第84話 タレルの部屋で

 小夜は横たわりながら、マッドバーナーと殺人犬の戦いを静かに見守っていた。


 甲斐犬がマッドバーナーの後方に回り、足首に牙を立てた。同時に、横から跳躍したボクサーが、ガスマスクに噛みついてくる。だが、マッドバーナーの耐火服は、その程度の攻撃では破れない。


 マッドバーナーは頭に噛みついたボクサーを掴むと、床に叩きつけた。ギャウン、と悲鳴が上がる。即座に、火炎放射器が火を噴いた。炎に包まれたボクサーはギャンギャンとのた打ち回り、やがて死に至る。


 続いて、足に食らいついている甲斐犬に、火炎放射器の銃口を向けた。


 その時、“王”の魔犬を抜かした残る二匹、屈強な体つきの土佐犬とグレートデーンが、マッドバーナーに全体重をかけて体当たりを仕掛けてきた。二匹分の重みを正面から受けて、マッドバーナーは倒れてしまう。脚に潰されないよう、甲斐犬は足首から口を離し、距離を取った。


 倒れたマッドバーナーに、三匹の犬は一斉に襲いかかる。破けぬのなら、せめて牙を肉にまで突き立てようと、何度も何度も噛みついてくる。マッドバーナーはしばらくじっと耐えていたが、傍らに落ちていた火炎放射器を掴むと、自分自身の体に向けて炎を噴射した。


 耐火服を着ているマッドバーナー自身は炎に包まれても平気だが、密着して攻撃を仕掛けていた犬たちは、身を防ぐ術がない。


 あっという間に、三匹の殺人犬は、怪人の炎の餌食となってしまった。


 粘着性の可燃材が付着し、いまだ炎を耐火服に宿した、業炎の魔人マッドバーナーが立ち上がる。


 それを見て、“王”たる魔犬も、四肢を張る。


 炎が魔犬を焼き尽くそうと宙を滑り、不気味な曲線を描いて襲いかかる。


 だが、炎の先端が届く寸前まで、魔犬は逃げようとしなかった。炎に包まれた可燃剤が体毛にかかろうとした瞬間、可燃剤を紙一重で避けると、魔犬はマッドバーナーに向かっていく。


 魔犬は高々と跳躍し――己の牙で、マッドバーナーの耐火服を切り裂いた。


 よろめくマッドバーナー。


 その背後に着地した魔犬は、素早く方向転換すると、再び飛びかかってゆく。


 体当たりを喰らったマッドバーナーは吹き飛ばされ、展示室の外に出ていってしまった。



 ※ ※ ※



 マルコシアスは、己が血が騒ぐのを抑え切れずにいた。


 この男は、強い。


 いざ殺すとなると、犬相手でも躊躇せずに殺す。その迷いの無さが、素晴らしい。肉体的な能力は中の上程度だが、それを補って余りある、戦士としてのセンスがある。


 いま、男――遠野玲は美術館の廊下を走っている。一見、自分から逃げているようにも見えるが、実際は誘いをかけているのだろうとわかる。


 その誘いに乗ってやろうではないか。


 マルコシアスは余裕の態度で、あえて走りはせず、ゆっくりと歩を進めていく。


 先を進む玲は、ガラス窓を破り、中庭に出た。


 中庭、と言っても、ガラス窓と回廊で囲まれた非常に狭い空間だ。中央に、水の張られた小さいプールがある。


 玲は、そのプールの前で、膝をついた。背中を向けて、肩で息をしている。


 やはり力尽きたか。


 マルコシアスは、自分の勝利を確信し、それでもなお慎重に玲の様子を観察した。肩がせわしなく動いているところを見ると、どうやら疲労困憊のようだ。だが、油断は出来ない。


 突然、玲はこちらを振り向いて、火炎放射器の引き金を引いてきた。


 マルコシアスは冷静に動きを読み、プールを中心に大きく回り込んで、炎の軌道上から逃がれた。


 玲はすぐに噴射をやめ、重い腰を上げた。火炎放射器を両手で抱えたまま、のろのろとプールサイドを歩いてくる。その動きを見てもなお、マルコシアスは警戒を緩めなかったが、相手が火炎放射器の引き金を引くのと、自分が体当たりを喰らわせるのと、どちらが早いかを判断し、結果、仮に相手が引き金を引くのを見てからでも、この距離ならば、自分の体当たりの方が早いという結論を導き出した。


 プールを背にして、玲は火炎放射器を持ち上げる。噴射口をこちらに向けてくる。引き金を引くのを待つまでもない。攻撃のチャンスだ。


 マルコシアスは、跳んだ。


 玲の攻撃は失敗に終わった。マルコシアスの体当たりが先に決まった。攻撃の方向をずらされた火炎が、あらぬ方向に向けて噴き出される。玲はプールに向かって仰向けに倒れていく。


 プールに落としさえすれば、こちらのものだ!


 マルコシアスは、相手が重量級の装備をしていることを考慮し、水の中に叩き落せば、簡単に戦闘力を奪うことが出来るとシミュレーションしていた。自分まで水に落ちるのは億劫だったが、水中で、さっさと相手の首を噛み切ればいいだけの話だ。


 チェックメイト。


 マルコシアスは、玲を押し倒しながら、犬らしからぬ狡猾な笑みを口元に浮かべて、自らの勝ちを夢想した。


 次の瞬間、予想外の衝撃が、自分の体を襲った。


 マルコシアスと玲は、何か“硬い”物の上に倒れた。


 水の中に落ちるはずが、落ちない。沈まない。


 これは何事かと、我が目を疑った。


 水面に浮かんでいる。


 自分は、玲の体の上に乗っかっている。


 水の中に沈んでいかない。いや、沈むどころか、地面の上にいるような安定感があり、逆に気持ちが悪い。


 マルコシアスは大いに混乱した。


 犬のマルコシアスは知らない。


 ここは、金沢21世紀美術館の展示物のひとつ、レアンドロ・エメリッヒ作『スイミング・プール』。


 本物のプールではない。


 紛い物。


 その構造は、一見水の溜まったプールのようでありながら、実は強化ガラスの上に水を張っているだけものであり、中は空間となっている。


 ガラスの下の空間に誰かがいる時に、地上からプールを見下ろすと、まるで水中に人が佇んでいるように見えるという、一種のトリックアート。


 だから、ここに落ちても、ガラスの上に倒れるだけであり――水の中に没するわけではない。


 人間の言葉はわかっても、人間の文化など理解出来ないマルコシアスには、騙し絵となっているレアンドロのプールの存在など知らなかった。


 知らなかったから、玲を水中に叩き落そうとして、すっかりその気になっていた。


 パニックで思考が停止したマルコシアスの首根っこを、玲の手が掴んだ。


 水の張られた強化ガラスに、マルコシアスの体が叩きつけられる。バシャッ、と水飛沫が上がった。内臓に伝わる激しい痛みに、マルコシアスは呼吸が出来なくなる。おまけに、口や鼻に水が入ってくる。


 貴様!


 怒りを覚えたマルコシアスだが、身を起こそうとした瞬間、顔面をブーツで踏みつけられた。


 頭蓋骨にヒビの入る音が聞こえたような気がした。


 俺は、王だ!


 貴様ら人間に屈するものか!


 マルコシアスは気合で跳ね起き、牙を翻して、玲の耐火服を縦横無尽に切り裂く。暴風の如き攻撃に、ガードの体勢を取っていた玲だったが、マルコシアスが息継ぎで刹那の瞬間だけ動きを止めたところを見逃さず、再びブーツでマルコシアスの体を踏みつけた。


 ガッ、とマルコシアスは血を吐いた。臓物の味がした。内臓が破裂したようだった。


「っらああああ!」


 玲が吼える。


 火炎放射器を振り上げ、横たわるマルコシアスに、とどめの一撃を加える。重火器に押し潰され、マルコシアスの骨と内臓がグシャグシャに破壊された。


 致命傷だ。もはや助からない。


 それでもマルコシアスは立ち上がった。


 おおおぉん……


 命尽きる最期の瞬間まで、誇り高く“王”であろうと、マルコシアスは全身をまっすぐ伸ばして雄々しく立ち、金沢の夜空に向かって、断末魔の遠吠えを上げた。


 オオオォン……オオオォン……オオオォン……


 金沢中のあらゆる犬という犬――野犬も、飼い犬も、“王”の威厳ある遠吠えに応えて、各地から遠吠えを返してくる。星が落ちんばかりに、夜の金沢が犬の鳴き声で振動した。


 そして、玲は火炎放射器の引き金を引いた。


 炎に包まれてもなお、マルコシアスは、膝を屈することはなかった。



 ※ ※ ※



 犬の遠吠えを聞きながら、なんとなく、小夜はマッドバーナーの勝利を感じていた。


 マッドバーナーが生き残ったことに対して、小夜は何も特別なことは考えていない。ただ、自分はここで死ぬ運命であり、マッドバーナーはまだまだ生きる運命である、それだけの話だ。


 小夜は、タレルの部屋――作品名『ブルー・プラネット・スカイ』に移動していた。


 ここは、エリカとデートしたことのある、思い出深い場所だった。


 四角い石造りの部屋の天井に、正方形に切り取られた“穴”がある。穴からは、空が見える。人は、その切り取られた空から、何かを感じ取る。そういう部屋である。


 音が遮断された空間。夜露が垂れるのか、水の滴る音が室内に響いている。安らかな眠りにつくには、この上ない場所だった。


 あの時エリカは、天井を見上げながら、四角く切り取られた青空を見て、こう呟いた。


――空はとっても広いのに、切り取ると、ただの平べったい絵みたい


 小夜は、その言葉を、文字通りの意味にしか捉えなかった。だけど、今ならわかる。エリカが何を言いたかったのか。四角く切り取られ、建物によって隠されてしまった残りの空について、どう考えていたのか。小夜は、死を迎える時になって、エリカが何を感じていたか、ようやく理解出来た。


 私は、あなたを、わかってあげていた……? エリカ……


 自分はエリカを愛し、理解していると思っていた。エリカも自分を愛し、理解してくれていると思っていた。だけど、それは自分の思い上がりだったのではないか。四角く切り取られた空は空ではないように、エリカの人生の一部しか見ていない自分が、何をわかったというのだろう。


 私は、自分勝手だった……? エリカ……


 あの時。


 他に誰もいないタレルの部屋で、小夜とエリカはキスをした。静寂に包まれた石造りの部屋で、愛する人と唇を交わし、この上なく幸せな時間だった。


 女が女を愛する。愛する人を愛するだけなのに、ただ周囲が納得してくれなかったから、迫害され続けた自分たち。報われない人生を送ってきた自分やエリカは、最期まで報われることはなかった。


 でも、安らかに逝こう、と小夜は思っていた。


 醜い感情は全て捨てて、最期くらい、気持ちよく――


 部屋の中に、誰かが入ってきた。


 目が霞んでいるので、顔からは判別出来ない。その代わり、思考が流れ込んでくる。その心の声で、相手が誰か、わかった。


(マッド……バーナー……)


 優しく、抱きかかえられる。


 男の人に抱かれるのは、幼い頃、父親に抱っこをしてもらった時くらいだ。父は、自分が死んだら、どんな気持ちになるだろう。きっと、意外と涙もろい父だから、一週間はご飯も食べられないに違いない。


 かわいそう。


 小夜は涙を流した。


 思わずマッドバーナーに抱きつく。


 憎い敵だが、なぜか、この瞬間だけは愛しかった。独りぼっちで逝くことがなく、最期を看取ってくれる人がいるのが、なんだか嬉しかった。


 ユキを――守って、あげて――


 そう言い残したいのに、言葉が出ない。出ないけど、相手は不思議と理解してくれたようで、


(俺が、ユキの命を守ってみせる。必ず)


 強い口調の約束が、心を通して聞こえてきた。


 小夜は、また天井を見上げた。


 何も見えない。


 黒い闇が自我をも包み込もうとしている。それでも、微かに残っている意識の中で、もう一度だけ、タレルの部屋のあの天井と、エリカの声と、愛くるしいあの顔を思い浮かべようとした。


 かろうじて、エリカの声だけは聞こえた、ような気がした。


 小夜は、笑った。 


 にっこりと、幸せそうに。



 ※ ※ ※



 小立野の麹屋。


 ユキは三ヶ月ぶりに目を覚ました。


「ここ……どこ?」


 食事も水分も取ることのなかったユキだが、時間が止まっていたように、三ヶ月前と変わらない血色の肌。体力も衰えておらず、倒れる前と変わらずに体を動かすことが出来た。


 布団から出て、着慣れぬパジャマを着ていることに小首を傾げると、部屋の外に行き、階段で一階まで下りていく。


 廊下に面した一室から、明かりが漏れている。そっと中に入ると、四十代くらいの加賀美人風の女性が、黒電話で誰かと通話をしていた。


「ええ、それが上杉さんの願いでした。もし自分が死んだら、ユキちゃん連れて、倉瀬刑事に託してくれと――」


(え?)


 上杉――つまり、小夜さんのこと。


 小夜さんが、死んだ?


「どういうことですか」


 ユキが現れたことに、電話をしていた女性は驚き、受話器を取り落とした。


「あなた、起きてきたん⁉」

「どういうことですか! 小夜さん、どうなって――」


 ふと、机の上の新聞に目がいった。


 金沢21世紀美術館で発見された、女刑事の遺体の記事。


 被害者の名前は、上杉小夜だった。


 ユキはその場で崩れ落ちた。


「小夜さんが……死んだ」


 虚ろな声で、信じたくない事実を、とりあえず呟いてみる。


 声に出しても、実感が湧かなかった。


「……起きてきたんなら、話早いわね。相手、倉瀬刑事さんよ」


 女性もまた、震える声を無理に抑えて、ユキに出来るだけ優しい声をかけようとしている。


 ユキは受話器を奪い取ると、電話の向こうの倉瀬にまくし立てた。


「倉瀬さん、私――新聞見たら、もう三ヶ月も――寝てる間に、何があったの⁉ 小夜さんは、小夜さんはどうしたの⁉」

『上杉刑事は……敵と戦って、残念ながら……』


 電話の向こうで、倉瀬が沈んだ声で、残酷な事実を告げる。ユキは、ようやく、紛れもない現実であることを悟った。


「そんな……」


 受話器を抱えたまま、肩を落とす。


「そんなの、ないよぉ……」


 ユキが涙をこぼすと、とうとう横の女性――かつての情報屋「白糸」も耐え切れず、嗚咽を漏らし始めた。



 ※ ※ ※



 そして、ユキは、また遠野玲のもとへと戻った。


 回収したラオの死体を前に、かつて上杉小夜に使った蘇生の能力を試してみたが、全身の血管が膨張する異常を感じて、中断した。


 虫のいい話などない。


 人を生き返らせること、過去の出来事を捻じ曲げることは、並大抵のパワーで成し遂げられるものではない。ユキは、この先も、蘇生の能力は軽々に使用出来ないだろうと感じ、死者を蘇らせるのは諦めることにした。


 ここで無理に能力を使って、自分まで死んでしまったら、なんのために彼らが命を懸けて自分を守ってくれたのか、わからなくなってしまう。


 ユキは、悔しくとも耐えることにした。


 マンハント開始後、四ヶ月。


 まだ本格開戦すらしていない状態で、刑事の二神秋山、シャンユエの護衛ラオ、そして上杉小夜。三人も犠牲者が出てしまった。


 さらに、先行きが不安なこの状況の中。


 今回のマンハントについて鍵を握るはずの重要人物――シャンユエと、遠野学円が、二人とも姿を消してしまった。


(それでも、俺がすべきことに変わりはない)


 遠野玲は風間ユキを守るため、無心で殺人鬼たちと戦うことを決意していた。


 人間として、生き抜くために。

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