第80話 全て終わりに
―グラスラビリンス―
小夜は、遠野屋旅館から歩いて一分ほどの場所、竪町商店街の香林坊側の入り口付近にある、ダンスクラブ『グラスラビリンス』に待機していた。
敵の拠点に近い場所を選択したのは、彼女なりの計算があった。
(これだけ近ければ、戦いにくいはず)
犯罪者の心理としては、遠方よりも地元の方が犯罪行為を行いにくいものだ。誰も自分を知らない場所でなら、気にせず暴れることが出来る。しかし、自宅付近では、いつ知り合いと遭遇してしまうか、わからない。正体を隠している犯罪者にとって、自宅近辺での荒事は避けたい。
小夜は、マッドバーナーを殺すに当たって、いくつもの罠を仕掛けていた。他の場所ではなく、ダンスクラブを決闘の場に指名したのも、彼女の罠のひとつであった。
(卑怯? いいえ、これは戦術。どんな手を使ってでも、奴を倒す)
クラブの奥のソファに腰かけ、じっと時が来るのを待っている。
もうすぐエリカの仇が討てる。
奴が来れば、自分もエリカも救われる。マッドバーナーの死によって、永遠に。そして天国で再び結ばれるのだ。
きらめく照明の下、踊りを楽しんでいる若者たち。間もなく日付が変わろうとしている深夜、体力の心配もせず、一時の享楽に耽っている。彼らの顔に迷いはない。昔の小夜であれば、嫌悪感を抱いたところだが、この日は違った。
(きれい……)
明るく弾んだ心が、小夜の頭の中に流れこんでくる。
人間の、どす黒く、汚い心ばかり見てきた小夜は、こんなにも純粋で眩しい心があるのかと、初めて気が付かされた。
いや。
自分は、今までも見てきたはずだ。触れてきたはずだ。
だけど遮断してきた。
人間の心など信じられなかった。信じることが怖かった。
人間の本質とは悪であると、決めつけていた。
今晩。
小夜は、不思議と、どんな人間でも許せるような気分になっていた。
無論、マッドバーナーを抜かせば。
(ああ……エリカ……私は、とても、あなたが愛しい……)
目を閉じる。
幸せだったエリカとの日々が、まぶたの裏に甦ってくる。
自分は、今晩、死ぬ。
マッドバーナーを殺した後で。
※ ※ ※
昼間にさかのぼる。
「――今晩0時に、また連絡するわ。必ずあなた一人だけで出て。その時に、居場所を教えてあげる」
約束通り、十分後の電話に出たマッドバーナーへ、小夜は次の連絡の時間を指定した。0時になったら、グラスラビリンスのことを教える。それで全ての準備は整う。
電話を切った後、もう夜までやることはなくなり、小夜は椅子に深々と腰掛けた。急に今までの疲れが出てきた。
「よう眠っとるわ、あの子。まるで眠り姫みたい」
おっとりした口調で、割烹着を着た四十代くらいの女性が、障子を開けて部屋の中に入ってきた。
ここは小夜が匿わせてもらっている、麹屋の自宅部分にある一室である。
本来は、麹屋の妻であるこの女性、
「“
「いややわ、古い名で呼んで。お茶屋で芸妓やっとった、『滝の白糸』はもうおりません。いまは麹屋の嫁さん、ただの滝川綉や」
「でも、もう仕事を辞められているのに、私のこと助けてくれて、本当にどうやってお礼をすべきか……」
「うちは小夜さんのこと、いつでも応援しとるよ。気にせず、いつまでもここに泊まりまっし」
「ありがとうございます。でも、それも今日で終りです」
「あら、そぉ? ほんなら、準備せんとなぁ」
綉は微笑みを返すだけで、それ以上深くは追及しなかった。
小夜は冷たいとは思わなかった。むしろ最高の優しさだと思っていた。綉とて、これから小夜が何をしようとしているか、すでに察知していることだろう。それでも、あえて深入りしてこない。
その心遣いが、ありがたかった。
「最後に、ユキと会いたいのですが」
「ええよ。こっち来まっし」
綉に案内され、廊下に出て、ユキが寝かされている部屋へと連れていかれる。小立野にある、落ち着いた和風建築の一軒屋。東京の薄汚れたアパートで暮らしていた小夜は、幼い頃育った実家と同じ薫りのする、この家がとても好きだった。いつか、こんな家に住んでみたいと思い、そして今日限り自分には“いつか”なんて永遠に来ないのだと思い出して、無性に哀しくなった。
「警察は楽しかった?」
「ええ。とても」
エリカがまだ生きていた頃は。
「そう。うちも、あなたと一緒に仕事出来て、本当に楽しかった」
綉は泣いていた。
部屋に通され、綉が「店の様子見てくる」と出ていった後。
小夜は、いまだ眠り続けているユキの顔を見つめ、ぼんやりと、エリカのことを思い返していたりした。
ユキはどことなくエリカに似ている。
(どこなんだろう)
顔は似ていない。性格も、エリカの方が底抜けに明るく、ユキのような暗い雰囲気はかけらもなかった。
(魂、かな)
エリカも、ユキも、清らかな魂を持っていると、小夜は思った。
この薄汚れた人間社会の中で、エリカやユキは、心の深奥に綺麗なものがあり、他の人とは違う魅力があった。ユキは、まだまだ至らない点が多く、非常に不安定ではあるものの、方向性さえ間違えなければきっと素晴らしい女性に成長するだろうと、小夜は感じていた。
「きっと――あなたがもっと大きければ――エリカのことを、忘れられたかもしれないな」
小夜は明るく笑った。
エリカが生きている時しか、本当に楽しいと思って笑ったことのない小夜が、この瞬間は、心の底から幸せを感じて、屈託なくにっこりと笑った。
眠っているユキの顔に、自分の顔を寄せ、唇にキスをした。
愛しさを噛み締めるように、しばらくの間、唇を交わらせていた。ただ唇を重ねるだけでなく、より深く自分の愛を注ぎ、またユキの温もりを感じていた。
神領のユキの家で語らったこと、ユキを守ろうとして傷ついたこと、命落としたところをユキに蘇らせてもらったこと……それほど多くはないが、何よりも誰よりも濃く時間を共有していた、そのことを振り返ると、より一層ユキのことが愛しく思えて、小夜はユキの小さな頭を強く抱きかかえた。
「――っ」
やがて顔を離し、吐息を漏らす。
火照った顔を手であおいだ。
「ごめんなさい、勝手にキスして……最後に、あなたと話せなかったのは残念だけど、これで心置きなく、逝ける――」
小夜は、部屋を出る時に、障子越しにもう一度ユキの方を向いて、
「今まで、ありがとう。さようなら」
別れの言葉を呟いた。
※ ※ ※
0時になった。
小夜は携帯電話を出し、フロア内の音楽が一時静かになるタイミングを見計らって、倉瀬刑事の番号に電話をかけた。
すぐにマッドバーナーが出てきた。
『俺だ。ユキは無事か』
「さあ、どうかしら。あなた次第よ」
無事よ。
きっと、綉さんに見守られながら、安らかに眠っていることでしょうね。
『約束は破らない。俺一人で行こう。だから、絶対にユキを傷つけるな』
「早く来ないと、その保証もないわ」
出来る限り底意地の悪い声音で、小夜はマッドバーナーに脅しをかけた。
「私はいま、『グラスラビリンス』というダンスクラブにいるわ。知っているかしら、店の場所」
『知らない。どこだ』
「そう。案外、こういうのって地元の人間でも知らないのね。竪町商店街の入り口、香林坊方面よ」
『な――』
「驚いたかしら? 目と鼻の先よ。急いで来なさい。遅れると、ユキの命は、すぐに消えるわ」
最後まで言い切る前に、向こうは電話を切った。
これで、よし。あとは、マッドバーナーが来るまで、待っていればいい。奴が命落とす瞬間を夢想しながら、永遠とも思える一分間を……。
――ここか、この店だな!
地上の方向から、マッドバーナーの心の声が飛び込んでくる。数多くのノイズ、ダンスクラブにいる若者たちの心の声に混じって、憎きマッドバーナーの心が、強い波動となって伝わってくる。
「私は、黒猫の小夜――いまは、シリアル・キラー・アライアンスの一員、ダークキャット」
小夜はソファから立ち上がった。
いよいよ決着をつける時が来た。
「でも、殺人鬼になんてならない――マッドバーナー、お前を殺して、全て終わりにするわ――私の、命も」
【会員No】823
【登録名 】ダークキャット(黒猫)
【本 名 】上杉小夜
【年 齢 】28歳
【国 籍 】日本
【ラ ン ク】A
マッドバーナーがダンスフロアに飛び込んできた時には、小夜は踊り狂う若者たちの群れに紛れ込んだ。
――いない!? どこだ!
心の声が、レーダーの役目を果たしている。
そして、マッドバーナーが踊っている者たちを掻き分けるたびに、押しのけられた人間の怒りの声が、小夜の脳内に伝わってくる。
どの方向で、誰が何を考えているのか、上手にキャッチすることで、小夜は常にマッドバーナーの位置を捉えている。それは、さながら潜水艦のソナーのような機能を果たしている。心の声を読み取ることが、そのまま索敵へとつながっている。
さらにダンスクラブでは、踊りが終わるまで人は動かない。街中の人込みでは、人々は流れていってしまうため、常に群衆に紛れるということは不可能である。固定された場所に、常に大量の人間が密集していること。それが、小夜が仕掛ける罠の、最大の条件であった。
そして罠は完成した。
(さようなら、マッドバーナー)
回り込むようにして、若者たちの間をすり抜け、音もなく、小夜はマッドバーナーの背後へと近づいていく。
隙だらけの背中が見えた。
拳銃をベルトに着けたポーチから抜き、周りに気付かれないよう手で隠しながら、小夜はマッドバーナーへと距離を詰めていく。
いつ振り返るかと思うと、冷や冷やするが、焦ってはいけない。確実に仕留められる距離まで近付いてから、一発で、相手の脳天を撃ち抜くのだ。
(あと少し――)
もうちょっとで、マッドバーナーを殺せる距離まで詰められるという、まさにその時であった。
――上杉さん!?
二神の心の声が、背後から聞こえてきた。
(え……?)
小夜が、普通の人間であれば、ここで戸惑いはしなかったであろう。実際に呼びかけられるまで、普通の人間は、この状況での背後からの二神の接近には気が付かない。その事実を知ることもなく、マッドバーナーに接近し、頭を撃って、それで全て終りだったかもしれない。
ところが、小夜は聞こえてしまった。
来るはずのない――来てはならないはずの、二神が――そのような短絡的な行動を、愚かな行動を、冷静さを欠いた行動を取るはずのない二神が、まさか約束を破って、マッドバーナーの後をつけてくるとは、小夜は考えもしていなかった。
それだけに衝撃も大きい。
「二神……っ」
振り返った小夜に、すでに目前まで迫っていた二神は、拳銃を持った彼女の腕をガッシリと握ってきた。
「上杉さん、駄目だ! 我々は刑事だ! 殺人なんてしてはならない!」
「二神、やめて――!」
周りの人間が、踊るのをやめて、二神と自分の揉み合いに注目し始めている。非常にまずい。
間違いなく、自分の視界の外にいるマッドバーナーも、この様子を見ているはずだ。
「どうしてです! あなたは、あなたは法を守る人だ! 殺しなんてするような人じゃないはずだ! 私の尊敬した警察官のはずだ! それなのに――なぜ!!」
「二神、聞いて! 私はもう刑事なんかじゃない! マッドバーナーを殺して、それで終わりなの! 殺したら全ての幕を引く! だから、いまは離して!」
「いやです! あなたに、そんなことはさせない!」
「二神――!」
「いやだ、いやだ、いやだ!」
駄々っ子のように喚きながら、二神は抵抗を続ける。
(そんな……)
小夜は愕然とした。接触している二神の心の中が、映像を伴って、ダイレクトに脳内に流れ込んでくる。そして、確信する。二神の心は壊れかかっている。幼い頃から厳格に法を守り、清く正しく生きてきた二神は、今回の一連の事件に巻き込まれる中で、自分の持っていた“正義”の概念が大きく崩されてしまい、自我崩壊を起こしつつある。
全ては自分のせいだ。
二神は自分のことを強く信頼していた。そんな自分が、マッドバーナーを殺すために、法や秩序や正義を守ることを放棄して、闇の世界へと足を踏み入れてしまった。彼にとっては、この上なく、残酷な裏切りを受けたようなものだ。
自分の、せいで。
「こんな――こんなもの、捨ててください!」
柔道で鍛えられた握力で、二神は力任せに、小夜の拳銃を奪い取ろうとした。
小夜は抵抗した。
腕力では二神に負けてしまう。指がこじ開けられ、唯一の所有銃器であるハンドガンH&K・P2000を奪われそうになる。マッドバーナーも背後にいる、そのことも相まって、小夜は軽いパニック状態に陥った。
引き金を、引いてしまった。
銃声がした。
二神のこめかみに、赤い穴が開いている。目を見開いたまま、二神は力を失い、ぐらりと崩れ落ちた。
床に、倒れる。
頭に空いた風穴から、血が流れ出る。
周囲から、悲鳴と絶叫が上がった。
小夜は――現実から目を背け、背後を振り向いた。
二神は自業自得だった。ここに来なければよかったのだ。
彼の死を悼むよりも、優先すべきことがある。
殺せ、殺せ、殺せ。
全ての元凶は、奴なのだから――
「マァァァァァッドバァァァァァナァァァァァ!」
憎しみを込めて、小夜は、P2000の引き金を引いた。
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