第114話 女神の誕生
「っ――!」
激痛に涙目になりつつも、あやめはすぐに右手で自らの左肩を掴むと、グッと力を込め、強引に脱臼を治してしまった。
また攻撃を再開する。
小太刀を振り回し、時おり返されてくるモリガンの反撃をかわしながら、何度か有効な斬撃を決めてゆく。絶望と恐怖の中で、あやめは微かな勝機を感じていた。
(この調子で攻撃が成功していけば、もしかしたら――)
勝てるかもしれない。
そんな甘い考えを持った瞬間、モリガンの平手打ちが、あやめの頬にぶち当てられた。
首の骨が折れそうなほどのパワー。
咄嗟に、自ら体を浮かせて吹き飛び、受身を取ったおかげで、致命傷は避けられた。それでも、脳震盪を起こしそうなほどの高威力の攻撃を喰らい、あやめはまともに立てない状態となった。
「つまらないわ。人間なんて、結局そんな程度?」
あくびをしながら、モリガンは歩み寄ってくる。
地面に這いつくばっているあやめは、一所懸命身を起こそうとするが、体が言うことを聞かない。指が、砂を虚しく掻き毟るだけだ。
「いつの時代も我々に勝てる人間はいなかった。そしてある日私は確信したわ。……我々三姉妹は、本当に神なのだと」
起きないと。早く起きないと。
だけど、体が。
学円は、学円お義父さんは、どうしてる――?
「シリアル・キラー・アライアンスに興味を持ったのは、ルクスが神の視野を持っていたから。わかるかしら? 人は人を殺す。人は、それを悪とする。だけど、彼はその概念を根底から覆そうとしている。人が人を殺すことこそ正しい姿なのだと――まともな人間の考えることではないわ。でも、だからこそ興味を持った」
あと三歩で、あやめの頭を踏み潰せる場所まで、モリガンは近づいてきた。
「正直、気に入らないわ。人間が人間を虐げる姿ほど、醜悪なものはない。だけど、もしかしたら、彼もまた私たちと同じ神なのかもしれない。だから、神の視野を持っているのかもしれない。そう思って、シリアル・キラー・アライアンスに加入してみた。だけど――結果は、残念だったわ」
あやめの目の前で、モリガンの足が止まった。黒革のブーツが視界に入ってくる。
「彼もまた、ただの人間。それも、いつか来る世界の終わりに怯えるだけの脆弱な――それだけの存在よ」
「あなたは、怖くないの?」
痛む頬を我慢しながら、なんとかあやめは口を開いた。
「何が?」
「世界の終わりよ。神であろうと、その瞬間には、存在しえない。あなたは、恐れていないの?」
「何を恐れるのよ」
クスクスとモリガンは苦笑する。
「意味がわからないわ。人間って、みんなそう。生きるのが怖い、死ぬのが怖い。それが何? 怖いと思うから怖い。だったら思わなければいいだけの話よ。簡単な話。なんで、それが出来ないのかしら」
「あなたには――わからないでしょうね」
神の視野、などとほざく女には。
「でも、私はそんな人間が大好きよ。足掻いて足掻いて、それでも短い生を散らせていく人間たち。それがとても大好き」
「短い生? ふざけないで、十分な時間はもらっているわ」
「私から見れば一瞬の輝きよ。だからこそ愛くるしいの。あなたたちだって、自分より長寿なペットを可愛いとは思わないでしょう?」
「私たちは、お前たちの愛玩動物じゃ、ない」
「残念だけど、それが世の摂理よ。私は、あなたたちの頂点に立つ存在。世界中の人間は、私にひれ伏すの」
世界中の人間が。
ひれ伏す。
「……」
あやめは声に出さないで笑っている。
「どうかしたの?」
モリガンは眉をひそめ、小首を傾げる。あやめはあえて癇に障るような笑みを浮かべたまま、モリガンを見た。
「世界中の人間が、ひれ伏す? 馬鹿言わないで――あなたなんて、ただの痴女じゃない。世界の人間の頂点に立つことなんて無理よ。それくらいもわからないの?」
「私がその気になれば、全員奴隷にすることも可能よ」
「それでも、力づくね。いいわ、大事なことを思い出させてあげる。二千年近く前に、すでに世界中の人間の頂点に立った男がいるのを忘れた? それも、力ではなく、心で」
「……」
「彼が起こした宗教は、いまや世界中に広まり、人々の心を支配している。だけど、あなたはどうかしら? 仮に本物のケルトの神だとしても、誰があなたたち三姉妹のことなんて知っているかしら? もう手遅れよ、世界はあなたたちにひれ伏さない。あなたたちはただ指を咥えて、自分たちを追い出した宗教――キリスト教が世界を席巻する様を見守ることしか出来ない。この圧倒的カリスマの差は、いくら暴力で覆そうとしても、無茶な相談ね」
「なるほど、面白いことを言うわ」
モリガンは肩をすくめて、微笑んだ。
目は、笑っていない。
「でも、そういう生意気なことは――勝ってから言ってちょうだい」
鞭を振り回す。宙に渦を巻き、小さな竜巻を起こした後、あやめ目がけて振り下ろした。
あやめは跳ね起きた。
すでに体力回復していたあやめは、すぐに小太刀を構え直すと、鞭を回避しつつ、モリガンの脇腹を狙って斬りつける。
攻撃は成功した。切り裂かれた脇から血が飛び散る。モリガンは顔をしかめた。
「あん、もう――そろそろ、鬱陶しいわよ!」
横を通り過ぎようとするあやめを捕まえようと、モリガンは手を伸ばした。
その瞬間、モリガンは完全に意識をあやめにしか回していなかった。明らかに大きな隙が出来ていた。
「けああああ!!」
裂帛の気合とともに、学円が飛びかかってきた。
錫杖が、モリガンの後頭部に激突する。
ズン、と衝撃が走る。
「あぅっ――!?」
さすがのモリガンも、気を抜いていたところに渾身の一撃を喰らい、目から星が飛び出そうになる。脚から力が抜け、よろめいた。
「やっ!」
脇腹を斬った後、向きを変えたあやめは小太刀を腰溜めで持ち替え、飛び込みながらの刺突を放つ。
刃が、モリガンの柔らかな腹部に突き刺さった。
モリガンは、目を丸くしていた。
ミリヤード三姉妹は、自分たちが何者であるかを憶えていない。
人間を遥かに超える歳月を生きてきたことは確かだし、地球上のどんな生物よりも優れた身体能力を持つことも真実である。
だけど、その事実が即、彼女たちが「神」であるかどうか、の答えを導き出すことには結びついてくるわけではない。
少なくとも、彼女たちが1595年のイングランドで生まれたことは確かである。
※ ※ ※
モリガン――当時は別の名前を持っていたが、すでに当人は忘れている――は、ある日市場から家に帰ると、兵士たちが母親を連行しようとしている場面に出くわした。
「どうしたの、お母さん!?」
駆け寄ろうとするモリガンだったが、兵士たちの異様にギラついた目を見ると、足が竦んで動けなくなった。様子が穏やかでない。集団で熱に浮かされたような、狂気を帯びた目つき。その中でも、一応は冷静そうな表情の隊長が、剣の先をモリガンに突きつけ、
「あいつも捕えろ」
と部下に命令してきた。
モリガンは駆け出した。後ろから、追ってくる兵士の足音が聞こえてくる。知らぬ間に涙をこぼしていた。モリガンにはわかっていた。自分の母に何が起きているのか。
魔女狩りだ。いまだ古い呪術を信じている母を、誰かが密告したのだ。「あの女は、魔女だ」と。
1590年代、イングランドでは魔女狩りが盛んだった。それはほとんど流行とも言えるくらい、多くの罪もない人々が魔女裁判にかけられ、残酷な刑罰によって命を落としていった。
他の国と違って、イングランドにおける魔女狩りはそれほど長くは続いていない。それでも、モリガンたちは運悪く、犠牲者となってしまった。
結局、少女の足では逃げ切れず、モリガンは兵士たちに捕まえられてしまった。
そこからは地獄の日々だった。
娼婦同然に兵士たちの慰み物とされ、人間よりは性処理の道具扱い。妹たちは幼かったが、“その趣味”がある兵士たちには弄ばれていた。モリガンは知らなかった。裁判だけで終わるものと思っていたのに、まさか死ぬ前に絶え間ない地獄の苦しみを与えられるとは、予想もしていなかった。
「おお、おお、主よ! 主よ!」
ある兵士は、モリガンの尻に自分の腰を叩きつけながら、絶頂に達する瞬間こう言って果てた。
そのとき、モリガンは悟った。
人間の本性は下種なのだと。どれだけ高尚な教えを受けようとも、人間は下種なのだから、救いようがないのだと。
何が贖罪だ。何が救済だ。
茨の冠をかぶった聖人により創られた宗教が、こうして狂った人間たちのもとで暴走し、何も悪いことをしていない自分たちを苦しめている。
(畜生、畜生、畜生)
豚め豚め豚め。
人間なんて、豚だ。どいつもこいつも下賎な豚だ。もしも魔女裁判を生き延びることが出来たら、人間たちに復讐してやる。いや、ただの復讐ではない。むしろ憎むのではなく、愛してやろう。ただし、家畜としてだ。ペットとしてだ。犯し、いたぶり、殺す。それが自分の人間に対する復讐だ。
そう、モリガンは誓っていた。
だが助かるとは思っていなかった。自分には、熱い釘が打たれると聞いていた。それで傷つかなければ、無実が証明されると言われていた。
無理だ。
男たちの体液に溺れながら、ぼんやりと、モリガンは自分が救われることはないだろうと感じていた。
ところが、奇跡は起きた。
モリガンに突き刺さろうとした釘は、ことごとく肉はおろか肌をも傷つけず、弾かれてしまったのである。
そればかりか、妹二人についても、一人は熱湯を飲まされても艶やかな声で歌う事が出来、もう一人はロープで馬に縛られていても馬と同じ速さで走ることが出来た。
母親だけは炎の中に手を突っ込み、大火傷を負ってしまい、有罪となった。だが、三姉妹は、普通なら助からない拷問を乗り越えたのである。
奇跡としか言いようがなかった。
だが、釈放された三姉妹を待っていたのは、奇跡の子に対する慈しみではなく――モンスターを見る目だった。
村に帰ったモリガンたちに、誰も近寄ろうとしなかった。以前にも増して、モリガンたちを魔女扱いする村人まで出てくる始末だった。
モリガンは、いちいち人間に対して絶望する気は起きなかったが、それでも哀しく思った。何もしていなくても責め苦を受け、何かすれば迫害される。
(人間は理解出来ないものは排除する――いえ、違うわ。そんな生易しいものじゃない。人間は――)
三姉妹はイングランドを出て、アイルランドに移り住むことを決意していた。それは、モリガンが見出した、人間の本性に対する結論によるところが大きかった。
「人間はね、嫌いな人間を殺そうとするんじゃないの。殺したいから、誰かを嫌いになるの。よくわかったわ――人間は、この世界で最も下等な生き物よ」
くたびれた表情の妹たちは、モリガンの言葉に黙ってうなずいていた。
「だから、北へ移る――あっちでは、魔女狩りが行われなかったと聞くわ。歪んだキリストの教えなど存在しない世界――そして、森の奥の人気のない場所で、ひっそりと生きていくの。私たち姉妹だけで愛し合って、ひっそりと……」
やがて三姉妹は、アイルランドの古城に居を構え、生ける伝説となった。そして、アンチキリストとしての姿勢を貫くため、自分たちをキリスト教によって追い出された古代の女神たちになぞらえ、「神」として生きるようになっていった。
何百年もの時の中で、いつしか記憶は薄れ、彼女たちは本来の自分を忘れた。もう、何万年も前から「神」でいるような気になっていた。永遠に近い時の流れの中で、常人には達しえない“狂気”の域へと、彼女たちは到達してしまったのだ。
つまり、彼女たちは人間を超えた能力を持つだけの――結局は人間と同じ、狂える殺人鬼の仲間――に過ぎないのである。
ただ、その能力は本物だ。
どうして魔女裁判で能力が覚醒してしまったのかは定かではない。それこそ、「神」の気まぐれなのか。
モリガンたちの精神は、その奇跡の能力も相まって、もはや、まともな人間の形を留めてはいなかった。
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