第91話 憤怒のあやめ

 潮の薫りと、醤油の匂いがする。


 俺は、ここが大野の町であることは、なんとなく想像がついた。海辺で醤油の薫りといったら、金沢近辺では大野くらいしか考えられない。


 大野のどこだろう。使われなくなった醤油工場だろうか。


 そんなことを薄暗がりの中で考えていると、縛りつけられている柱の後ろの方から、ヒールの足音がカツンカツンと聞こえてきた。


「気分はどうかしら」


 あやめの顔をしたその女は、柱の後ろから体を回り込ませて、俺の顔を覗いてきた。


「不愉快だ」

「あら、私がこの顔しているのが?」

「冗談も度を過ぎると悪意になるぞ、リーファ」

「なんだ、わかっていたのね」


 ガッカリした表情で、あやめの顔をしたリーファは、唇をとんがらせた。


 リーファは俺の前に完全に姿を現す。背の高さ、胸の大きさ、脚の長さ、スタイルまであやめとそっくりだ。違うのは、普段はあやめが着ないような、青いチャイナドレスを身に着けていること。


「さすがに、これだけ色々あると、勘も鋭くなる」

「その割には、バスでは不覚を取ったわね」

「そうだな」


 あれしきのことで動揺した自分を恥じる。


「なぜ、あやめの姿を借りた」

「アキラを喜ばせるためよ」

「俺を?」

「そうよ。私があの女の姿形をしていれば、万事解決じゃない」

「何を言っている」

「だから――アキラは、変わらずあの女を抱けるし、私はまたアキラに抱いてもらえる。そういうことよ」


 怖気が走る。


 この女は、リーファは、何を言っている?


「見た目が同じなら、同じように愛せると、お前は思っているのか。俺と同じ外見の男なら、中身は俺と違ってもいいと思えるのか」

「アキラはアキラじゃないと駄目よ。でも、私は私の中身があの女じゃなくても、アキラにとっては問題ない――きっと、そうなるわ」

「勝手なことを言うな」

「そう――?」


 あやめの顔をしたリーファが、俺の体にもたれかかり、手をくねらせながら、俺のシャツのボタンを外し始めた。


「でも、あなたに初めて女を教えたのは私。私の処女を捧げたのはあなた。初めての味を思い出させられて、果たして平気でいられるかしら……」

「何をする気だ」

「いやらしいことよ」


 リーファはしゃがんで、ズボンの上から、俺の股間の辺りに頬をこすりつけてきた。


 俺は眉をひそめる。


「病んでいるな」

「なんとでも言ってちょうだい。私はあなたを愛している。たとえ裏切られようとも……爸爸も組織も信用出来ないいま、せめて、あなたの愛だけ取り戻したいの」

「セックスで愛を手に入れられると思うのか」

「手に入れられるわ。それが人間の本能だもの」

「どいつもこいつも」


 俺は舌打ちをした。


 ルクスといい、リーファといい、人間の本質だの人間の本能だの、何様のつもりだ。理性と法で自分たちを戒める人間もまた、人間のあるべき姿じゃないのか。


 リーファは、そんな俺の怒りをよそに、ズボンのジッパーを下ろし始めた。


「アキラ、私としていたとき、これ、好きだったよね」


 俺は答えずに、横を向いた。リーファは無言で、俺の股に顔を突っ込んだ。なるべくそちらの方に意識を集中させないようにし、リーファに対する質問のことだけをひたすら考えていた。


「あのピエロの面した殺人鬼は、なんという名前だ」

「……トリックスター、よ」


 股から顔を離し、唇を舐め、髪を掻き分けながら、リーファは答えた。まるであやめが答えているかのような――あやめとまったく同じ仕草を見せられて、背筋にゾクリと刺激的なものが走る。


 あまり見てはならない。


「誰か協力してくれる人を探していた時に、彼が現れたの。私と彼の利害関係は一致したわ。私はアキラを拘束したい。トリックスターはアキラを風間ユキ誘き出しの餌に使いたい。だから、私たちは手を組んだ」

「ユキを誘き出すために、俺を?」

「そうよ。でも、そんなことはどうでもいいじゃない。久々に2人きりになれたんだから、楽しみましょ」


 艶かしく指を動かし、時には唇を使い、俺の下腹部に刺激を与えてくる。さすがに俺のことを知り尽くしている女だけあって、上手だ。しかし、あやめに、「浮気ものぉ! わーん!」と怒鳴られている光景を想像すると、恐ろしいやら微笑ましいやらで、あまりその気にはならない。


「何よ」


 リーファが紅潮した頬を嫉妬で真っ赤にさせる。俺があやめのことを考えているのに気がついたようだ。


「むかつく! ほんと、むかつくわ!」


 顔面を殴られた。


 リーファは俺のズボンのチャックを閉めると、チャイナドレスを直しながら立ち上がり、俺を睨みつけてきた。


「いいわ。お楽しみは全て終わってから――まずは邪魔なあの女から始末してやる」

「あの女?」

「この女のことよ」


 リーファは、自分の顔を指差した。


 あやめと同じ顔を。


「どういうことだ? ユキを狙うだけじゃ――」

「トリックスターの計画には、風間ユキの護衛の始末も含まれているの。一人ずつ各個撃破、ね。あなたには風間ユキの誘導だけでなく、奥さんの誘き出しにも一役買ってもらうと、そういうことなの」

「なるほど。各個撃破か。悪くないな。だけど、あやめはこの場所を知らないぞ」

「こちらの場所を教えてあるわ。こっそりとね。愛する夫を助けたければ、一人で来い、と。そこを待ち伏せするの」

「お前に殺せると思うのか」

「馬鹿にしないでもらいたいわ。私だってかなりの使い手よ」

「あやめは強いぞ」

「どうだか」


 鼻で笑われた。


「いまごろ、あなたがこの廃倉庫に捕らわれているという手紙を受け取って、大慌てでこちらへ向かっているところじゃないかしら。そして、ノコノコ敷地内に入ってきたところを、トリックスターの部下が、ズドン――」

「そう上手くいくかな」

「いくわよ」


 ちょうどその時、外から銃声が聞こえてきた。


「ほら――」


 ご満悦面で、リーファが銃声の聞こえた方へと顔を向けた瞬間、倉庫の扉が撥ね開けられ、銃を持ったフリースジャケットの男が一人、倉庫内へと転がり込んできた。


「強え――」


 前歯が全部折られて、口からダラダラと血が溢れている。その背後から、何者かの回し蹴りが飛んできて、首にクリーンヒットした。男の首がボキッと折れ曲がった。


「アキラくん、どこぉ!? どこなの!?」


 飛び込んできたあやめが、涙目で俺のことを必死で探し回っている。


 ていうか、目の前、目の前。


 もっと冷静になれ。


「あ、アキラくん! よかった! 怪我はない!?」

「ちょっと待ちなさい」


 駆け寄ろうとするあやめの前に、同じ顔をしたリーファが立ちはだかる。


「げ、ドッペルゲンガー」

「アキラを助けたければ、まず私を倒すことね」

「そっか、お前が悪い奴なのね!」


 あやめは腰に装着していた苦無を外すと、両腕を交差させるようにして武器を構え、臨戦態勢に移行した。


「さっさと倒してやるんだから!」

「インチキ忍者もどきに何が出来るのよ!」


 醤油の薫り漂う廃倉庫内で、二人の凶暴な女戦士がぶつかり合い、激しく刃を交えた。


(あやめが苦無を使っている……?)


 俺は、テレビの時代劇で、くのいちが苦無を使って戦っているシーンを見て、あやめが呟いたひと言を思い出した。


――あんな使いにくそうなの、私はやだな


 あやめに言わせれば、苦無は隠密行動時の道具としては使うが、武器として使うことはほとんどないとのことだった。緊急時の代用品程度の存在でしかないらしい。


――チャンバラやってたような時代には、普通に工具で通ったみたいだから、持ち歩いていても不審じゃなかったんだって。だから忍者は携帯してたの。でも、現代でこんな武器使ってたら、大笑いだよ


 そのあやめが、わざわざ苦無で戦っている。


 なぜだ?


 あんな武器では本気を出せないのではないのか――いや、本気を出す気がないのか? わざと本気で戦わないようにしているのか。


 リーファの拳法は、確かに常人よりは技術面で長けているものの、あやめの敵ではない。繰り出す攻撃はみな、簡単に避けられている。攻撃を失敗するたびに、リーファは金切り声を上げていた。


(時間稼ぎをしている……!?)


 あやめの目論見に気がついた俺は、次の彼女の言葉で、全てを悟った。


「ほらほら、目をし~っかり開けて♪ そんなんじゃ私は倒せないよ」


 そう言って、俺に目配せする。


 “目を、しっかり開けて”。


 彼女のメッセージを受け取った俺は、すぐに――


 目を閉じた。


 廃倉庫内に、何か硬い物が床に転がる音が響いた。


 まぶたの裏にまで、眩い閃光が飛び込んできた。


 ※ ※ ※


 いつの間にか俺は乗用車の中にいた。


 窓の外を見ると、空はすっかり暗くなっている。今日が百万石まつりの二日目なら、すでに百万石行列は終わって、今時分は香林坊のあたりで踊り流しをしている頃だろう。


 隣にはあやめが座っていて、俺の顔に出来た擦り傷に、ティッシュで消毒液を当てていた。


「あやめか、リーファか、どっちだ」


 俺の問いに、あやめは顔をくしゃくしゃに歪めた。


「ひっどぉい、長年愛し合ってきた妻の顔を忘れたわけぇ?」

「酷いのはお前だ。せめて、目を閉じろ、くらい言え。あやうく失明するところだったじゃないか」

「私の素敵な旦那様なら、きっと通じてくれると信じてたもん♪」


 ギュッと消毒液の染みたティッシュを、俺の頬に押しつけてくる。痛い。傷口に染みて痛い。顔は笑っているが、目は据わっている。


 ようやく、あやめが怒っていることに気が付いた。


「あやめ……もしかして、怒ってるのか?」

「ううん、怒ってないよ」

「いや、絶対に怒ってる。しかも、これまでにないくらい――」


 そこで、運転席に座っている人物の後ろ姿を見て、妙な感覚に捉われた。


 鮮やかな金髪、カールしたロングヘア。


 つい最近も出会ったような……と、記憶を辿ってゆき、ある人物に思い至った。


「おい、運転してるの――」

「あ、そうだ、改めて紹介しないとね。千鶴ちゃん」

「千鶴⁉」

「通称、“千鳥の千鶴”。今回のこと話したら、協力を申し出てくれたの」


 ちょうど、大野の町を脱出したところで、信号にぶつかった。


 運転席の千鶴は振り返り、


「ハーイ」


 と軽快に挨拶してきた。


 間違いなく、昨日ユキを連れていった美容院の店長にして、俺の高校時代の同級生。


 万綱千鶴(まづなちづる)だった。


「お前も、アマツイクサとかいう――」

「も、ってのは間違いよ、遠野くん。私は現役隊員。あやめは退役隊員。おまけに、殺人鬼なんかを夫に迎えた超危険人物……ってところだけど、目下のところ、上層部からはお目こぼしされている。それだけの功労があるとか、あやめが怖いとか、そういうことじゃなくて、上層部はあなたの父親、遠野学円の動きを調べたいから、下手にあなたたちを刺激せずに泳がせていると、そういう感じ」

「一気に話すな。頭が追いつかなくなる」

「つまり」


 信号が青に変わり、千鶴はアクセルを踏み込んだ。


「あやめは善意の第三者ではあるけど、私は違う。金沢に根を下ろしていることを活かして、遠野家の動向を探るためのスパイ、ってわけ。あやめはもうアマツイクサと関係ないけれど、私はアマツイクサの一員として動いている――この意味、わかるかしら」


 いつになく真剣な口調の千鶴に、高校時代からの彼女を知っている俺は、思わず苦笑したが、あやめに袖を引っ張られて、やっと真意を悟った。


 この会話は全て、別の場所から盗聴されている。


 おそらくアマツイクサの本隊が。


「遠野くん。いろんな人に何度も話しているだろうけど、私にも教えて。“正確”に。シリアル・キラー・アライアンスのこと、お義父さんのこと、知っていること全て」

「それを話したら、お前たちと親父の因縁についても――アマツイクサが奪った一〇五式火炎放射器を、どうしてアイオーン教団の親父が手に入れることが出来たのか、そのことについて教えてもらおうか」

「よく知ってるのね。いいよ、交換条件ってことで。教えてあげる」


 そこまで話した時だった。


 背後から2tトラックが迫ってきて、俺たちの乗用車に激突してきた。


 俺もあやめも、素人ではないから、咄嗟に首の後ろに手を組み合わせて、足の裏を前方座席に当てて踏ん張り、クラッシュの衝撃に耐えた。


「きゃっ」


 と悲鳴を上げた千鶴は、より深くアクセルを踏んで、2tトラックから一時的に離脱する。


 振り返って、トラックの運転席を見てみると、昨日バスジャックをした長髪の日本人がいる。名前はオートジャック(自動車強奪魔)だったか。名は体を現すのであれば、かなりの運転技術を持つことになる。


 助手席には、あやめの顔をした――リーファ。


 さらに荷台から、ピエロの扮装をしたトリックスターの部下たちが身を乗り出し、各々が重火器を構えている。ロケットランチャーを持つ物騒な奴までいる。


「どうも、あっさり事が運ぶと思ったわ」


 チッ、と千鶴は舌打ちした。


「あいつら、これが狙いだったのね――!」

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