第68話 血の散華
部屋の外からマンイーターの絶叫が聞こえてきた。
(殺られたか)
とアシッドキラーは心静かに考えた。
※ ※ ※
アシッドキラーこと、キース・エヴァンスは、幼い頃から物の溶ける様に興奮するタチだった。
氷が溶ける、絵の具が水に溶ける、ナメクジが塩で溶ける……形の大小や程度、物質の違いはあれども、溶けることに変わりはない。
理屈はキースにはわからなかった。
ただ、形の定まったものが溶かされることによって不定形になっていく、その過程を見るのが何よりも彼の心を揺さぶった。
最初に殺したのは、近所に住む十歳の女の子だった。
何も知らない彼女は、キースに無防備に近寄ってきて、親しげに話しかけてきた。キースは彼女自身には興味を持たず、この子を溶かしたらどうなるのだろうと、そのことばかり考えていた。
気が付いたら、彼女を家に引きずり込んで、地下室の鉄柱に縛り付けていた。
泣き叫んで助けを求める少女に、キースは何の憐憫の情も抱かず、いつか使うだろうと思って買っていた硫酸のビンを取り出して、彼女の口の中に流し込んだ。
断末魔の叫びを上げて死んでゆく少女を見ながら、キースは射精した。
人間が溶ける様はなんて美しいのだろう、と思った。
その後もキースは殺人を繰り返した。
近所を通る人間を片っ端から捕まえては、地下室に監禁し、時には即座に殺し、時には腕を溶かしたり髪の毛だけ溶かしたりの実験の後に殺した。
その犠牲者の数は十五人。
とうとう警察の知るところとなり、彼は逃げ出した。
彼の住んでいた田舎町は、人口が少ない代わりに、隠れられる場所も少なかった。仕方なく山へと逃げるしかなかった。
(わからないかな。人が溶けるのは、こんなに美しいのに)
他の人間が自分の性癖を理解してくれないことに、キースは苛立ちを感じていた。山の中を三日三晩逃げ回りながら、キースは、どうすれば自分の思うように人を溶かすことが出来るか、知恵を振り絞っていた。
そのうち山間部の村に出た。
キースは家から持ち出した硫酸のビンを片手に、通りすがりの老人に声をかけ、相手の顔面にビンを叩きつけてやった。ガラスが割れ、中の硫酸が老人の顔を焼いた。
またキースは逃げた。
逃げている最中、シリアル・キラー・アライアンスのリリィ・ミラーが現れた。
最初は誘いを断ったキースだったが、警察の包囲網が徐々に狭められてきて、逃亡もままならなくなってきた時、ようやく彼はリリィに助けを求めた。何が起きたのか、すぐに警察は波が引くように退散して、キースは簡単に逃げおおせることが出来た。
そうしてキースはアシッドキラーとして、シリアル・キラー・アライアンスに所属することとなった。しかし、もともと衝動的な殺人しか行わない彼は、組織の中でもかなり格下の扱いを受けることとなり、ランクはDという低い評価であった。
※ ※ ※
アシッドキラーは、硫酸の入った試験管数本を指の間に挟み、部屋の中で身構えた。
(来い。溶かしてやる!)
あの美しい日本人女性が硫酸で焼き溶かされてゆく様子を想像すると、それだけで絶頂に達してしまいそうになる。下腹にこみ上げてくる興奮を抑えて、静かにアシッドキラーは待ち続けていた。
だが、いつまでたっても、女は入ってこない。
(おかしいな……)
この部屋にもう一人いることを知らないのか、あるいは逃げ出したのか。
逃げたのだとしたら、まずい。あの女は最初の顔見せで、キングナックルの顔を見ているはずだ。このままターゲットのカザマユキのもとへと戻られたら、少なくともキングナックルの正体が判明している以上、今後の活動が非常にやりづらくなってしまう。
(逃がしてはならない)
意を決して、アシッドキラーが一歩踏み出したその時。
マンイーターが出ていったまま半開きになっていたドアが、少しだけ動いて、人間の頭らしきものが覗いてきた。
(あの女だ!)
アシッドキラーはすかさず試験管を投げつけた。
試験管がドアの陰からはみ出た頭に命中し、ガラスが割れ、飛び散った硫酸がジュウジュウと髪の毛や皮膚を焼いていく。
だが悲鳴は聞こえない。
怪訝に思ったアシッドキラーは、首を傾げた。
次の瞬間、硫酸で溶かされている頭部が、ポンとドアの奥から外れたように見えた。正確には、もともと突き出ていた頭部は、それだけ――生首だったのだ。つまりは、アシッドキラーの初撃に備えるための、盾代わりだったのである。
その生首が、アシッドキラーに向かって吹っ飛んできた。
「オウゥッ⁉」
顔面にぶち当たり、のけぞってしまう。飛ばされてきた頭部は、そのままかたわらのベッドに落ちた。
マンイーターの生首だった。
断末魔の叫び声を上げた顔のまま、苦渋の表情を浮かべている。生きながら首を切断されたに違いない。
ドアがはね開けられ、女が部屋の中に飛び込んでくる。
「フゥゥゥゥゥ!」
まだ左手に試験管は残っている。アシッドキラーは、突っ込んでくる女の顔面に叩きつけてやろうと、大きく腕を振りかぶった。
女が射程距離に入った。
一気に腕を力の限り振って、試験管をぶん投げてやる。
が、硫酸を浴びるはずの女の顔が、目の前から消えた。
一瞬のうちに女は壁へと跳んでいた。
三角跳び蹴り。
女の足がアシッドキラーの左頬に突き刺さり、左奥歯をメシャリと粉々に砕いた。
「グブァァァ!」
激痛でアシッドキラーは顔を押さえて、身をよじらせる。
しかし、まだ負ける気はない。
「I,I,I,Kill you! Kill you! Kill you!!」
憤怒と興奮で、アシッドキラーは腰から筒状の水鉄砲を取り出すと、女に照準を合わせて、筒の端に口を当て、思い切り息を吹き込もうとした。吹き矢のように息を吹き込むことで、特濃の硫酸が噴出される仕組みになっている。
だが、アシッドキラーが息を吹く前に、女の方が先に筒の反対側に口を当て、
「ぷうう!」
と息を吹き込んできた。
たちまち硫酸が逆流して、アシッドキラーの口の中に流れ込んでくる。
「ウブ――グビャァァァァァァァァァァ!」
口内が焼かれ、溶かされ、舌がグズグズに爛れ、血の臭いと味が伝わってくる。鼻腔を、喉奥を、硫酸に侵され、この痛みから逃れたいと思っても、アシッドキラーにはどうする術もない。
「エブ、エブ、エバァァァ! エウブ、エウブミィィィ!」
ヘルプミー、と言っているらしい。
その救いを求める言葉を、あやめは無視した。それどころか、アシッドキラーの口内に硫酸が流れ込んだ瞬間、すでに彼女は興味を失い、部屋から出ていってしまったのだ。
もはや敵としてすら認識していない。
(痛い! 痛い! 死ぬ、死んでしまう! いっそのこと殺してくれ! 苦しい苦しい苦しい痛い痛い痛い! 助けて! 殺して! 殺して! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……)
アシッドキラーは痛みのショックに耐えきれず、死んだ。
その末路を、すでに外へ脱出していたあやめは見ることはない。
どんな風に死のうと、彼女にとっては関係のないこと。
机の上の埃を雑巾で拭き取るのと同じくらい、大したことのない仕事に過ぎなかったのである。
※ ※ ※
「こんな所に廃墟があったんだ……」
外の通りに、あやめは見覚えがあった。
東茶屋街の外れにある住宅街だ。
金沢の中心部に住んでいると東の郭の方は馴染みがないものだが、それでも自分が普段住み慣れていて把握していると思っていた土地にこのような廃れた施設がひっそりと佇んでいるのだと思うと、想像以上に自分は多くのことを知らないまま生きているのだな、としみじみ感じさせられる。
看板や表札の類はついていない。おそらく外されてしまったのだろう。ただ、建物の構造から、やはり学生寮か、ちょっとした病院のどちらかだったのだろうと、あやめは推測した。
「さて……急いで遠野屋旅館に行かないと」
浅野川沿いの遊歩道に出て、遠野屋旅館の方角へ向かって駆けてゆく。
敵に風間ユキの居場所を聞かれた時、咄嗟に遠野屋旅館の名前を出してしまった。あそこなら大抵の相手は簡単に追っ払えるだろうと見越しての判断だったが、それが正しかったのかどうか、あやめにはわからない。
あやめが殺した殺人鬼三人はどれも弱い奴らだったが、あのキングナックルと呼ばれていた男は只者ではない雰囲気があった。
奴が去ったからこそ、即座に反撃に移れた面もある。奴がいつまでも留まっていたら、あやめは行動を起こすタイミングをもう少しばかり遅らせていたかもしれない。
(やな予感がする)
胸騒ぎ、だ。
自分はとてつもないミスを犯してしまったのではないか。
(お義父さん、無事でいて――)
おそらくキングナックルの相手をしているであろう、遠野学円の安否を気遣いながら、あやめは浅野川の優美な流れを横目に、飛ぶように道を駆け抜けていった。
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