第78話 アイオーン教団

「しっかりしろ、玲」


 シャンユエの声が聞こえる。


 死んだと思って目を閉じていた俺は、ゆっくりとまぶたを上げた。


 サラスパティの店内の風景が目に飛び込んでくる。


 まだ生きている。


 俺は、ファティマの接近を許し、首に刃を当てられ、そして――


 どうなった?


 首筋を撫でてみると、繋がっている。確かにサーベルで斬られた感触があったのに。何事もなかったかのように、傷ひとつ負っていない。


 今まで見ていたものは、全て幻だったのか。


「まさか、幻覚……か!?」


 この店に入ったときから焚かれていた、甘い匂いの香。吸うと心地良い気分になり、頭が蕩けそうになっていたが、その香自体がすでに幻術の道具の内に入っていたのかもしれない。


「わ、わ、わあああ!」


 アズが、何から身を守ろうとしているのか、目に見えない相手に向かって必死で手を振っている。彼もまた、幻術にかかってしまっているのだろう。


「いやあね。ちょっとしたエイプリルフールじゃない。マンハントに参加する殺人鬼を相手に、その程度の注意力で立ち向かおうなんて、無謀な坊やたちね」


 イザベラが、カレーを盛った皿を二杯分、両手に持ち、カウンターの方まで出てきた。さっき首を刎ね飛ばされたはずの彼女は、普通に平気な顔をして歩いている。


 カウンターのメモ書きを見て、俺たちが何を筆談していたか理解したようで、くすり、と笑った。


 彼女がどの文章を見たのかは、俺にもわかった。


 シャンユエが、『本当に悪魔かもしれない』と書いた箇所だ。


「まあ、半分正解の、半分間違えね。私がさっき話した、永遠に近い時間を生きている、というのは、比喩でもあり、本当の話でもある……」

「俺にかけた幻術――幻術か?――それもまた、何かのトリックか?」

「この香はね」


 と、イザベラは、カレーをとりあえず適当な場所に置くと、カウンターの裏に隠していた盆を取り上げ、中の燃えている香を俺に見せてくる。独特の甘ったるい香りが、さらに強くなった。


「古代インドで媚薬として使われていたものよ。なかなか効き目があるでしょう? でも、所詮は薬を使ったトリック。知識さえあれば、いくらでも防げる。そこの彼女にも同じものを仕掛けてあげたのだけど、駄目だったわ。平気みたい。ほら」


 本当だ。


 殺人鬼に襲われる幻覚を見て、慌てていたのは俺くらいで、シャンユエは平然とした顔をしている。一切、幻術には引っかかっていないようだ。


「私の先祖は、かの諸葛孔明だと言われている」


 んな馬鹿な。


 俺は呆れて口をあんぐりと開けたが、シャンユエは大真面目な顔をしている。本気か、この女。


「だから長い歴史の中で研鑽されてきた知識があり技術がある。この程度の下らぬ妖術で煙に巻けると思うな。十分に対処法は心得ている」

「まあ、頼もしいわ。そこのマッドバーナーさんと違って」


 胸に突き刺さるひと言だ。


 情けない。


 アズも落ち着きを取り戻したところで、俺とシャンユエはカレーを食べ始めた。


 本場インド風の水っぽいカレールーが、パサパサした食感の米とよく合っている。少々辛めだが、食べれば食べるほど、食欲が湧いてくる。これほど美味しいカレーを今まで食べたことがない。


「医王山で養殖されているニジマスを、時々カレーの具に使うこともあるわ。私のお薦めは、そのニジマスのカレー。事前に連絡くれないと材料が揃わないんで、なかなか作れないけど。味はうちの店で一番よ。保証するわ」

「これで、こんなに美味しいのに?」

「あら、ありがとう。でもニジマスのカレーはもっと美味しいわ」

「味つけは辛いのか?」

「甘口ね。バターテイスト。調理したニジマスを、カレールーの中でとろとろになるまで煮込んで、身に十分味が染み込んだところで、皿に盛り付けるの。まろやかな舌触りに、口の中で溶けるニジマスの魚肉。鼻腔に漂ってくるバターの香り……どう、食べたくなってきたかしら?」


 やばい。腹が鳴り始めた。


「次来た時は、ぜひ」

「いいわよ。私も退職して、ようやくこの店に長居出来るようになったし、これからは頑張って切り盛りしていくわよ。応援してね」

「ああ――って、おい」


 ついノリツッコミをしてしまう。

 

 話がかなり脱線してしまっている。


「そろそろ本題に入ろう」

「シリアル・キラー・アライアンスのことかしら」


 悪戯っぽく、イザベラは口元に笑みを浮かべた。


「そうだ。俺は、あなたの口から連中について教えてもらうために、ここへ来た。何も知らないまま、得体の知れない奴らと戦うのは、やり辛い。知っていることは出来る限り話してほしい」

「最初に言ったでしょう。私に話せることは全部話すって。その前に……」


 イザベラは、アズの方を見た。


「あなたは、私が、『永遠に近い時間を生きてきた』と話したことについて、そんなわけがない、と疑っているようね」

「当たり前だろ。この世界に、永遠に生きられる人間なんて、いやしない」

「そういう夢も希望もない考え方、好きじゃないわ。でも、現実はその通りね。私は永遠に近い時なんて生きていない。ただ、過去から積み重ねられてきた“記憶”が、私の脳に、永遠に近い時間の流れを刻み付けているの」

「意味わかんねえっすよ。なんすか。つまり、あんたの頭の中には、長い長い人類の歴史が、全部詰め込まれているってことっすか」

「正確には、歴史を歩んできた人間たちの記憶、全部ね」


 カウンターの上に置いてある地球儀を取り、イザベラは地球をくるりと回すと、地中海の辺りに指を当て、回転を止めた。


「グノーシス主義と呼ばれる思想が、かつて地中海世界に存在していた」


 謡うようにイザベラは語り始める。


「グノーシスとは、“知識”のこと。認識・知識によって魂を高め、最終的には神の域に到達出来るようにする――それが、グノーシス主義。私たちシリアル・キラー・アライアンスの源流は、そのグノーシス主義から誕生した秘密結社。それが変化していったもの」

「秘密結社!」


 シャンユエが声を上げた。


「やはり、そうか。謎を解く鍵は、そこに……」

「話を続けるわ。秘密結社の創立者はシモン・マグスという名の男。このシモン・マグスについては?」


 俺は知らない。首を左右に振った。シャンユエと、アズが、「ああ」と納得したような顔になっているのが、置いてけぼりを食らわされたようで、なんとなく虚しくなった。


「西方グノーシス主義で有名な男ね。彼が立ち上げた秘密結社の名は、『アイオーン教団』。アイオーンとは、時間、人間の一生、あるいは時代とか世紀。このアイオーンの名が示すように、アイオーン教団では、時間の流れを特に重視していたわ。人間の知識が薄れ、認識が弱まるのは、何が原因か――それは、時間の流れが忘却を運ぶためである――といった考えのもとに、教団は知識の永続的な保有を試みた」

「知識を書物などで後世に伝えるということか?」

「それだけでは足りない。彼らは、“知識の刷り込み”を行ったの」

「刷り込み?」

「すなわち、知識のコピー」


 イザベラがその後語った内容を要約すると、次のような話だった。


 秘密結社アイオーン教団では、知識を永続的に継承するために、薬物を使って余計なことを考えられなくなった子どもに、その子どもが成人するまで、ひたすら知識を詰め込む作業を行っていた。


 人間の脳の容量など、最初から度外視である。


 当然、耐え切れず、正気に戻った時に自ら命を絶つ子どももいた。


 しかし、稀にどれだけ知識を詰め込んでも自我崩壊を起こさない子どももいた。その子を次の教団のリーダーとして立て、持てる知識を全て与えていく。そうやって育った子どもが、成長して後、次の後継者となる子どもを捜して、また知識を詰め込んでいく。


 代を得るごとに、時の流れとともに蓄えられていった知識が、どんどん加算され、増やされていく。


 そうして、極限まで知識を得ることの出来た人間が、いつしか神へと近づいていく――それこそが、アイオーン教団の目的である、とのことだった。


 途方もない話だった。


 しかし、シリアル・キラー・アライアンスよりは、よほど現実味のある話だと思う。


「で、そのアイオーン教団が、どうしてシリアル・キラー・アライアンスへと変化していったんだ?」

「グノーシス主義の二元論、善と悪の対立――について小一時間語ってもいいのだけれど、眠くて退屈な話だから、省略するわ。わかりやすく説明するなら、そうね……」


 イザベラは顎に指を当てて、上手い言葉はないかと考えているようだった。


「魂の開放。人間の本当の姿は魂にこそある、そして、魂とは悪である……だからこそ、悪徳を為すべし、といったところかしら。わかる?」

「わかるか」


 東洋哲学専攻の俺でも、イザベラの言葉は意味不明だ。


 ここでアズが身を乗り出した。


「つまり、あれっすよね。グノーシス主義本来の、肉体や物質を悪とし、魂や知識を善とする思想が、まるっきり逆に入れ替わってるってことっすよね。なんでそんなことになってんの?」

「私にはわからないわ。ただ、グノーシス主義に見られる反キリスト教の精神が、もしかしたら善悪の価値観をも引っくり返してしまったのかもしれないわね」

「いや、ありえねーっすよ。グノーシス主義はキリスト教をも利用してるじゃないっすか。決して、キリスト教と全面的に対立してるわけじゃないっす。むしろ相性は非常にいい面があったと思うんすけどね」

「西方グノーシス主義には、楽園でアダムとイブを誘惑した蛇は、実は至高神が人間に正しき知恵を授けるために遣わした使者であると、真っ向からキリスト教とは相反する見解を示しているわ。これなんて、まさに善と悪の逆転と言えるのではないかしら」

「いや、いやいや、いやいやいや、善と悪の価値観の逆転なんて、そもそもキリスト教とかグノーシス主義とか抜かした問題で――」


 待て待て待て待て。


 俺は、激論を交わしている二人の間に割り込み、強引にストップをかけた。この際、そんな話は学者にでも任せればいい。


 問題はシリアル・キラー・アライアンスのことだ。


「話を元に戻してくれ」

「わかったわ。そんなに睨まないでよ――もちろん、最初の頃は、シリアル・キラー・アライアンスなんて名前ではなかったわ。あくまでも、アイオーン教団はアイオーン教団……でも、それこそ伝説のテンプル騎士団のように、表舞台からは隠れて、地下活動を続けていた闇社会の存在となっていた。そこへ来て、中世には魔女狩りや、悪魔学の台頭が始まった……」


 悪魔学。


 例の、ルシファーだとか、アラストルだとか、そんな類の研究のことか。


「少なくとも、中世には、抑え込まれた人間の本性――“悪意”――それを解放することが、真の魂の開放であると、アイオーン教団は信じるようになっていた」

「そこまでの変化……何が、教団に起きたんだ?」

「さあ。とにかく、中世における悪魔学の流行は、皮肉にも、キリスト教徒たちが弾圧しようとした異教徒たちを、かえって凶悪化させることに繋がってしまったの。アイオーン教団も、その例に漏れず、もともと地下に潜った秘密結社だった教団は、悪魔という概念を得て、次第にサタニズム(悪魔崇拝主義)へと傾いていった」

「禁酒法のせいで、かえってアル・カポネのようなギャングを生み出してしまった、アメリカと同じような話だな」

「そうよ。今では、日本のヤクザもまた、取締りが厳しくなったせいで、凶悪なマフィア化を遂げていると聞くわ。人間が人間を排除しようとする、その傲慢な態度そのものに問題があるのに、“悪”と決めつければ、とにかく存在全てを否定しようとする。その結果、さらに大きな“悪”を生むとも知らずに……」

「シリアル・キラー・アライアンスにいた女にしては、随分と善人ぶったことを言うんだな」

「私は――アイオーン教団の、原初の教えを受け継いでいる、数少ない後継者の一人だもの」


 後継者。ということは、イザベラもまた、遥か太古からの知識を全て受け継いでいる、ということになる。だから、“永遠に近い時を生きている”となるわけか。彼女の脳味噌の中には、自分のものではない先人の記憶までプリントされているのだ。よくそれで精神崩壊を起こさないものだ、と思う。


「なるほど。シリアル・キラー・アライアンスとは、要するに、秘密結社の一種であると――そう考えればいいんだな」

「私も、その可能性を考えていた」


 シャンユエが横から口を挟む。


「その狂った目的、外部への情報流出に対する罰則、反社会的な活動に、時には現体制を壊しかねないマンハントと呼ばれるゲーム……まるでサタニズムを是とする秘密結社のようだ、と思っていた。しかし、多くのサタニズム中心の秘密結社が、結局はジョークで作られた組織でしかないのに対し、シリアル・キラー・アライアンスは本気で社会に牙を剥いている。新興の組織にしては、やることが大掛かりだ、と思っていたが――由緒は、あるわけなんだな」

「ええ。グノーシス主義を源流とする秘密結社、アイオーン教団。長い歴史の間に積み重ねられた下地があるからこそ、シリアル・キラー・アライアンスは成立したの」

「で、ルクスという男も、当然」

「アイオーン教団の後継者。でも、彼は教団でもかなり危険な男……彼の“悪意”は、代が変わっても受け継がれていく。不思議よ。どの代でも、変わらず、彼、ルクスがいる。きっと、最初のルクスが、自分の“自我”まで、次の代へと継承していったのだと思う。私の中に眠る記憶も混乱しているわ。SKAを創立したのは、いつのルクス? 幼い頃の私を可愛がってくれたのは、どのルクス? って」

「なんであれ、ルクスという男は代が変わりながらも、その“自我”まで継承されて存在し、いまだにその“悪意”は生きている、と。そしてシリアル・キラー・アライアンスを創立したのも、ルクス……」


 場は、一時静まり返った。


 一応の合理的な説明はされたものの、やはり常軌を逸した話であることは否めない。どれだけ気の遠くなるほど古い時代から、シリアル・キラー・アライアンスの芽は伸び始めていたというのだ。


「私は――ルクスが怖い」


 イザベラは、遠くに目をやって、呟く。


「彼は、もしかしたら、膨大な量の“過去からの知識”を継承した時点で、精神が崩壊してしまったのかもしれない。彼の中には、純粋な悪意しか存在していない。彼は、人が死ぬのを、泣き叫ぶのを、見て、喜ぶんじゃ“ない”。悪を為すことに何かを感じるのではなく、悪を為すために悪を為す。それが、ルクスよ」


 どれだけ。


 どれだけ、そのルクスという男は、人間の領域を越えてしまっているのだ。


 そして俺は、そんな途方もない男が率いるシリアル・キラー・アライアンスと干戈を交えようとしているのだと思い知り、急に背筋に寒気が走った。


 俺が戦っているのは、ただの狂人集団ではなかった――。


 その時、俺の携帯電話が震え始めた。

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