第77話 ベルフェゴール

 4月の初旬、春の陽気と新年度を迎えた心地良さからか、若者たちはみな弾んだ表情で竪町商店街を練り歩いている。


 彼らがうらやましい。


 ユキの行方が気になっている俺には、この春を楽しむことなど出来ない。


 いつ悪い報せが来るか、常に戦々恐々としている。


 本来なら、シャンユエの提案に付き会ってられる気分ではないのだが、彼女の言う通り、今は何も出来ることがない。もどかしいが、従うほかない。


「さっきの悪魔の話だが。アラストル、だったか」


 道すがら、俺はシャンユエに尋ねた。オカルトにはあまり詳しくない。彼女はろくに説明せず流してしまったが、俺は全く聞いたことのない固有名詞なので、説明が欲しかった。


「アラストルがどうした?」

「リウ大人が名乗っているそうだが、どんな悪魔なんだ?」

「破壊と憤怒の悪魔、と物の本には書かれていた」


 記憶を辿るように、シャンユエは額を人差し指でコツコツと叩きながら、説明を始める。


「炎の化身のような存在だ。本当かどうか知らないが、地中海あたりの地方神だったかな? 詳しくは知らないが、アラストルという言葉は、ギリシア語で“復讐者”を表すそうだ。ゼウスの異名ともされている。恐らくはキリスト教の興隆に伴い、邪神として駆逐され、それがいつしか悪魔として語られるようになったのだろう」

「キリスト教による駆逐?」

「その程度のことも知らんのか」


 俺だって東洋哲学を勉強していた。彼女の言わんとしていることは理解出来る。ただ、ムキになって自分のプライドを守るほどのことでもないので、彼女の揶揄は聞き流すことにした。


「そもそものユダヤ教にせよ、派生したイスラム教にせよ、単一神を信仰する宗教は、自分たち以外の宗教を邪教とし、そこで崇拝される神は邪神としている。キリスト教は特に酷い。ヨーロッパ一帯の土着信仰は、キリスト教の伝播によって闇へと葬られてゆき、魔女だのオカルトだのといった負のレッテルを貼られてしまった。悪魔、というのもその類になる」

「だから、アラストルは、本来はギリシアあたりの神だったかもしれないが、キリスト教によって悪魔に仕立てられた、と」

「キリスト教が仕立てた、という言い方はやや乱暴だがな。実際は、国の興亡や政治的駆け引きなど、様々な要因が絡んでいるものだ」

「リウ大人は、そのアラストルの名を、何者かとの連絡時に使っている……」


 連絡先はやはりシリアル・キラー・アライアンスなのだろうか。


「先は遠野家の中にいたから言えなかったが」


 香林坊の交差点で信号待ちをしている間、シャンユエは別の話をしてきた。


 彼女は周りを気にしている。


「君の父学円の動向には注意した方がいい」

「どういうことだ?」

「先日、気になることがあって部下に調査させた。実は、一〇五式火炎放射器を風間ナオコの死後回収して、龍章帮に渡したのは、他ならぬ遠野学円だ」

「親父が――!?」

「俄かには信じ難いだろうがな」

「でも、風間ナオコの一件は戦後すぐのはずだ。親父はまだ生まれていない。少なくとも、十数年は経たないと、親父には回収できない。それまで、シリアル・キラー・アライアンスは、どうして一〇五式火炎放射器を回収しなかったんだ?」

「米軍が回収し、管理していたからだ」

「米軍、だと――?」

「いくらシリアル・キラー・アライアンスでも、米軍に厳重管理されている物を回収は出来ない。一〇五式火炎放射器は、その当時のテクノロジーを遥かに超えた高性能の兵器として、米軍の研究対象となっていた。警備も厳しかったのだ。結局、米軍は一〇五式の構造を解き明かすことは出来なかったようだけどな」

「で、いつ、親父の手に渡ったんだ?」

「……1964年9月、トンキン湾事件後、本格的にベトナム戦争が始まろうとしている頃の事だ」


 横断歩道の信号が青になった。俺とシャンユエは、香林坊の交差点を渡り、109の裏手へと向かっていく。


 目指す雑居ビルはもう視界に入っている。


「横須賀の基地から出港した輸送船を、ある集団が襲った」

「ある集団?」

「その集団の名は、アマツイクサ。日本の歴史の裏で暗躍している組織。君はよく知っているはずだ」

「あやめが昔所属していた組織……」

「輸送船は大破した。兵器の類は船とともに、海中に沈没した。が、一〇五式は回収され、アマツイクサの手に渡った」

「なぜ、そんなことを」

「私はそこまでは知らない。アマツイクサが何を考えていたのか、どうして米軍の輸送船を襲い、一〇五式を回収したのか」

「……ちょっと待て。すると一〇五式火炎放射器は、一度アマツイクサが回収したのか? 俺の親父はどこで関わってくるんだ?」

「その話は後だ」

「え」

「目的地だ。話の続きは、終わってからにしよう」


 気が付くと、すでに雑居ビルの下まで辿り着いていた。古ぼけたガタガタの看板に、色あせた『サラスパティ』の文字が書かれている。


 このビルの二階に、シリアル・キラー・アライアンスの元幹部がいる。そう思うと、俺は体中の神経が急激に収縮するような、不快な緊張を全身に感じ始めた。


 いまは退いた身でも、元々はSKAの幹部なのだ。同じ人間と思わない方がいい。


「玲」

「なんだ」

「何が起きるかわからない。先に言っておく。確証は無いが、この一連の戦いの中心にいるのは――風間の一族と、君だ」

「俺が?」

「君は、いつ、三十歳になった」

「去年の11月だ。誕生日は、一応、11月20日だ。両親はすでに死んでいるから、本当の誕生日かどうか、わからないが」

「三十年前、君が生まれた年に何があったか、知っているか」

「三十年前……風間家の虐殺か。風間清澄の一家が皆殺しにされた事件だろ。それがどうしたんだ?」

「その事件だが――」


 シャンユエの目は険しい。


「私の推測が正しいのであれば、この戦いは君にとって他人事ではない筈だ。そして、恐らくは想像を絶する陰謀が裏で渦巻いている」

「勿体つけるな。いまさら陰謀も何もないだろ。シリアル・キラー・アライアンスという狂った集団に、自分の娘を差し出した風間清澄、そしてSKAに援助しているリウ大人。俺たちが戦っているマンハントは、この図式で成り立っているだけだ。難しい話でもなんでもない」

「いいや。事はそんなに単純ではない」


 シャンユエはかぶりを振った。


「単純ではない、と思う」


 それから、彼女は二階を見上げた。何かが起きることを予感しているのだろうか。横顔を覗き見ると、微かな不安の色が浮かんでいる。


 この戦い――風間ユキを巡るマンハントの裏に、何があるというのか。


 その秘密が、ここサラスパティにあるというのだろうか。


 俺には、まだ何もわからなかった。


 サラスパティ店内に入ると、香と、カレーの匂いが漂ってきた。早くもエスニックな雰囲気を醸し出している。


 中は狭い。細長い室内に、カウンター席とテーブル席が並列している。それぞれ合わせても、十人も入れば満席になってしまう。しかし、店の内装は色合いの落ち着いたアジア風の調度品で統一されており、古めかしい置時計やコーヒーメーカーなど、眺めているだけで退屈しない。


「あら、いらっしゃい。初めての方ね」


 グラマラスな体型の色黒肌の美人が、カウンターの奥から微笑みかけてきた。南米風の情熱的な顔立ち。ひと目で、この女がイザベラ・フェゴールであると確信した。


 テーブル席に、すでに客が一人。金髪のロックシンガーのような男。この男が、シャンユエの恋人であり、腕利きの情報屋なのだろう。シャンユエと目が合うと、手を上げて挨拶してきた。


 シャンユエが俺の耳元で囁く。


「彼は、あずさ。名字は聞かないでくれ。アズ、と呼んでいい」

「初めまして、アズ」


 俺は会釈した。


「うぃっす」


 なれなれしい態度で、アズは手を上げた。が、軽薄な感じではない。気さくな男だとは思ったが、悪い印象は受けなかった。


 瞳がいい。知性を感じさせる瞳だ。


「ユエ、遅いぜ。おかげでイザベラさん特製のチャイを三杯もおかわりしちまった。これも必要経費だよな」

「大した金ではないだろ。自腹で払え」

「ひでえ、ひっでえよ。イザベラさん、俺の彼女、こんな奴っすよ。初対面でも構わないから、なんか言ってやってくださいよ」


 アズの抗議に、イザベラは黙って微笑んでいた。


 だが目は笑っていない。明らかに俺たちを警戒している。


「ただの客として来たのでは、ないようね」


 すでに見抜かれている。


 だったら話は早い。


「あんたがフェゴールか。元SKAの」


 まだるっこしいのは御免だ。単刀直入に質問した。


 シラを着られる覚悟もあったが、イザベラは俺を見据えたまま、無表情を保っていたかと思うと、


「ふう」


 と溜め息をついた。


「そうよ、マッドバーナー」

「ほう、そう来たか」


 彼女は、俺が誰であるか知っている。相手が元シリアル・キラー・アライアンスであった以上、すでに俺の顔を知っていると予想した上で、会話に臨んでいる。だから正体を看過されても驚きはしなかった。


「この店のことはどうやって突き止めたの? 自分で調べた? それとも第三者から教わったの?」

「このシャンユエから聞かされた」

「そう。怖いのね。この世界は、かつて言葉で支配されていた。今の時代は情報なのね。情報を手に入れる者が世界を制する。誰もが、簡単に個人の居場所を特定出来るようになった……私に、平和な日なんて来ないようね」

「感慨に耽るのは勝手だが、まずは俺たちの質問に答えてからにしてもらおうか」

「私で答えられることなら。昔の職場に未練はないわ、何でも聞いて」

「お前たちは何者だ? シリアル・キラー・アライアンスとは、なんだ?」


 沈黙。


 イザベラは沈思黙考、天井を向いたり、床に目線を落としたり、回答を出すのにかなりの時間を費やしたが、やがて口を開いた。


「少なくとも人間ではないわ」

「悪魔とでも言うのか」

「むしろ、その方が合理的解釈かもしれない」

「……」

「私たちは物心ついた時には、すでに成人だった。その後、歳を取ることもなく、永遠に等しい時を生きてきた。シリアル・キラー・アライアンスは、ルクスの提案で生まれた組織。彼は、人間の本質が“殺意”にあると感じた。それこそが正常な人間の姿であり、普段の平和に生きている人間とは、そんな本性を抑え込んでいるだけの偽りの姿に過ぎない。だから自分は開放出来る場所を与えてやるのだ、と――それが、彼がシリアル・キラー・アライアンスを築いた――表面上の理由」

「表面上。ということは、真の目的があるんだな」

「これは私の憶測よ」

「かまわない。教えてくれ」

「完全なる悪意」

「悪意?」

「理由は単純よ。世界を混沌で満たしたい。ただそれだけ。彼は、ルクスは、世界の秩序が壊れていく様を見たいだけ。そのためにシリアル・キラー・アライアンスを作り、殺人鬼たちを自由にさせている。わかる? だから、完全なる悪意」

「俺にはその考えは理解出来ない」

「私には彼の気持ちがわかるわ。永遠に近い時間を生きているからこそ、わかるもの。人間の歴史と共に歩んできた存在だからこそ、理解出来ること。魔女狩り、アウシュビッツ、ベトナム戦争……どんな時代でも、人間は自分が線引きをした世界の、外にいる存在は、決して認めようとしなかった。無視、という概念は存在しない。ただ迫害し、差別し、そして存在全てを否定する。それが、この世界の秩序になっている。だから彼は、そんな下らない世界を壊そうとしている。人が人を殺してはならないとする、人間的精神を破壊することによって」

「荒唐無稽な話だな」

「信じる、信じないは、あなたの勝手よ……ところで、カレーは? 食べる?」

「ああ。まだ聞きたいことは山ほどある。食事でもしながら、ゆっくり話をしたい」

「わかったわ。待ってて」


 イザベラは厨房へ引っ込んだ。


 俺はカウンター席に座る。


 アズが俺の隣に座ってきて、一枚のメモを渡してきた。彼の顔を見ると、(黙ってメモを見てくれ)と目で合図をしてくる。俺は何も言わず、メモに目を落とした。


『ここから先は、彼女の話を否定しないように。怒らせたら水の泡』

『本当の話なのか? 永遠に近い時間を生きている、というのは』


 メモの空いているスペースに、ペンを走らせた。アズは厨房の様子を窺いながら、付け足して書いてくる。


『んなわけないっしょ。完全にイカれてるんですよ』

『しかし俺を知っていた』

『あんたは有名人。SKAでは。最近まで勤めていたあの女は、だから、あんたを知っている』

『与太話しかしてこないのなら、彼女の話の、何を信じればいい?』

『俺も、それをつかもうとしてるんっす』


 それからアズは、シャンユエに目配せした。


 シャンユエは新しいメモを取り出し、俺の前に置くと、彼女もまたボールペンで筆談を始めた。


『私の意見を書く』


 彼女は目を閉じ、次の文章を考えているようだったが、すぐに目を開いてペンを動かした。


『イザベラは本当に悪魔かもしれない』


 アズは目を丸くした。俺も同じ態度を示した。それが常識人の反応だ。


『超能力を使う少女がいる。風間ユキ。その父風間清澄は奇跡を起こせると聞く。どうだ? もう、私たちの常識が通用する世界ではないだろう? 常識に捉われては駄目だ。ここはまず、イザベラを悪魔と思うんだ。その上で、奴らSKAと対抗するための策を編み出さなければならない』

『無茶言うな』

『とにかく、私の読みが正しければ、SKAは今度のマンハントを実施するに当たり、風間清澄や風間ユキ、その周辺について細かく調査しているはずだ。私の推理が立証されるかどうか……全ては、イザベラの回答次第、だな』


 厨房から包丁の音が聞こえてくる。


 悪魔だの、完全なる悪意だの、そもそもがシリアル・キラー・アライアンスなどという理解不能な集団と、悪趣味なゲーム「マンハント」……まるで現実味のない世界に身を置かされて、俺は頭がどうかしそうだった。


 この戦いの根源にあるものは何か?


 最も倒すべき敵は誰なのか?


 混沌として深まりつつある謎。このままでは、何も理解出来ないまま、マンハントを続けることになってしまう。それでいいのだろうか? ただ一年間ユキを守って済む話であれば、何も心配はない。しかし果たして、がむしゃらに戦い続ければ大団円を迎えるような戦いなのだろうか?


 風間清澄。


 そう、風間清澄だ。


 大野で釣りをしているとき、奴が俺の前に現れた。


 ユキを守れと言った。


 そのユキをマンハントに差し出した張本人が、ユキを守れ、と。


 何を企んでいる。


 奴は、何を――?


 そのとき。


 厨房の中から、イザベラの悲鳴が聞こえてきた。


 ボール大の物が、厨房から飛び出し、カウンターの上を飛び越えてきた。


 ゴトリと床に転がる。


 絶望の表情を浮かべた、イザベラの生首だった。


「お喋り女は――死になさい」


 厨房より、薄絹のドレスを着た艶かしい踊り子が現れた。アラビア風の服装。ベリーダンスの衣装だ。だが、その妖艶なコスチュームは、返り血で惨たらしく汚れている。


 イスラム系の美女。しなやかな肢体が繰り出す、鮮やかなダンス。


 俺は、その女刺客に見覚えがある。横浜のダンスクラブで。


 彼女の名は、ファティマ。


 次に、アズの首が飛んだ。


「え――?」


 と言ったのが聞こえた。


 いつの間にか、カウンターのこちら側に、ファティマは移動している。


 俺は、戦慄を覚えた。


(この女――!)


 容赦などない。自分の目的に忠実に、ただ敵と見なした相手を斬り殺していくのみ。恐らくは、シリアル·キラー·アライアンスの刺客。俺たちがイザベラ・フェゴールと接触することを見越して、店内の適当な場所に隠れ、隙を見てイザベラを殺したのだ。


 ファティマが一歩踏み込んできた。


 次は、俺が斬られる番だった。

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