第103話 月下の交わり
あやめのいない室内は、どこか寂しげだ。いつもはあいつが冗談やボケを言い、それに俺が突っ込んで、ユキがクスクスと笑っていた。賑やかで楽しかった。今は、あやめが入院しているため、誰も場を明るくしてくれる人がいない。
「お風呂、先、入ってもいい?」
ユキに聞かれて、俺は手を振った。着替えとタオルを持ったユキは、バスルームに入っていった。一度ドアが開き、籠の中に服や下着が投げ入れられる音が聞こえた。俺は終始テレビを見ていた。
ちょうどテレビの深夜バラエティ番組が終わる頃に、ユキは風呂から出てきた。そのまま布団へと直行し、ユキは動かなくなった。
「風邪引くぞ」
掛け布団の上に寝転がっているユキに、俺は声をかけ、寝室に向かう。パジャマを着ているが、冷房が利いているので、本当に風邪を引いてしまう。俺は彼女の体の下から掛け布団を引っ張り出し、体にかけてやった。
俺もシャワーを浴びて体中の汗を洗い流すと、リビングの明かりを消して、ソファに腰かけた。暗い室内から、窓の外の月をぼうっと眺める。
いつしか、眠りについた。
声が聞こえた。
うっすらと目を開けると、寝ている俺の上に、スーツ姿のリリィ・ミラーが立っていた。
「SKAの幹部が……なんの、用だ」
まだ夢見心地のまま、俺は彼女に尋ねた。
突然、相手は唇を重ねてきた。
何か術でもかけられているのか、俺は抵抗することが許されず、相手の行為になすがままとなっていた。
五分ほどの長いキスを終えたリリィは、今度は寝室へと向かった。
あっちにはユキがいる。
「ま、て」
さすがに危険を感じた俺は、敵を止めるため、金縛りにかかった体を起こそうと必死の試みをしたが、指一本動かすことは適わなかった。
やがてリリィは寝室から出てきた。
「安心して。大事な道具を殺したりはしないわ」
そうして凄絶な笑みを浮かべる。
「でも、これは私なりの矜持――あなたたちには煮え湯を飲まされてばかり――だから、色欲の悪魔の名を持つ私なりの、ささやかな復讐をさせてもらうわ」
「何を、した」
「風間清澄と出会ったあなたたちは、無意識下に恐怖を植えつけられた。そこに生じた心の隙へ、ほんのちょっとの生存本能と生殖願望を補ってあげるだけ……あとは、結果をご覧あれ、といったところ」
リリィの笑い声が暗い室内に響いた。
そこで俺の意識は一度途切れた。
次に目が覚めたのは、いつのことか。
まだそんなに時間は経っていないようだ。窓の外に月が見え、室内は変わらず暗い。
ただ、ひとつ変化がある。
俺の首に腕を絡ませて、ユキが膝の上に載っていることだった。
(ユキ……?)
考える暇もなく、ユキは俺と唇を重ねてきた。舌が入ってくる。静かで官能的な息遣いが聞こえてくる。同時に、ユキの口の中から、アルコールのようなものが流し込まれてきた。甘い。冷蔵庫に入っていたカシスオレンジのようだ。
眠気で判断能力を失っているところに、微量のアルコールを含み、俺は抵抗出来ずにいた。いや、ユキのキスがあまりにも上手だったからか、そもそも抵抗する気が起きなかった。あやめの顔がチラチラと浮かぶが、ユキの手が俺の体を撫でさする、その淫らな動きに合わせて、徐々に意識は欲望に呑み込まれつつあった。
それでも妻への想いから、俺はユキを引き剥がそうとする。
ユキは俺の腕を押し返し、また強引にキスをしてくる。唇や舌を絡める音が、静かな室内に響いた。
お互い理性を失いつつあった。ユキは体を滑らせ、俺のズボンをゆっくりと下ろす。
もう、ユキに逆らう気は全くなかった。
ひたすら彼女のすることに身を委ねていた。
(なんて、ことを――)
微かに残っている理性は、相変わらずこの流れに断固抵抗しようとしている。
なおよくないことに、ユキはあやめに似ている面がある。俺の体に舌を這わせているユキの表情は、同じことをしている時のあやめとそっくりだ。
俺の知らない、若い頃のあやめも、見知らぬ男相手にこんな風に奉仕していたのだろうか。
そう思うと、不覚にも胸が高鳴ってしまった。絶対に会うことの出来ない若かりし日のあやめと、擬似的に交わっているようなものだ。
ユキは俺の体を上ってきて、また唇を重ねてきた。滑らかな唇がねっとりと絡みついてくる。
「よせ……」
我ながら弱々しい声だった。頭の中は、このまま朝までユキと愛し合っていたいという欲望で埋め尽くされていた。
ユキはさらに深くキスをしてくる。下が唇を割って口内に入り、俺の舌に絡んでくる。
彼女は泣いていた。
俺の体にしがみついたまま、肩を震わせて。
どれだけの苦しみを背負っているのか。ユキは、俺とは事情が違う。俺はユキを守るだけだが、ユキはまさに自分の身を狙われているターゲット当人だ。俺に想像出来るレベルの恐怖ではない。俺にとっては単なる肉欲のはけ口でしかない行為であっても、ユキにとっては強い現実逃避となっている。
だから求める強さが違う。
彼女を咎めることは出来ない。
俺はユキの隣に腰を下ろし、彼女の頭を撫でてやる。
(あやめ、すまない)
遠く病院で寝ているであろうあやめに、心の中で頭を下げた。出来ることなら、ユキと肉体関係になるのは、これが最後でありたいと思っていた。
だけど、その晩一回だけで十分だった。もう一生セックスをする必要がないくらい、俺もユキも次第に行動がエスカレートしていった。むしろお互いが血縁関係であることが性的な背徳感を高め、より深く激しく求めるようになっていたのかもしれない。
どこかが狂っていた。壊れていた。
窓の外に月が見える。
月明かりに照らされたユキの裸体が、青白く輝いて見えた。
※ ※ ※
清澄の言葉通り、マンハントで襲ってくる殺人鬼は一人も現れなかった。
その点だけは不幸中の幸いだったかもしれない。
あやめが退院してくる直前の時期になって。
ユキは、生理が来ないことを告げてきた。
産婦人科で調べたら――ユキは妊娠していた。
妊娠三ヶ月。
明らかに、あの晩のことが原因だった。
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