第63話 対峙
夕方四時には片付けを終わらせ、車で香林坊のピース・レジャーまで行き、釣りの道具をトランクから出した。伊咲ちゃんは、アパートが大野にあるから、釣りの後はそのまま帰宅した。
俺は、あやめがコマセの臭いを嫌がるので、洗っていない道具を家に持ち帰るわけにはいかない。だから店で汚れた道具を綺麗にする必要がある。
それに少しばかり考え事をしたかった。
「CLOSED」の札がかかっているドアを開け、店の中に入った。
礒バッグを床に下ろし、カウンターに座ってから、さっきの出来事について振り返ってみる。ユキの父親、風間清澄が現れた。
ある意味、今回の一件の、元凶とも言える男だ。
(奴は何を考えている?)
あの男が、ユキをマンハントのターゲットとして提供したことは、まず間違いないだろう。
リウ大人の話を信用するなら。
だとすると、なぜ奴は、そのユキを守るよう俺に頼んできたのだろうか。――決して、ユキを死なせないようにユキには特殊な能力がある。
風間清澄は、そんなユキを殺人鬼たちのターゲットとして差し出したが、最終的に命を落とすようなことがあってはならないと考えている。
それは何を意味しているのだろうか。
ユキを危険な目に遭わせる必要があるものの、ユキが死んでもらっては困る……そう考えて、風間清澄は今回の矛盾した行動を取っていることとなる。
昔、親父は俺に言った。
『昔の武術家がなぜ強かったかと言えば、命を懸ける戦いを強いられてきたからに他ならない。今の武術家は、命を張る勝負を経験していない。だから弱い。命を懸けること、これに勝る努力はない』
それと同じように、風間清澄もまた、ユキを鍛えようとしているのだろうか。三元教の跡を継ぐ人間として、彼女の持つ特殊能力を、より強固でより有用なものとするように。
いや、何かがおかしい。
わざわざマンハントのような大掛かりな殺人ゲームに生贄として出してまで、するようなことだろうか。もっと無駄の少ない方法があるのではないだろうか。獅子は我が子を千尋の谷に叩き落すといっても、下にハイエナがうようよしているような地獄に落としたのでは、せっかくのスパルタも意味を成さない。
すると清澄の狙いは、ユキ以外の所にあるのだろうか?
それもありえない。清澄の言葉通りなら、ユキが生き延びていることが重要なのだ。ユキが死んでしまっては論外だ。
そこまで考えたところで、店のドアが開いた。
カランコロンと鐘が鳴る。
(CLOSEDなんだけどな)
常連客なら、かえって気が付かないで、店の中に入ってくる可能性は高い。知っている誰かだろうか、と思って、ドアの方を向いた。
初めて見る客だった。
先頭には、髭のある初老の男性が立っている。彫りの深い顔立ちの、風格のある男だ。歳は六十歳前後だろうか。
その隣には、チョビ髭の細身の男。
一番後ろに、柔道家体型のゴツい顔の男がいる。
堅気ではない空気を感じて、俺は警戒した。
「今日は店を閉めているのですが」
俺の言葉に、先頭の初老の男は初めて気が付いたようで、最後尾のゴツい男に顔を向ける。最後尾の男は、ドアにかかっている札を見て、納得した表情で、先頭の男に頷きかけた。
「それは失礼した。私はこういう者だ」
先頭の男は、胸ポケットから黒い名刺大の物を取り出した。
警察手帳だ。
手帳を開き、内容を確認させてもらえたので、俺は素早く記載されている情報を読み取った。
「倉瀬泰助さん、ですか。なにかうちに用ですか?」
「実は東京の世田谷でマッドバーナー事件を担当しておりましてな」
「はあ。わざわざ東京から」
「情報提供があったので、ここまで足を運んだ、というわけですよ。こちらは愛知県警の八田刑事」
と、チョビ髭の男を紹介する。
「そして、もう一人が、本庁勤務の二神刑事です」
二神刑事は、行儀よく頭を下げてきた。
「なるほど――ところでコーヒーでも飲まれますか」
俺はカウンターの裏に回りながら、彼らに着席を勧めて、ついでに注文の確認もした。
「いや結構。店が開いていない時に押しかけて、迷惑をかけているので、遠慮させていただく」
「俺は構いません。せっかくだから、うちのコーヒーを飲んでいってください。味には自信があります」
「では、三人分、いただきましょう。全員ブラックで」
全員ブラック、という注文にチョビ髭の八田刑事が、「や、私は砂糖とミルクを」と不平を言ったが、
「ブラックにせんか」
と倉瀬刑事に睨みつけられて、泣く泣く、彼もまたブラックにさせられていた。
俺は苦笑した。倉瀬という老刑事の強面な態度は感心出来ないが、コーヒーをブラックで飲む、ということには全面的に賛成出来る。
客がどういう飲み方をしようと文句はつけないし、体調によってはミルクと砂糖で飲みやすくしたいこともあるだろう。しかし、コーヒーはブラックで飲まなければ、本当にコーヒーを飲んでいるとは言えない。ブラックではないコーヒーなんて、日本茶に砂糖とミルクを混ぜた物と同じくらい、本当はあってはならない飲み物だ。
「どうぞ」
カウンターに、ブラックのオリジナルブレンドコーヒーを三つ並べる。
先に口をつけた倉瀬刑事が、
「美味い」
と呟いた。
二神刑事もしきりと頷いている。
八田刑事だけは渋い顔をしていた。
「さて――」
コーヒーを飲み終わった倉瀬刑事が、改めて俺の顔を見据えてきた。
次の言葉を、俺は覚悟した。
「あんたが、遠野玲さんかな?」
「ええ、そうですが」
「すると……」
倉瀬刑事の目に敵意が浮かぶ。
「お前さんが、殺人鬼――マッドバーナー、というわけだ」
ついにこの時が来たか。
俺は、他人事のように、そう考えていた。
※ ※ ※
「コンビニに行ってきてもいいですか?」
ユキに聞かれた時、あやめは反対した。
外に出れば殺人鬼たちが待ち構えているかもしれない。下手に出るよりも、アパートに潜んでいる方がいい。
そう主張したが、ユキは断固として聞き入れようとしなかった。
ならば自分が一緒に行こうか、と提案すると、それも拒否された。
「ひとりで行けば助かる率が高いって――そう感じるんです」
夫からユキの能力について聞かされていたあやめは、半信半疑ではあるものの、一応は納得した。ここでユキの能力を無視して、無理やり正反対の行動を取らせて、彼女を死なせてしまうようなことになっては、夫に何を言われるかわかったものではない。
結局、護身用にナイフを渡して、ユキを外に出してやった。
訪問者が現れたのは、その七分後のことである。
「こんにちはー。権藤ですけど」
よくピース・レジャーに来る常連客だ。日本文学の研究をしている学生で、以前夫が家に泊めたこともあり、比較的親しく付き合っている青年だ。
「あ、権藤くん? ちょっと待ってて」
夕食に作っていたシチューの火を消し、エプロンを外して、あやめは玄関口まで向かった。
「突然、すみません……」
ドアの向こうから、権藤の声が聞こえてきた。その声音から、あやめは一瞬ノブを回すのを躊躇した。微かに彼の声は震えていた。だが思うところがあり、構わずドアを開けた。
「あけましておめでとうございます」
外には権藤が立っていて、お辞儀をしてきた。あやめは他に誰もいないか、確認をしようと廊下の方に顔を出した。
その瞬間、いきなり首を何者かに素手で掴まれ、力任せに外に引きずり出された。
「Die! Fuckin'Pussy!!」
下卑た英語が聞こえた、と思った刹那、こめかみに衝撃が走った。
殴られたのだ。
あやめはその場に崩れ落ちた。
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