っていく。間合いが一拳一足の距離まで近づいたところで、二人は足を止めた。


 動かない。


 勝負が一瞬で終わることをわかっているからだ。


 両者ともに、拳を極めた男たちだ。無駄に手数を重ねて立ち回ることはまずないだろうと、予測を立てていた。


 どちらかが動き、どちらかが返し、その結果片方の攻撃だけが決まる。


 一方は、死ぬ。一方は生き残る。


 刹那の攻防で全ては決まる。




 倉瀬は脚に力を込める。筋肉が隆起し、重心の乗せられた前足によって床が凹む。あからさまな体重のかけ方は、フェイクに他ならない。




 ケインは読んでいる。倉瀬の思惑を読んでいる。前体重に乗せているのは誘い。攻撃を仕掛けた瞬間、倉瀬は後ろへと体重移動をさせ、射程距離に飛び込んできたケインの頭に、回し蹴りを放つ気だ。




 倉瀬は、ケインが警戒して攻撃してこないだろうことを承知している。だから、自分から仕掛けようと考えている。




 ケインは、倉瀬から先に攻撃してきた時のことを想定している。甘く考えてはいない。予想を遥かに上回るスピードで来たら、対応が遅れることになってしまう。自分よりも少し速い、という予測を立てて、心の準備をする。




 倉瀬は、呼吸を整えた。




 ケインは倉瀬の変化に気が付いた。仕掛けてくる。




 倉瀬は最後に覚悟を決めた。不殺活人。少林寺拳法の教え。人を活かす拳が、少林寺拳法の拳なのだ。その教えを、一回だけ、破る。


 殺す。この敵を、殺す。




 ケインは身構える。


 ただ反撃するのではない――こちらから仕掛ける。交差しながらのカウンター。ハイスピードでの正面からのぶつかり合い。確実に殺せる。




 倉瀬は思い返す。生きている者、死んでいる者。大事な仲間、愛する人。


 殺された藤署長。命を落とした上杉小夜。あえなく散っていったヤクザの冨原。無念のうちに息絶えた数多くの人々。


 助けを求めている風間ユキ。長年の敵でもあり、心強い味方でもあるマッドバーナー。大怪我を負いつつも、自分のために尽力してくれた八田刑事。


 まるで娘のように自分の生還を願っているリビングドール。


 そして、東京で自分の帰りを待つ、妻の静江。




 ケインは気炎を吐く。


 罪を犯していないのに惨殺された父。


 何もわからないまま死んでいった弟。


 自分に、命というものの本当の価値を教えてくれた、拳法の恩師。


 彼らの想いを両肩に載せて、ケインは今夜も相手を殺そうとしている。殺すことこそが、自分の全てだから。




 倉瀬の重心が、密かに、後ろへと寄せられた。




 ケインは、床を蹴った。




 倉瀬も、跳んだ。

















 ケインの拳が、倉瀬の左胸に当たり――あばら骨を、叩き折った。

 



 内臓まで衝撃が伝わり、倉瀬は血を吐いた。


 吹き飛んだ倉瀬の体が水槽に当たり、ガラスが砕け、破片と深海魚が床に散乱した。

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