第69話 香月

 ―遠野屋旅館―


 血の滴る拳を高々と掲げて、キングナックルは、


「Kane win!」


 と満足げに言った。


 足もとには、折られた鼻から血を流している遠野学円が、呻き声を上げながら倒れている。


 わずか一分の戦闘の末、あっさりとついた決着だった。


(この、ガキ……)


 学円は、自分が弱いとは思っていない。還暦を越えた今でも、北陸では自分に勝てる人間はいないだろうと自負している。


 それでも、このキングナックルの強さは破格のものであった。


「スコシハタノシマセテクレソウデシタガ、ケッキョクハガッカリデスネ。ザコトシカイイヨウガナイデース」


 すっかり侮られている。


 学円は怒りを覚えたが、顔面に食らった一撃は、ただ鼻を折られただけで済んでいない。脳味噌まで揺さぶられており、体全体から力が抜けてしまったかのようだ。


 これ以上は戦えない。


「サーテ」


 キングナックルが前髪を掴み、無理やり頭を上げさせてきた。


「カザマユキノ、イドコロ、オシエテモライマショウカ」

「風間ユキ、だと……」

「ココニイルンデショウ?」

「なんの――」


 なんのことだ、と言いかけて、学円は途中で言葉を切った。自分の勘が、ここは正直なことを言っては負けになる、と告げている。


「教えられねえなぁ」


 わざとらしいほど、ふてぶてしく答えた。


 顔面にパンチが当てられた。ぶっ、と口から血飛沫が舞い散る。意識が飛びそうになる。


「スナオニイワナイト、シニマスヨ」

「ぐ……ぶ……」


 学円はロビーの方を見る。こんな時でも、客のことが気になる。一人の大柄なアメリカ人宿泊客が、風呂上りにこちらをチラリと見たが、すぐに顔を背けて、そそくさと自分の部屋に戻っていった。あのまま警察を呼んでくれればいいが、期待出来ないかもしれない。それに、警察が来る前に、きっとカタはつく。


「あんた……」


 受付カウンターの奥に隠れていた学円の妻、須賀子が、心配そうに声をかけてくる。


「馬鹿――出るな――」


 学円の注意も間に合わず、キングナックルは矛先を須賀子に向けた。


 カウンター越しに須賀子の首を片手で掴み、力を込める。首を引きちぎらんばかりの握力に、須賀子は「カッ」と咳き込んだ。


「デハ、コンドハアナタニキキマショウカ。カザマユキハドコニカクレテマスカー?」

「し、知らない……」

「シラヲキルナラ、クビヲキリマース」

「知らないんだよ、あたしは――本当に――」

「ジャア、シニナサイ」


 キングナックルが死の宣告を告げる。制止しようと学円は身を起こそうとしたが、胸を蹴り飛ばされて、また倒される。


「け――」


 首を絞める力がさらに増し、須賀子の目玉が飛び出してくる。中身を搾り出すように、搾り出すように、キングナックルは手を右に左に回転させ、須賀子の喉を締め上げていく。


「よせ!」


 さすがに妻を殺されてはかなわない。いっそ、負けを宣言してしまおうか、と学円が弱気になった時。


 玄関口に通じる階段の上から、鎖に繋がれたおもりが飛びかかってきた。


 後頭部に激突しようとした錘を、須賀子の方を向いたまま振り返ることなく、キングナックルは素早く反応して、拳で弾き返した。


 錘が地面に落ちてから、初めて、攻撃が来た階段の方へと顔を向けた。


「ドナタデスカ……ジャマスルノハ」


 学円も階段を見上げる。


 階段の中ほどに、一組の男女がいる。


 一人は黒い人民服を着た老齢白髪の男で、キングナックルに放った武器「流星錘」の鎖を両手に持ちながら、腰を落として構えている。


 もう一人は、紅いチャイナドレスを着た二十代くらいの女性で、黒々と輝くショートヘアを片手でかき上げながら、階段に腰掛け、本を読んでいる。


 老人を奥に侍らせて、女はキングナックルを前にしながら、平然と読書を続けている。そして、おもむろに口を開いた。


「此処を何処だと思っている」


 女は日本語で高圧的に喋る。が、本から目を離さない。読んでいるのは泉鏡花の短編集。


「此処は由緒正しい日本旅館だ。遠路遥遥やって来た旅行客が骨を休める場所だ。例えば私のように読書に耽る者もいる。君は、そのような客の休息を、無粋な暴力行為で騒擾を起こし、無碍に潰すつもりか」


 日本人ですら、こうも滔々と言葉を重ねることなど出来ないだろうセリフを、彼女は淀みなく口から発してゆく。


 学円は苦笑した。


「助けが遅いぜ。いるのを忘れちまった。香月シャンユエさんよ」

「謝罪すべきか? 否、君が悪い。私は君を助ける義理等無い。ならば、君から助けを求めるのが妥当と言える。それでも私は君の窮地に現れた。寧ろ、君から感謝すべきだ」

「相変わらず、年長者を敬わねえしゃべり方しやがって。とっとと、このエセ外国人をぶっ潰せってんだよ」

「落ち着け。倒すのは私ではない」


 シャンユエはそこで初めて本から顔を上げ、にっこりと微笑んだ。


 その顔の右半分に刺青が彫られている。美しい顔をわざわざ台無しにするような刺青だ。よく見ると漢字の組み合わせにも見える。学円は、彼女の顔の刺青の意味を知っている。


ラオ、やりなさい」


 指示を受けた黒い人民服の老人、ラオは無言で頷くと、微かに身体を動かした。学円がまばたきをして目を閉じた、刹那の間に、姿が掻き消える。


 いつの間にか一階の玄関口へと下り立っていた。


「オーウ、Shit」


 キングナックルは須賀子から手を放し、ラオと向かい合う。


「オジイサン、ワタシトタタカウツモリデスカ?」

「……」

「ワタシトタタカッタラ、イノチイクツアッテモタリマセンヨー」

「……」

「ナニカシャベリナサーイ!」


 あくまでも沈黙を守るラオに対し、キングナックルは大声で怒鳴る。


 だが、ラオは落ち着いた様子で、ただ口もとを歪めただけだ。完全にキングナックルを低く見て、馬鹿にしている態度だ。キングナックルのこめかみに怒りの血管が浮かぶ。


「……シネ」


 攻撃を開始する。


 高速で放たれたキングナックルの拳が、ラオの顔面を捉えた――かのように見えたが、ラオは間一髪で頭を横にずらしてかわし、キングナックルの腕を片手でいなしながら、懐に潜り込んで、形意拳の技「崩拳」を放つ。


 至近距離から放つ渾身のワン・インチ・パンチが、キングナックルの腹部に命中し、巨大な衝撃がズシンと五臓六腑にまで伝導していく。


「グッ――⁉」


 達人でなければ使いこなせない「崩拳」を完璧に放つラオに、キングナックルは驚愕しつつ、自らの背中に自分の拳を叩きつける。ラオの拳が伝えてきた衝撃を、自分自身もまた拳打を己にぶつけることで、逆方向から衝撃を伝えて、体内で相殺させる。だが、自分に対して背中越しに放った拳打が、万全の体勢で打ち込んできたラオの「崩拳」と同等の威力を出せるはずもない。相殺し切れなかった分の衝撃が、内臓を掻き回し、破壊寸前まで追いやり、キングナックルから戦闘力を奪う。


 たちまち、キングナックルは血を吐いた。


「グフ」


 不覚にも膝をつく。


「ナンテバケモノデショウカ。ユダンシスギテマシタネ」


 これまでキングナックルはほとんど負け知らずだ。遠野屋旅館程度、すぐに制圧出来るとタカをくくっていた。自分と同等の武力を持つ相手と出会うことなど想定しておらず、それゆえにラオの一撃をつい喰らってしまった。気を引き締めてさえいれば、まだ対処出来たかもしれない。


 どちらにせよ、これ以上戦うのは不利だ。


 くだらないプライドを捨てて、キングナックルは今回の襲撃を諦めることにした。


(一時退散だ)


 それ以上ラオと交戦することはせず、キングナックルは旅館の扉をぶち破って、外に脱出した。通りを歩いていた住民や観光客がびっくりしてキングナックルに注目するが、無視して彼は逃げ去っていった。


 一難去って、遠野屋旅館の中に落ち着きが戻ってきた。学円は妻の命に別状ないことを確認してから、シャンユエに頭を下げた。


「すまん。借りが出来た」

「私は私で君の息子に恩義が有る。気に病むことは無い」


 本を閉じて、シャンユエは立ち上がり、階段を下りてきた。


「君の息子は、玲は何処にいる?」

「今日は釣りに行っているはずだ」

「話がしたい。リウ大人にも秘密にしている事だ。出来れば今すぐ連絡を取り付けて欲しい」

「どんな話だ」

「新作の火炎放射器と耐火服について、だ」


 胸に引っ掛けていた扇子を引き抜き、パッと開くと、シャンユエは自分の顔を扇ぎ出した。


 リウ大人がボスを務めているマフィア組織、龍章帮。そのナンバー2の地位に就いている、弱冠二十二歳の女幹部、黄香月ファンシャンユエ。膂力はないが、類稀なる神算鬼謀で敵対組織を数多く壊滅させてきた知性派マフィア。特に工学、物理学に造詣の深い彼女が、マッドバーナーの耐火服の発明や、一〇五式火炎放射器のメンテナンスに関する助言など、玲のために陰ながら力となっていたのを、学円はよく知っている。


「……先に、詳しく聞かせてもらおうか」


 学円の顔がより険しくなった。

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