第71話 クロノマリア
自分は死ぬのだろうか、とユキは他人事のように感じていた。
迷彩服の男が放った銃撃の音が鼓膜を揺さぶり、額に衝撃が伝わってくる。わずかコンマ数秒の出来事が、永劫の時間のように感じられた。
人間は死ぬ直前、それまでの記憶が走馬灯のように蘇るという。
ユキの頭の中には、確かに、今までの自分が歩んできた道が、次々と映し出されていた。
自分自身が物心つく前で、よく憶えていないような記憶まで、克明に。
――素晴らしい
父、風間清澄の声が、記憶の光景の中で鳴り響く。
――この子は“成功”だ。マドカ。“かあさま”の能力を継承している
それに応えて、母が相槌を打った。
か細い声だった。
はい、と言ったのか、はあ、と言ったのか。
あまり気乗りしていない様子だった。
自分は籠のようなものに入れられている。赤子の頃だろう。
現実に起きた出来事か、幻を見ているのか、ユキは夢見心地で、その記憶――と思われる光景を眺めている。
――我ら、三元教の理想たる、三元……天地人……太平道の大賢良師にして天公将軍張角殿以来の大望。天、地、人の合一、世界の三大要素の統合が、この子の手で果たされるのですね
――マドカ、それは建前だ
――建前? 私たちの目的は三元の合一にこそあれ、他に何の望みがあるのです?
――私は、後にも先にも、ただひとつ。目的は、“かあさま”だよ
――“かあさま”……?
――そうだ、“かあさま”だ。そして、いま、我々の目の前には、“かあさま”がいる
――あなたは、何を
――何も言うな、マドカ。私にとっては、三元教は道具に過ぎない。目的を果たすための
――目的、とは
――まずは、“シリアル・キラー・アライアンス”。そして、“かあさま”だ
そこで記憶が飛んだ。
ただし、後の時代ではない。
判断材料はどこにもないが、ユキは直感で理解した。次に現れた記憶は、自分が生まれる前のものだと――すなわち見ていたはずのない光景。DNAに眠る記憶なのか、それとも自分に備わる超能力が時空を超えて、他人の記憶まで映し出しているのか。
昭和の薫りのする木造家屋、家族団欒の場である畳敷きの居間。
椅子や柱に縛り付けられた人々が、体中に刺し傷切り傷を作って死んでいる。顔ぶれを見ると、一家であることがわかる。その様子を見ている“自分”も、どうやら、死期が迫っているようだった。目の前がぼんやりと霞がかっている。ここで眠ったら永遠に目覚めることがないと感じて、必死で起き続けようとしているが、体中に出来た傷口から流れ出る血液が、もはや自分は助からないことを、まざまざと実感させる。
視界がぼやけた。涙を流している。
生後間もない次男が、殺人者であるアメリカ人にさらわれようとしている。
男の名前を知っている。リチャード・ヘイゲン。自分の夫の祖母によって殺されたというアーサー・ヘイゲンの子どもだ。
リチャードは、目を血走らせている。口から泡を吹き、どう見ても精神状態は正常ではない。
彼は、しきりと自分たち一家のことを、「Devil! Devil!」と罵っている。
しかし悪魔はどちらなのか。
家族が襲撃を受けて、夫は昏倒させられ、その他の者も銃で脅されて縛りつけられ、少しずつナイフで切り刻まれるという拷問を与えながら、まず義父をメッタ刺しにして殺し、次に娘を殺した。まだ六歳の娘を。嫌がって、泣き叫んで、可哀想に。もっと生きたかっただろうに。
(悔しい)
家族のほとんどが死んだ。
残るは九歳の長男と、生後間もない次男と、瀕死の自分だけ。
その時リチャードは笑った。
自分は愕然とした。リチャードの笑い方は、正常な意思のある人間の笑い方だった。つまり、これまで狂人のように振舞って家族を殺していたのは、全て演技だったのだ。
この男は。
本当の悪だ。完全無欠なる悪意。殺すことが楽しいのではなく、人が苦しむのが楽しいのではなく、あらゆる秩序を破壊し、混沌を巻き起こすことが生甲斐である、絶対悪。
まさにこの男こそが悪魔。
リチャードは、泣きやまない次男を抱えて、外へ出ていった。追いかけたくても、傷が深くて追いかけられない。
そのうちリチャードは部屋の中に戻ってきた。次男を抱えていない。代わりに灯油を持っている。何をするのかわかった。だが抵抗するだけの余力は残っていない。
灯油を頭の上から浴びせられた――と思った次の時には、火のついたマッチが落とされ、自分の体は炎で包まれた。
絶叫が喉から振り絞らされる。激痛と悪臭。早く死なせてほしい。でも、まだ死ぬわけにはいかない。せめて長男だけでも、長男だけでも。
思いが通じたのか、長男だけは、なぜかガソリンをかけられなかった。そのリチャードの行為に、残酷な意味が込められているのを、自分は感じ取ったが、それでも大事な息子が生き延びてくれるだけマシだった。
――“かあさま”
息子は――清澄は――涙をこぼしながら、自分のことを呼んでくれた。横で高笑いを上げているリチャードが目障りだったが、少なくとも長男は生かされた。それだけでも自分は満足だった。温かい気持ちでいっぱいだった。
――幸せにおなり
復讐など考えなくていい。ただ幸せに生きてくれればいい。
それだけだ。ただそれだけ。
もう見ることの出来ない未来。清澄が、名前の通り、清く正しく生きていてくれれば、それでいい。あの世で、安心して、見守っていられる。
泣きたかった。
もう清澄を愛してやることは出来ない。守ってやることは出来ない。成長を見守ることは出来ない。
死にたくない。本当は死にたくない。いつまでも、可愛い我が子の側にいてやりたい。
清澄、清澄。
ああ、なんて可哀想な清澄……
ユキの記憶が、ユキ本来のものへと戻る。
またもや、ユキは籠の中にいる。父と母の会話が続いている。沈んだ声の母に、狂ったように興奮している父。
――ユキ、そうだ、ユキ。お前に名前を与えてやろう
籠の中を、父が覗き込んできた。
絵画に表されるような、イエス·キリストによく似ている父の顔。
――クロノマリア
口に出した名前が気に入ったのか、父はもう一度だけクロノマリアと呟いた。
――そう、お前は、『時の聖母』だ。天の時を司る、万物の母。お前の前では全ての運命が頭を垂れることになる。“かあさま”と同じだ。“かあさま”は、自分から能力を放棄した。それが“かあさま”の失敗だった。お前は違う。お前は使いこなせ。ユキ、お前は乗り越えてみせろ。時が来たら……能力を解き放て! 私を失望させるな! お前が覚醒する時、その時が
ユキの意識が、現実に戻る。
いつまで待っても訪れない、死の瞬間。
(銃弾が……!?)
止まっている。
迷彩服の男の放った銃弾が、空中で制止している。
それどころか、世界中のありとあらゆる動きが、ビデオの一時停止をかけたかのように静止している。
「天の時を司る……」
記憶の中で父が言っていたセリフを、反芻する。
天の時を司る。時間を支配する。先読みの能力……自分の運命を定める正しい道を選ぶ能力。
言うなれば、それは、“未来”を支配する力。誰であろうと、自分を殺すことは出来ない。自分が“未来”に存在している、という事象を、生き延びるための正しい道を選択することによって、支配していたから。
そして銃弾を止めた。
世界中の動きを止めた。
自分はいま、“現在”を支配している。
「時間が……そんな、私、そんなの……」
ここに来て、ユキは、自分がなぜマンハントのターゲットとして指定されたのか。
父がなぜ自分をマンハントに差し出したのか。
ようやく理解出来た。
自分の能力は、先読みが出来るなどという、それだけの効果だけでは終わらないものだったのだ。
天の時を支配する。
それが、自分の能力。
父の言葉を借りるなら。
自分は、またの名を、『クロノマリア(時の聖母)』。
「うっ」
急に眩暈がした。
吐き気、頭痛。
耐え切れず、かがんで、その場で嘔吐する。
吐瀉物が線路上にぶちまけられた瞬間、周りの動きが元に戻った。時間が流れ出した。止まっていた銃弾は、頭上を一瞬のうちに通り過ぎていった。
「Shit!」
迷彩服の男は毒づき、再び拳銃をユキに向けてくる。
が、引き金を引く前に。
「待て!」
先ほど迷彩服の男が突き破ってきたガラス窓から、小夜が飛び出し、線路上に着地するやいなや、迷彩服の男の腕をねじ上げ、拳銃を叩き落した。迷彩服の男はカァッと怒号し、腰からコンバットナイフを抜くと小夜の喉笛を切り裂こうとする。が、小夜は身を退いて、ナイフをかわした。
体の不調で指一本動かすのさえ困難なユキだったが、迷彩服の男と応戦している小夜を救うため、必死で、飛ばされた拳銃を拾いに行く。ノロノロと這いながら、すぐそこにある拳銃へ向かって。
やがて拳銃を拾うことが出来た。
撃鉄を起こし、迷彩服の男に狙いを定める。
そして引き金を引いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます