第64話 窮地

 ユキの心は落ち着いていなかった。


 自身の危機回避能力は、あくまでも自分にのみ有効なものである。他人が命を落とすことになろうと、関係ない。たとえ周りの人間が全員死ぬことになろうとも、自分だけが生き残ればそれでいい。


 そんな能力だ。


 だからユキは、アパートに残っているあやめの安否が気にかかって仕方がなかった。


(私は、あそこから出ないといけなかった。それって、アパートに敵が現れるということ)


 あやめを置き去りにして、自分だけ逃げ出してきたことになる。


(それでいいの?)


 能力には逆らえない。たまに逆の道を選ぼうと思っても、体が言うことを聞かなくなってしまう。強引に動かそうと思っても、動かなくなる。自分の意思だけではどうしようもない、厄介な力だ。


 それでもユキは、この状況に納得していない。


 もしも自分のせいで、あやめが殺されるようなことになったら。


 そうしたら、遠野玲にどう頭を下げればいい。


(やだ)


 たとえ自分を一度は殺そうとした殺人鬼であっても。


 シリアル・キラー・アライアンスから、自分を守ってくれようとしている男の最愛の妻を、見殺しにするわけにはいかない。


「戻ろう」


 ユキは呟いて、向きを変えた。


 アパートに向かって歩を進めていく。


(……戻れる?)


 妙だった。


 通常ならば、自分があのアパートに戻ることは出来ないはずだ。それなのに、体が動かなくなることもなく、自由に歩くことが出来る。


 つまり、この道は正解なのだ。


「おかしい」


 寒気がする。


 夕暮れ時の住宅街に、ひとり佇んでいるこの状況。


 たとえそれが生き延びるための正しいルートだとしても、不気味なものを感じずにはいられない。


 一度外へ出て、しかし来た道を戻らされている。


 つまりは、“何か”と出会うために、この道を往復させられている。


 考えられる“何か”はただひとつ。


 シリアル・キラー・アライアンスの、殺人鬼――。


「⁉」


 脇道から人影が現れた。


 夕陽を受けて、路上に黒い影が長々と伸びている。


「あなたは……!」


 ユキはその人影に見覚えがあった。


 名古屋でユキのことを守り続けて、最後には彼女に裏切られた末に美貌を傷つけられ、挙句の果てには腹を刺されて瀕死の重傷を負った女刑事。


 上杉小夜だった。


 ※ ※ ※


 あやめが目を開けると、壁や天井の朽ち果てた、見知らぬボロ部屋の中だった。


 やや狭めの室内と、キッチンなどのない間取りから察するに、アパートの一室というよりは、賄いつきの学生寮の部屋であると推測出来た。


 椅子に縛られている。


 椅子自体も、ロープでベッドと結び付けられていて、生半可な力では動かせないように固定されている。


 隣の部屋から、権藤の悲鳴が聞こえてきた。


(……ごめん、権藤くん)


 あやめは眉をひそめ、黙祷を捧げた。助けたくとも、その余裕はなかった。アパートのドアを開けるべきではなかったかと思ったが、仮に部屋に閉じこもっていたとしても、権藤は用済みとして殺されていただろう。


 室内に男が一人入ってきた。


 長髪の白人だった。


「オトモダチデース」


 顔の潰れた権藤の生首を、あやめの前に転がす。


 あやめは唇を噛んだ。夫の友人を見殺しにしてしまった自分の失態が、許せなかった。涙をこぼす。それを見て、白人は、「ンフ、ンフ」と興奮気味に含み笑いを漏らす。


「コワイデスカー? ジブンモコロサレルノ、イヤデスカー?」

「……殺さないで」


 ひとまず涙を流したまま、あやめは嘆願の言葉を投げかけた。どうせ意味はないと思っていたが、それでも物は試しだった。


「Oh、ワタシガコレカラオネガイスルコト、ヤッテクダサルナラ、タスケテアゲマショウ」

「なに?」

「風間ユキを我々に差し出してもらいましょうか。そうすれば、命は助けてあげましょう」


 今度は別の男が部屋に入ってきた。


 五畳ほどの狭い部屋は、すでに人で窮屈になっている。


「私はドクターフォーチュン。フォーチュン教授、と呼んでいただいて結構です。こちらはキングナックル・ケイン。隣の部屋には、あと二名、仲間が待機しております。我々は――」

「知ってるわ。シリアル・キラー・アライアンスって組織の会員でしょ……」

「よくご存知で」


 ククク、とフォーチュン教授は卑しげに笑った。


【会員No】308

【登録名 】ドクターフォーチュン(運命の教授)

【本  名 】ロバート・ファルセッティ

【年  齢 】66歳

【国  籍 】アメリカ合衆国

【ラ ン ク】B


【会員No】446

【登録名 】キングナックル(王の拳)

【本  名 】ケイン・クワンダイン

【年  齢 】41歳

【国  籍 】アメリカ合衆国

【ラ ン ク】A


「ならば、我々が世間から恐れられる凶悪な殺人鬼たちということも、よく知っているはずでしょう。悪いことは言いません、大人しく風間ユキを我々に渡して、金輪際我々と関わらないことですな」

「そうしたら、助けてくれるの……?」


 いまだ涙を流し続けているあやめは、か細い声で、フォーチュン教授に尋ねた。


 フォーチュン教授は微笑むだけだった。


「ねえ、どうしたらいいの⁉ 私、何をすればいいの!? なんでもするから、だから――」

「いいですねぇ、その艶のある訴えかけ……」


 フォーチュン教授は舌なめずりをした。その目線は、あやめの乳房へと向けられている。あらゆる男の情欲を誘うであろう、美麗で見事な形の胸のふくらみに、フォーチュン教授は下卑た印象を持っているようだった。


「さあて、なんでもする、となると」

「ユキちゃんは、いま――遠野屋旅館って宿で匿ってます! だから、そこに行けば――」

「ほう」


 意外と早く白状したな、と言わんばかりの顔で、フォーチュン教授はあやめの表情を観察した。しばらくジロジロと見ていたが、やがて何かを確信したのか、大きく頷いて、キングナックルの方を振り返った。


「Kane,The girl is hind .inn that name is Tohno-ya.Go,and finish her」

「The prize is .」

「Don't you remenber!? THE PRIZE IS TAKEN EVENLY FOR US!!」

「Ok,ok」


 ひとしきり二人は会話をした後、キングナックルは苦笑しながら、部屋を出ていった。


 室内には、あやめとフォーチュン教授、二人だけである。


「ねえ……もう解放してくれるの……?」

「いいや、まだですな」


 あやめの怯えた表情に興奮するかのように、フォーチュン教授は鼻息荒く、彼女の顔を覗き込んでくる。


「本来なら、あなたには誘き出す役目を負ってもらうところでした。その場で殺せば、即開放、だったのですがね。居場所だけ教えられたので、ひとまずそこに行って確認して、無事殺害が終わってから、初めて逃がしてあげましょう」

「早く……お願い……早くして……」


 震える声で、あやめは哀願する。涙をこぼし、フォーチュン教授に訴えかけるその様子は、性的なものを連想させ、男ならば思わず体が熱くなってしまうものだ。


「ふ、む」


 フォーチュン教授は、何かを決めたようだった。


「では、何でもすると言ったあなたの言葉に従って――奉仕してもらいましょうかな」


 ニヤニヤ笑いを浮かべて、フォーチュン教授はあやめに近づいた。


 突然ナイフを取り出し、彼女の服の胸元を切り裂いて、柔肌を露わにする。もはや目的は目に見えている。


「久々の女は、興奮しますなぁ……」


 あやめの膝の上に座って、絡みつくようにしながら、ズボンのファスナーを下ろした。


 そして彼女の首筋に刃を当てる。


「特に、絶叫を上げながら死んでいく女を、思う存分陵辱するのが、たまらない」

「え――」


 あやめの瞳に、絶望の色が浮かぶ。


「待って! 話が違う――!」

「もう遅い! 最初からお前は、私の手にかかって死ぬ運命だったのですよ! 人間の運命を掌で転がせる男、それが私、フォーチュン教授なのですからな!」

「いや、やめ――!」


 あやめの言葉は途中で切れた。


 代わりに、魂も凍るような絶叫が、廃学生寮の中にこだました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る