第83話 Like A Dog Chasing
―グラスラビリンス―
ダンスクラブの中に、犬の群れがなだれ込んできた。
多種多様な犬種が勢揃いしており、さながら犬による軍隊である。シェパード、ブルテリア、ボクサー、グレートデーン、甲斐犬、ラブラドール……どれも目を血走らせており、見るからに凶悪な面構えをしている。
もはや愛玩用の犬ではない。
野犬の領域すら通り越した、殺人犬集団だ。
ヒタヒタと入り口の方から足音が聞こえてくる。犬たちの目に畏れが浮かんだ。
左右に分かれて、“王”の道を空ける。
(魔犬……!?)
玲は、その“王”の犬種がわからなかった。
見たこともないような容貌で、犬というよりも狼に近い。そして瞳に宿る知性は、犬のそれではなく、人間に近いものがある。人間の知恵を持っているのではないかと錯覚するくらいだ。
漆黒の毛。紅く染まった目。時おり剥き出しになる牙は、鋭く研ぎ澄まされており、触れただけで切り裂かれてしまいそうだ。
まさに魔犬。
“王”が近付いてきた。玲は身構える。だが、倒れる小夜の側に寄ったところで、それ以上“王”は動こうとせず、スンと鼻を鳴らして、小夜の匂いを嗅いだ。しばらく鼻をひくつかせて、周囲の匂いを嗅いでいたが、やがて何かわかったのか、じっとある一点を見つめたまま動かなくなり、数秒経ってからダンスクラブの出口へ向かって歩き始めた。
クラブを出る直前、“王”は振り返った。
配下の殺人犬たちは、“王”とアイコンタクトを交わし、“王”の下知を受け取ったようだった。
もしも“王”が人の言葉を話せたならば、こう言っていたことだろう。
「始末しろ」
と。
犬の群れが、一斉に玲と小夜に襲いかかる。
その様子を見ずに、“王”は外へと出ていった。
※ ※ ※
マルコシアスは、ルーマニアの富裕層に飼われていた犬である。ハスキー種と狼の交合によって生まれた、いわゆる『ウルフハイブリッド』を、さらに狼と交合させて出来た、狼の血が75%以上の『ハイパーセント』だ。
ルーマニアの旧社会主義政権崩壊に伴い、野に放たれたマルコシアスは、同国内に二百万匹以上いると推定される野犬たちの中で、血で血を洗う戦いを繰り広げ、いつしか“王”として君臨していた。
彼は、人間に対する殺意で満ち溢れていた。
特に虐げられていたわけではないが、聡明なマルコシアスは、自分が人間たちの玩具であり、見世物であることを強く感じていた。飼い主が、他の人間たちを邸に招いては、自分を引っ張ってきて晒し者にしているのが、我慢ならなかった。
だから、飼い主が邸を捨てることになり、山奥に連れてこられて解放された瞬間、マルコシアスは飼い主の喉笛を噛み砕いて殺した。そのまま逃げようとする飼い主の一家の車に追いすがり、ガラスを破って後部座席に飛び込むと、中の一家を皆殺しにした。
人間をこの世から駆逐したい。
マルコシアスは、自分とは違う二足歩行で歩く、あの鈍重で醜い生物が、同じ世界に存在していることが許せなかった。それゆえに、ルーマニアの野犬軍団を指揮して、人間たちを絶滅させるための足がかりとしていた。幸いなことに、愚かな人間たちの中には、自分たちに同胞を殺されてもなお、「動物愛護」と称して、自分たち野犬を守ろうとしている連中もいた。そのため、マルコシアス軍団は日常的に殺人を繰り返しながらも、非常にのびのびと生活を送ることが出来た。
人間は、同じ人間に殺されたら糾弾するくせに、他の動物に殺された場合は諦めてしまう。馬鹿な生き物だ、とマルコシアスは呆れていた。
リリィが接触してきたのは、つい最近、数年前のことだった。正確な年数はわからない。人間たちは、「何年何月何日前」と時間の概念を口にするが、犬であるマルコシアスには、その時間間隔がよくわからない。
「私たちと共に来れば、より多くの人間を殺せますよ」
くだらない、とマルコシアスは思ったが、逆に利用してやるのも手かと考えた。結果、リリィの誘いに乗り、シリアル・キラー・アライアンスに名を連ねることとなった。
しかし、利用するだけ利用したら、いつかはシリアル・キラー・アライアンスも皆殺しにしてやると、密かに叛意を抱いていた。
そして今回のマンハントである。
気は乗らなかったが、ターゲットである女が常軌を逸した能力者であると聞いて、興味が湧いた。
人間を滅ぼしていく過程で、いつかは出会うかもしれない強敵。もしも、ターゲットが本当に異常な力を持つ存在であれば、今後の試金石となりえる。それに、シリアル・キラー・アライアンスはターゲットの処遇に困っているようだったから、ここで恩を売っておくのも悪くはないかと思った。
数日後。
マルコシアスは先に金沢へと現地入りし、情報が来るのを待っていた。
そうして、ターゲットを守る女が、姿を現したと聞き、仲間を引き連れて竪町商店街に向かい――現在に至る。
※ ※ ※
匂いを辿り、ターゲットへと繋がる道を逆走する形で、マルコシアスは竪町商店街の中を駆け抜けてゆく。
ダンスクラブで発生した銃撃事件と、その後のマルコシアスら野犬軍団の登場で、ポスト東京渋谷センター街を目指している夜の竪町商店街は、普段はこの時間でも若者がうろついているのに、誰一人いなくなっている。無論、普段の竪町商店街がどのような状況か、マルコシアスは知らない。ただ、自分たちの出現によって、人間どもが蜘蛛の子を散らすように逃げたのだと察し、気分が良かった。
ふと、殺気を感じ、走るのを止めた。
前足の三センチ先の路面に、上空から飛んできた短刀が突き刺さる。
……グルル。
唸り、脇の建物の屋根上に向かって首を曲げると、黒いタートルネックとレザーパンツを身に着けた束ね髪の女が、こちらを見下ろしていた。
「ワンちゃん、どこへ行くの?」
マルコシアスは、事前に入手していた情報を思い出す。おそらく、あれはアマツイクサと呼ばれる集団の女で、名前は、あやめ。
遠野あやめ。旧姓は神座部(かみくらべ)。
手強いな――ひと目で、マルコシアスは相手の力量を量った。
四肢に力を入れ、戦闘に備える。
不意に、後方に気配を感じた。
上方の女は囮か。
マルコシアスは身を翻して、猛然と背後の敵に向かって飛びかかる。
後ろにいた男の首に噛みつき、そのまま肉を引き千切ってやった。血が噴き出し、男は目を丸くして、自分がなぜ死ぬのか理解に苦しむ顔をしていた。
「老(ラオ)さん!?」
そうか、奴は、ラオというのか。その情報はなかったな――とマルコシアスは考えながら、ベッ、と肉片を吐き出した。
女が路上に降り立つ。短刀を持って、突進してくる。
愚かな。
人間は犬のスピードを侮っている。犬に一度でも追いかけられたことのある人間ならば、正面から渡り合う勇気などないはずだ。重量のある犬の肉体が、時速六十km以上の速度でぶつかってきて、喉笛に噛みついたらどうなるか、まるっきり想像出来ていない。そして命失う瞬間になって、初めて気が付くのである。人間が、この地球上で、どれだけノロマで貧弱な生物であるかを。
マルコシアスは、女の足首にまず噛みつこうとした。機動力を奪うためである。しかし、その攻撃は避けられてしまった。女は素早く察知して、足を上げたのだ。
ほう――マルコシアスは驚き、次に来た女の短刀攻撃を、横に跳んでかわした。
距離を置いて対峙する。
先ほど、老人の喉を噛み千切ったせいで、鼻に血がベットリとついてしまい、例の上杉小夜とかいう女の匂いが消えてしまった。もう一度、匂いを憶えに行かねば――と考えていたマルコシアスの横目に、その上杉小夜を背負った、男の姿が映った。
生きていたのか――と驚かされ、マルコシアスは男、遠野玲を追い駆けようとした。
「アキラの邪魔するな!」
あやめが妨害しようとしてきた。
マルコシアスは振り返り、向かってきた相手の懐へと一瞬のうちに飛び込むと、その鋭い牙を一本だけ剥き出しにして、ナイフで人を斬るように、あやめの体を下から上へと切り裂いた。
服が裂け、血が舞う。あやめが悲鳴を上げた。だが、傷はそれほど深くない。咄嗟にかわされたのだ。
すぐにマルコシアスはあやめの足首に噛みつき、頭をひねり、強力な首の力を活かして、彼女を転倒させた。倒れた彼女の上に乗っかり、顔面を食い破ろうとする。だが、相手が口をすぼめたのを見て、急いで体を後退させた。直後に、あやめは「プッ」と口から針を吹き出した。先ほどまでマルコシアスの頭があった場所を、長細い針が飛んでいく。危うく突き刺さるところだった。
腹部を蹴られ、マルコシアスの体が宙に浮く。空中で一回転し、整然と着地した。
この女を倒すのは時間がかかる――と判断したマルコシアスは、オオオンと遠吠えをし、部下を呼んだ。ダンスクラブの方向から、部下の犬たちが駆けてきた。遠野玲と上杉小夜を逃したミスを、どれか一匹殺すことで償わせようかと考えたが、ひとまず不問にすることにした。どうせ人間の言葉はおろか仲間同士の会話もろくに理解出来ないような、愚かな犬たちなのだから。
「ちょ、待ちなさい!」
あやめの怒声は、飛びかかる部下たちの吼え声に掻き消された。あの部下たちでは、足止め程度にしかならないと知っていたが、マルコシアスにはそれで十分だった。
とにかく、自分の包囲網を破った遠野玲を始末して、上杉小夜から再度匂いを手に入れる。自分のプライドのためにも、まずはそれが最優先すべきことであった。
※ ※ ※
小夜は、薄れゆく意識の中、自分がどこにいるのかを考えていた。
広々とした草原――に見えたが、よく観察してみると、どこかの施設の庭のようだった。草地はそれほど広いわけではないが、視界良好である。これなら敵の接近にも気が付きやすい。
平べったい白色の円形建築物が見える。
そこで、ここがどこであるか、ようやく小夜は理解した。
(金沢21世紀美術館……)
遠野玲が携帯電話でやり取りをしている。
耳が遠くなっており、何を話しているのか、よく聞こえない。耐火服、火炎放射器という、よく耳にした単語が聞こえてくる。
玲に背負われたまま、小夜は、自分が屋内に入ったことを知った。
21世紀美術館の中。夜間は閉鎖されているはずだから、きっとガラスを破って侵入したのだろうな、と考えた。警報装置が鳴っているのか、鳴っていないのかも、わからない。少なくとも、あれだけ竪町で大騒ぎを起こした後で、近くにある美術館で不法侵入が発生すれば、警備会社も大慌てで出動してくるだろうな、と小夜は思った。
長い黒髪の女が玲に駆け寄ってきた。誰だろう、と小夜はぼんやり考えた。だけど、見知らぬ人間のことなど、わかるはずもない。
女は何かを玲に渡した。玲の全身に負荷がかかったような気がした。黒っぽいものが見えたから、きっと耐火服と火炎放射器なのだろう、と感じた。
突然、美術館の全面ガラス張りの窓が、部分的に砕け散り、魔犬が飛び込んできた。砕けたガラスを足でよけながら、ヒタヒタと、距離を詰めてくる。小夜は、自分に噛みついてきたドーベルマンよりも、遥かに威圧感のある犬だと感じ、背筋に寒気が走った。
女が叫んだ。玲は走り出す。犬が吼え、走り出そうとしたが、女は犬を押さえた。小夜が見えたのはそこまでで、廊下の角を曲がったせいで、その後どうなったのかはわからない。きっと女は助からない。そんな気がした。
そして、自分も。
美術館の一室に、小夜は横たわっている。
四方の壁に等間隔で絵画が架けられているが、室内が暗いこともあり、小夜にはよくわからない。21世紀美術館のことだから、きっと前衛的な絵画なのだろうな、と思った。
以前、エリカと一緒に金沢旅行をした時、21世紀美術館に入ったことがある。展示物を鑑賞しながら、小夜は、自分には合わない世界だと感じた憶えがある。
エリカは喜んでいたようだが。
あの頃は、まさかこんな形で、再び金沢に訪れるとは思ってもいなかった。
そして、自分の最期を迎える土地となろうとは。
展示室の中央に、牛の頭をした巨大な偶像が鎮座している。頭が牛である以外は、胴体部分は有機的に歪んでおり、製作者の脳を疑いたくなるような気持ち悪い形状をしている。どうも中に入れるオブジェのようで、玲は、耐火服と火炎放射器を手に、牛の偶像の中へと姿を消した。
しばらく時間が経った。
息遣いが聞こえる。
犬の息遣い。
(来た……)
展示室の入り口に、六頭の犬が姿を現した。その内の一頭は、ガラスを破って突入してきた、例の魔犬だった。
魔犬を最後尾中央に据えて、犬たちは隊列を組んで、小夜の近くに寄ってくる。ハッハッと荒々しい息遣いが、鮮明になってきた。もう間もなく、終わりが来ようとしている。
エリカの顔を思い浮かべる。
あの世に行ったら、エリカとどんな話をしようか――小夜は、楽しいことを考えて、安らかな気持ちで最期を迎えようと思っていた。死ねば、エリカに会える。そう考えると、あまり時間をかけず、早く殺してほしいくらいだった。
だが天は、まだ簡単には死なせてくれないようだった。
中央の牛のオブジェが、穴という穴から炎を噴き出した。
目、口、鼻、腹に開いた窓――全身から炎を噴射させ、やがて炎は牛の偶像自身を燃やし始めた。芸術家渾身の力作は、炎に包まれながら、ボロボロと崩れ落ちていく。
燃え盛る偶像の残骸の中から、黒塗りの魔人が現れた。
片手に火炎放射器を持つ魔人。その名もマッドバーナー。
髑髏型のガスマスクをシュウシュウと鳴らさせ、背中に背負った耐火性の燃料タンクの金具が、歩を進めるたびにガシャンと響く。
動きは鈍重だが、体から発せられる迫力は、もはや人間のものではない。
悪魔だ。
巨躯を誇るブルテリアが、ガウ、と吼え、マッドバーナーに襲いかかる。
マッドバーナーの火炎放射器が、炎を吐いた。
無防備に特攻してきたブルテリアは、全身を火炎に包まれて、キャンキャンと悲鳴を上げながら逃げ惑った。ボスの魔犬の近くに寄った瞬間、魔犬の牙が光り、ブルテリアの首を掻っ捌いた。あまりの切れ味で、赤黒く細い血管がズルリと飛び出し、空中でプツンと切れ、噴水のように血飛沫が上がった。
残る五頭の殺人犬と、紅蓮の殺人鬼。
魔犬が雄叫びを上げて号令を下し、部下の四頭の犬が陣を組んで攻撃してくる。
マッドバーナーは冷静に、火炎放射器の引き金を引いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます