第94話 その先にあるもの
―2009年6月9日―
病院
病院のベッドにあやめが横たわっている。
術後の朦朧とした意識の状態で、ベッド脇の椅子に座っているユキに、ゆっくりと視線を合わせた。
「玲――くん、は――?」
呂律の回らない口調で、ユキに問いかける。
ユキは唇を噛んで、かぶりを振った。
トリックスターによるバス襲撃から二日が経過している。
増援で現れたトリックスターの部下に囲まれ、玲と千鶴は捕らわれの身となった。瀕死の状態だったあやめは無視された。すでに死んでいるものと見なされたのか、止めを刺されることもなく。
どちらにせよ、これだけ重傷を負っていれば、すぐには戦えない。
ユキは、トリックスターの部下から電話で一部始終を聞かされたとき、目の前が真っ暗になった。
こちらは世間から身を潜めて戦わなければならないのに対し、敵はその気になれば、いくらでも大々的に行動を起こせる。そうなると、数的に不利であるユキたちが最終的に敗北へと追い込まれるのは、必然的なことである。
「わしが愚かだった」
ユキの後ろに立っている堂坂が溜め息をついた。
「極道には、守るべき人の道がある。しかし奴らは、人の道を外すのは当たり前のことだ。そんな連中と戦って、勝てると信じていた、わしが愚かだった……」
あやめは布団の中から手を出し、弱々しく、ユキの手を握った。
「ユキ――ちゃん――」
「あやめさん……」
「ごめ――ん――」
あやめの目から涙がこぼれる。
ユキは何も言わず、頷いた。
あやめが何を言いたいのか、ユキにはわかっている。それがとてつもなく無茶な内容であることも。全てを理解した上で、ユキはあやめの想いを受け止めようと、心に決めた。
ユキはあやめの個室を出てから、隣の個室へと移動した。
廊下を歩いていると、血相を変えた医者と看護婦が、急ぎ足で通り過ぎ去っていった。昨日は野戦病院の如く、院内は大混乱であった。おそらく、石川県中の病院が同じ状況であり、今もまだ、重傷を負った患者たちでごった返していることだろう。
そんな中で、あやめと、倉瀬刑事は優先的に個室を与えられた。堂坂の人脈が陰で活きている。ユキは、その点では堂坂に深く感謝していた。
「倉瀬さん……」
個室に入ると、点滴治療中の倉瀬が、憔悴した顔で、窓の外を眺めている。あやめよりは意識がハッキリしている。しかし、目の下には隈が出来ており、鬼のような形相だ。どこか精神に破綻を来たしているような印象を受けた。
「この歳で、利き腕を無くすとはな」
自嘲気味に口を歪めて、上腕でバッサリと切り落とされている右腕を見つめた。
倉瀬は、冨原を犠牲にして車まで逃げ延びることが出来たが、そこまでだった。
追いついてきたチェーンソー男に、倉瀬もまた、右腕を切り落とされてしまったのだ。
激痛で失神しそうになりながらも、相手の股間を蹴り上げ、敵が股ぐらを押さえてうずくまった隙に、車に乗り込んだ。そして、カーナビで見つけた近くの病院まで車を走らせ、到着したところで気を失った。
治療が早期に行われたおかげで、なんとか回復することが出来た。
だが、完膚なきまでの敗北だった。
「私が甘かった。敵は、マンハントなどというゲームのために、本気で石川県中の人間を皆殺しにするつもりでかかってきている」
「倉瀬さん、私――」
「やはり、私の体験してきた修羅場など、本物の戦場のそれに、到底及ばない。とどのつまり、私もぬるま湯でぬくぬくと育ってきた甘ちゃんだった、というわけだ」
「違うの、私が――」
私が浮かれて、遠野さんとデート気分で夜の街を出歩いたりなんかしなければ――と、ユキは自分の犯した過ちに、今さらながら気が付いていた。
もしも磐石の態勢を築き上げている防衛網の中で、ひたすら閉じこもっているだけだったら、あるいは敵も攻めあぐねたかもしれない。
全ては自分の認識の甘さにあった。
「気にすることはない」
「え……?」
それまで険しかった倉瀬の表情が、和らいだ。
てっきり自分を責めているのだと思っていたユキは、思わず優しい顔を向けられて、戸惑った。
「私は、片腕を無くしたのはショックだが、それでも何とかなると思っている。昔、少林寺拳法の高弟に、戦争で片腕を無くした者がいた。その男は、開祖に、『片腕でも拳法をやれるか』と聞いた。開祖はこう答えたそうだ。『片腕どころか両腕がなくても拳法は出来る。ダルマは踏んでも蹴られても起き上がる、その精神こそが、本当の強さだ』と」
「本当の、強さ……」
「強くなりたければ、拳銃で棍棒でも持ってくればいい。事実、トリックスターの一味はアサルトライフルやらチェーンソーやらで武装している。だから戦闘力は格段に強い。裏を返せば、私たちも同じことをやれば、簡単に勝てたはずだ。だが、この戦いは、そういう性質のものか?」
「……」
「未来を、見据えねばならない」
倉瀬は力強く頷く。
ユキに何かを託すように。
「勝つは容易い。生きるも容易い。が、その先にあるものを――決して忘れるな」
―同日 18:00―
金沢城
ユキは金沢城公園に立っていた。向こうに金沢城の長屋が見える。
動きやすい革のジャケットとジーンズを着て、手にはイザベラから譲ってもらった鉛入りのバトルグローブをはめている。いつでも闘う覚悟はできている。
本来、今日はこの金沢城公園の広場で薪能が行われる予定だったが、さすがに金沢市内で未曾有のテロが起こったとあっては、中止せざるをえない。その名残か、すでに組まれた舞台だけは残っているが、誰もいない。
どこかで爆発音が聞こえた。
いまもまだ、トリックスターの部下たちが金沢市内で破壊活動を続けている。
(私を、精神的に追い込むため――それだけのために)
怒りの炎が心を燃え上がらせる。
これからの行動に、自分が生き延びる道は見えていない。それどころか死の影がちらついている。
以前までの自分だったら、危険を知らせる内なる声に抗えず、安全な道を選んでいたことだろう。
しかし、あえて戦いの道を選んだ。
それがトリックスターの思惑通りであると知りつつも。
――勝つは容易い。生きるも容易い。が、その先にあるものを――決して忘れるな
倉瀬の言葉を胸に秘めつつ、ユキは金沢城の中へと足を踏み入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます