第66話 殺戮のフィロソフィー

 イタリア系のアメリカ人、ロバート・ファルセッティが自らの通り名をドクターフォーチュンと名付けたのには、わけがある。ロバートにはこだわりがあった。


 彼はイェール大学で哲学の博士号を取っている。「Doctor of Philosophy」。それが、彼にとって人生最大の栄光であり、誇りとしているものであった。


 だから、大学教授としての地位を獲得してからも初心を忘れず、あくまでも博士号の延長線上で教授職に就いたものとし、終始彼は自分をドクターとして位置付けていた。


 殺人鬼になる前のロバートは、謙虚で聡明な男であった。


 学生たちの覚えもよく、友人も多く、順風満帆な教授生活を満喫していたと言える。


 だがその生活も、ある日を境に狂うこととなる。


 全米を騒がせている、ある殺人鬼がいた。


 狂気の連続殺人犯“トリックスター”。ロバートは帰宅途中、その殺人鬼に襲われて意識を失い、誘拐されてしまった。


 気が付いたら、廃屋の一室で椅子に縛り付けられていた。


 そこで始まったのは、思い出したくもない、想像を絶する死のゲームだった。


 周囲に爆弾が設置されており、起爆するための紐が自分の体に接着されている。ちょっとでも動けば、爆弾は爆発する。助かるには、腹部に埋め込まれたリモコンを取り出し、爆弾のスイッチを切るしかない――。


 麻酔で眠らされている間に、開腹され、無理やり埋め込まれたのだろう。脇にあるレントゲン写真には、自分の腹の中にあるリモコンのシルエットがくっきりと映っていた。


 ほとんど身動きの取れない状況で、ロバートは泣きじゃくりながら、自分で自分の腹をかっさばいた。溢れ出る血、はみ出そうになる臓物――恐怖と絶望と激痛で挫けそうになりつつも、ロバートは必死でリモコンを取り出し、爆弾のスイッチを切った。


 その途端、おそらく殺人鬼“トリックスター”のものと思われる甲高い声で、「GameCrear!!」とロバートを祝福する言葉が室内にこだました。


 ロバートは気を失い――気が付いたら、病院のベッドで寝ていた。


 一命を取りとめたロバートは、神への感謝の言葉を述べ、涙を流しながら周りの人々に頭を下げた。誰もが、彼が助かったことと、神の慈悲深い思し召しに感動の涙を流していた。


 だが、実はロバートは神に感謝などしていなかった。


 むしろ自分が弄ばれたことに――下種な殺人鬼に自分の運命を左右されたことに、憤りを感じていた。


「神などいない」


 気の触れたロバートが、妻と、八歳になる娘をロープで絞め殺してから、誰ともなしに呟いたセリフだった。


 ロバートは支配欲があった。


 大学の教授に若くして昇りつめたのも、あらゆる人間を支配したいことから、得意な学問の分野で一心不乱に勉強して、成し遂げたことだった。


 彼にとって、自分が支配出来ないものなど存在してはならなかった。


 そして殺人鬼トリックスターの死のゲームを受けたことで、彼の奥に隠れていた願望が一気に表面へと出てきてしまった。


「運命すらも支配してみせる――!」


 哲学の世界に足を踏み入れたのも、哲学者というものは、「運命」を前にしてはことごとく頭を垂れてしまう、その様を見ているうちに、


(自分ならば支配してみせる。「運命」など、乗り越えてみせる!)


 と強く感じたからだった。


 彼は、自分の思い通りにならない世界など認めたくなかった。


(だから私は殺される人間に選択肢を提示する)


 さながら、提示する道をテーゼとするなら、ロバートは犠牲者がアンチテーゼを示してくれることを期待している。どの選択肢を選んでも、あるいは単なる抵抗を見せるだけでも、「フォーチュン教授に殺される」という運命は変わらない。その「限界状況」の如き極限状態を、いかにして彼らは脱出することが出来るのか。


 いまだ「限界状況」を逃れることの出来た人間はいない。


 そして、もし今後、自分の作り出した“死の運命”から逃れられる人間がいるならば。


 自分の示した、「ただ死ぬのみ」という解に対する、アンチテーゼを導き出すことの出来る人間に会えたならば。


 その時、その「運命を乗り越えた」人間を虐殺することで、初めて自分は運命をも征服したと言える。


 ロバートは、その願望のもとに、ひたすら多くの人間を殺してきた。到底逃れられないような状況で、ありもしない希望の道を指し示して、最後には残酷に殺しながら。


 ※ ※ ※  


 フォーチュン教授は、下腹部に伝わる熱い感覚をじっくりと味わっていた。


 こみ上げる射精感。


 ズボンに飛び散った、赤い鮮血。


 彼は笑っている。


 ケタケタと凄まじい音量で、廃学生寮内全体に響くほどの大声で、ケタケタケタケタ笑い続けている。


 焦点の合わない目が、あやめを見続けている。


 沈黙を保っているあやめを見て、ますますフォーチュン教授は性的興奮を感じた。


 なんて美しい女なのだ。


 彼女のジーンズの太もももまた、血まみれになっている。処女か、月のものか? と、フォーチュン教授は下卑た感想を持った。いや、まだ自分は“挿入”していない。だから、彼女のジーンズについているのは、血だ。どこかを切ってついた、血だ。


 あやめの顔にも血が飛び散っている。シャツにも、髪の毛にも、靴にも。血まみれの天女だ。


 美しい。


 ふとフォーチュン教授は、彼女の体についている血は何なのだろうか、と疑問に思った。


 自分はナイフを取り出し、彼女の喉笛を裂いたつもりだ。しかし、彼女の首は切れていない。


 それどころか、彼女はうつむいていた頭を上げ、こちらの方を見つめた後、にっこりと微笑んできたではないか。


 しかし、先ほど絶叫を上げたはずだ。


 いや、おかしい。あれは女の叫び声ではなかった。あの叫び声は、男のものだった。では、誰の声だ? そこに転がっている、ゴンドウとかいう男の声か? まさか、死体が叫ぶわけはない。だけど、かなり近い距離で叫び声は聞こえた。


 下腹部が熱い。


 熱い、というより、痛い。


 むしろ、立っていられないほどの激痛だ――。


 そこで、フォーチュン教授は、改めて自分の下腹部を見てみた。


 男の象徴が根本から切り取られている。


 断面から、止まることなく血が溢れている。


「ひ――ひ――ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」


 ようやくフォーチュン教授は理解出来た。


 さっき叫んだのは、あやめではなく、自分――いつの間にか奪い取られた自分のナイフで、ペニスを切り落とされた時に出た、自分自身の絶叫だったのだ。


 そして、その後笑っていたのは、ただ笑っていたのではない。


 あまりの想定外の事態に、パニック状態となって、引きつった悲鳴を断続的に出し続けていただけなのだ。


「だーかーらー、やめて、って言ったじゃない」


 どうやって抜け出したのか。


 椅子に縛られていたあやめは、すでに自由の身になっている。


「な――な――な――」


 なんだお前は! 何者だ! その言葉が言えず、フォーチュン教授は、いたずらに口をパクパクと動かしているだけだ。


「まーね。説明するのも面倒だけど、さ。殺人鬼同盟だかなんだか知らないけど、狭い世界に引きこもって、自分たちだけが人殺しが得意だなんて思ってたら、こんな風にしっぺ返し喰らうんだからね」

「お前――は――」


 股間を押さえて、フォーチュン教授はしゃがみ込む。


「殺しの――プロ――か⁉」

「当たらずとも、遠からず。“アマツイクサ”って聞いたことない?」

「知る――か!」

「知らないよねー。そうだよねー。だって、政治家の間でもトップシークレットだって聞いてたし。まあ、いいや。どうでも。説明してる時間もないし、とっととお爺ちゃん殺して、ここから逃げ出させてもらうよ」

「な――」


 抵抗する暇もない。


 ドスッと、フォーチュン教授の額に、ナイフが突き立てられた。


 ほとんど即死だったが、死ぬ一瞬前に、彼は猛烈な感動を覚えていた。


(運命を――運命を乗り越える者が、ようやく現れた――)


 永遠に覚めることのない闇へと、彼の自我は溶けていった。


 長年の夢であった、運命を乗り越えた人間をこの手で葬る――という目標は、ついに彼自身が殺されてしまうその瞬間まで、叶えることは出来なかった。


 フォーチュン教授は、運命を支配するつもりが、結局のところ、“悪党は相応の報いを受ける”という、極めて陳腐で平凡な「運命」を辿ってしまったのであった。


「さて、と」


 事もなげに、フォーチュン教授を殺害した後、あやめは体に絡みついていたロープを振り払った。


 それから権藤の生首を見て、合掌し、黙祷する。


 目に涙が浮かんでいる。


「ごめんね……昔の私だったら、キミも助けられたのに。結婚してから、カンが鈍っちゃったな……」


 しばらく権藤に対して悔恨の言葉を投げかけていた。


 ややあって、あやめはフォーチュン教授の頭に刺さったナイフを抜き、慎重に部屋の出口へと向かった。


「早くアキラの所に帰らないといけないけど――その前に、むしゃくしゃするから……」


 彼女の目には憤怒の炎が燃え上がっている。


 この場にいる殺人鬼はあと二人。


 愛する人のもとへ帰る前に、勘を取り戻すついでに、敵の戦力を一人でも多く減らしておこう。


 そう、あやめは考えていた。

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