第105話 崩壊の序曲
―2009年10月28日―
金沢 遠野玲自宅
退院したあやめは、すぐに夫とユキの関係が以前のものと違うことに気がついた。特に、ユキの行動を見ていると、よくわかる。二人の間に何かがあったことは明白だった。
しかし、あやめは不思議と何も感じなかった。
普通ならば、いつ気が触れてもおかしくないような緊張感の中、命懸けの戦いを強いられてきたのである。その中で、何人もの味方が命を落としていった。生命の危機に瀕した動物が、本能で生殖行為に走るのは当然のことである。むしろ、自分がいない間、夫とユキの間に何もなかったとしたら、それこそ異常である。
嫉妬はしている。
哀しくもある。
だけど、あやめは、夫が心から愛しているのは自分だけであることを知っている。自分に対する愛と、ユキに対する愛は別種のものであると理解している。ユキとセックスしたからといって、それは自分に対する裏切りではないし、ユキを女として愛しているということでもない。そう、考えていた。
でも――
それでも、あやめはわざと、二人に詰問した。
玲もユキも弁解出来ず、一夜限りとはいえセックスしてしまったことを白状せざるをえなかった。
「悔しいぃぃぃぃい!!」
背後から玲の頭をポカポカと叩く。
あやめが入院している間のことを看過されて、言葉を失っていた玲は、抵抗することもなく、あやめの猫パンチを黙って受けていた。
「なによ、なによ、なによ! そんなに女子高生とHしたかったわけ!? 私が入院しているのをいいことに、この浮気ものぉ!!」
「すまん――いや、その――ごめん」
「だめっ! 許さない!」
腕を回して、首を絞める。玲は「グエッ」と呻いて、あやめの腕に、手でタップしたが、あやめはギブアップを受け入れようとしなかった。
玲の意識が、落ちた。
「ふう……まったく、もう」
床に倒れた玲を見て、あやめは溜め息をつく。そんな光景を目の前にして、ユキは体を震わせていた。玲の浮気相手でもある自分は、どんな酷いことをされるのか――と思いきや、あやめは冷蔵庫に向かい、ペットボトルのオレンジジュースを取り出し、ユキをほっといて飲み始めた。
「あ、あの」
「……なに?」
ペットボトルから口を離し、あやめはユキを睨む。
「怒って……ないんですか」
「怒ってるよ。むちゃくちゃ。愛する人を寝取られたら、誰だって怒るでしょ」
「寝取っては……いないと思います」
「知ってるよ。玲くんはそんな人じゃないもの。愛情までユキちゃんに移るようだったら、それこそ本当に殺してたかも」
あやめは倒れている玲に近寄り、頬を軽く叩いた。気を失っていた玲は、小さく首を振り、意識を取り戻した。
「でもね――私はね、アリだと思ってる」
「あやめさん……?」
「なんとなく、そんな予感がする。これから先の戦い……私たちは、こんな感じでいいんだと思う」
「どういうこと、ですか?」
「ユキちゃん。私と玲くんが、これだけ愛し合ってるのに、なんで子どもが出来ないんだと思う?」
「え」
「私はね、子どもを産めない体なの。アマツイクサの任務で、私は色々な男と寝た。当然、妊娠しちゃうことだって何度かあった。何度も何度も堕ろした。そうしているうちに……私は、もう子どもが埋めなくなっちゃったの。体が、壊れちゃったんだね」
深刻な話をあっけらかんと言われて、ユキはうろたえる。それに、申し訳なさで胸が一杯になってくる。子どもが出来ない夫婦の間に割り込んで、欲望のままに玲と交わり、その結果妊娠してしまった自分――あやめに対して、なんて残酷なことをしてしまったのだろうか。
「あやめさん、私――!」
「いいよ、ユキちゃん。謝らなくて。もちろん、そう簡単に許す気はないけど。謝罪の言葉は胸の内に秘めておいて。言葉では許せなくても、心では許せる――そういうことってあるでしょ? 私の気持ちは、まさにそんな感じ。だから、言わなくていい」
「でも……」
「いいから、いいから。その代わり、生まれてくる子どもは、私の子どもでもあるんだからね。私にも育てさせてよ」
「そんな――“にも”、だなんて……私に、育てる権利なんて、最初からないです……」
「だーかーらー、そういうこと言葉に出さない。言葉にされたら許せなくなっちゃうでしょ。心の中で、呟いてちょうだい。いい?」
「う、うん」
ユキは小さく頷いた。
しかし、いまだ納得していないことが、ひとつある。あやめが先ほど発したセリフだ。
――これから先の戦い……私たちは、こんな感じでいいんだと思う
あの言葉に秘められた、虚ろな諦観。あやめの覚悟が感じられる。
今後、戦いが終盤に差しかかるに当たって、誰が生き延びて誰が死ぬか、予想は難しい。
あやめは、自分が死ぬことも視野に入れている――そんな印象を受けた。
(いやだ……)
ユキは、胃がキュゥと締めつけられるような痛みを覚えた。
(やだよ……もう、みんな、死なないで……)
だが、マンハントを止めるには、SKAを壊滅させるか、ユキが死ぬか、どちらかの方法でなければ不可能である。自分が死ぬのが一番手っ取り早い方法であるが、しかし、ここに来て自殺などすれば、それこそ今まで自分のために命を落とした人々の魂が報われなくなってしまう。
死ぬことすら許されない。
(もう終わりにして……)
ユキは目を閉じた。
少しでも長く、目の前の現実をシャットアウトするために。
※ ※ ※
―金沢市内 某所―
リビングドールは、床を這うケーブル類を踏まないように注意しながら、PCの所へと歩を進めていった。
キーボードを叩くと、スクリーンロックの掛かった独自OSの画面が立ち上がる。WindowsもLinuxも信用していない彼女は、自分で組んだプログラムで、専用のOSを構築していた。世界でただひとつのOSでありながら、これまた自作の変換ツールを使えば、市販のOSとの互換も行えるという優れもの。電脳世界を飛び回る世界最高峰の情報屋リビングドールとしては、毎日のように新種のコンピューターウィルスの脅威にさらされている市販のOSなど、頼りにならないシステムに過ぎない。
スクリーンロックを解除すると、画面上に無数のウィンドウが表示される。それら全てに一瞬で目を走らせると、必要なウィンドウにカーソルを合わせ、拡大させた。
「東京・渋谷で怪しげな男あり……」
涼やかな声でリビングドールは情報を読み上げる。それは、東京にいる情報屋、赤城徳三からのメールだった。
リビングドールは、渋谷センター街に設置されている、公安の隠しカメラの映像を画面上に表示し、各地点ごとの映像を順次切り替えながら、そこに映っているものを注視していく。赤城徳三の情報では、一時間前にセンター街の片隅で佇んだまま、身動きひとつしていない、とのことだった。まだいるのであれば、すぐに発見出来るはず。
いた。
HMWの階段脇に座り込み、動こうとしていない。
茶色のローブを着た、性別・年齢不詳の人間。リビングドールには、そのローブを着た人間が、三元教の信者であるとわかっていた。
ここ最近、三元教の動きがおかしい。特に、六月に金沢で大量虐殺事件が発生して、日本中が慌ただしくなっている中、そんな状勢に紛れるかのように、三元教は不穏な活動を頻繁に繰り返していた。武器の調達をしたと思われる節もあったが、さすがのリビングドールでも、正確な情報を掴むことは出来なかった。
「何を、企んでいるの」
画面上の人物を、観察し続ける。旧式のOSの時は、情報を処理するだけで五時間かかったこともある。待つことには慣れている。
一時間後。フードの人間は立ち上がり、フラフラとセンター街を歩き始めた。その歩みに合わせて、カメラの画面を切り替えていく。
やがて、フードの人間は、センター街を出た。
「……?」
公安のカメラとは違うが、別の非合法団体が設置したライブカメラに切り替え、スクランブル交差点が見られるようにした。
フードの人間は、スクランブル交差点の真ん中に立ったところで、ピタリと歩みを止めた。
横断歩道を渡る人々が、黙って突っ立っているフードの人間を、通り過ぎ去りながら振り返って見ている。密集した人込みの中で、そのフードの人間だけ異様な存在感がある。
「まさか――」
リビングドールは身を乗り出した。
これから何が起きるのか、彼女には予測がついた。そして、それは現実のものとなってしまった。
※ ※ ※
―渋谷 スクランブル交差点―
スクランブル交差点の真ん中に立っているフードの男は、着ていた衣服を脱ぎ捨て、上半身裸になった。しかし、ただの裸ではない。
全身に巻きつけられている異様な物体。
「え、うそ――」
「ちょ、やだ⁉」
男の体に巻きつけられている物の正体に気がついた通行人たちが、目を見開いて、口々に騒ぎ始める。
映画などでしか見たことはないが、それでも男が何を体に巻いているのか、ひと目見てわかった。
爆弾。
平和な日本では、これまで爆弾の脅威など無縁なものであったが、金沢で大量虐殺事件が発生して以来、人々はテロの動きに対して敏感になっていた。すぐに周りの人間は騒ぎ始め、悲鳴を上げながら、一斉に逃げ出そうとした。
が、爆弾男の動きのほうが早かった。
「カミサマー!」
気の抜けた掛け声を発し。
男は、手に持った爆弾のスイッチを押した。
轟音とともに爆発が起き、多くの人間が粉々の肉塊となって吹き飛ばされた。
血煙と、炎と、バラバラの肉体が弾ける。
賑やかな渋谷のスクランブル交差点は、一瞬にして地獄絵図と化した。
同時刻。
那覇、福岡、大阪、京都、名古屋、小田原、仙台、盛岡、函館……日本各地の都市で、同じような自爆テロが発生していた。
全て、三元教の信者によるものであった。
この時を境に、風間清澄の日本に対する報復活動が開始されたのである。
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