第62話 風間清澄

 ―2009年1月6日―

  金沢港


 ユキを守ることは、俺の自己満足に過ぎないのだろうか。


 そもそも俺は、どうしてあの時、自分とは無関係なシリアル·キラー·アライアンスの下らないゲームに、わざわざ自分から首を突っ込んでしまったのか。


 己のことながら理解に苦しむ。


「マスター?」


 隣でコマセを撒いていた伊咲ちゃんが声をかけてきた。ぼんやりと考え事をしたまま、長い間竿を上げようとしない俺の様子を、不審に思っただろう。


「すまん」


 リールを巻き、糸を回収していく。海中から飛び出した針には、やはり何も餌が付いていなかった。餌取りはおろか、大物がかかっていたかもしれない。心ここにあらずで、勿体ないことをしてしまった。


 約束通り、日曜日に、俺と伊咲ちゃんは二人で堤防釣りをしていた。


 金沢港の大野側の堤防で、コマセを撒いて魚群をおびき寄せては、大物を狙っている。前に伊咲ちゃんは、金石の堤防で五十センチ以上の黒鯛を釣り上げたことがあるらしい。当然、今回の彼女の狙いも、それくらいのサイズだ。


 大野は醤油蔵で有名な町だ。歩いているだけで醤油の香りが漂ってくる。俺たちが釣りをしているポイントは、醤油蔵のある方向とは離れているので、さすがに匂いはしなかったが、それでもなんとなく甘辛い香りが鼻をくすぐるような気がした。


 静かだった。時おり、波が堤防を洗う音が聞こえるくらいだ。


 街中のやかましさと比べて、なんと落ち着く環境だろうか。


「伊咲ちゃんはここに住んでいるんだったな」


 針にオキアミを突き刺し、海に投げ入れてから、俺は彼女に話しかけた。


「そうです」

「独り暮らし?」

「独りぼっちです。残念なことに」


 喋り方には感情がこもっていない。冗談で言っているのか、真面目に言っているのか、判断に悩む。


「マスターに」

「うん?」


 俺は彼女の方を向く。


「マスターに奥さんがいなければ」


 そこで彼女は口を閉じた。次の言葉をわざと発しようとしない。なんていやらしいタイミングで言葉を切るんだろうか。


「いなければ、どうしてた?」


 聞くのは酷だと思いながら、俺はあえて質問した。こんなモヤモヤした状態で放置されたまま、長時間二人きりでいるのは耐えられない。決定的なことを言うなら言うで、最後まで言い切ってほしい。


 彼女は口を閉ざしたままだった。もう喋ろうとしない。


 俺はその場の雰囲気に耐えられなくなって、彼女からそれとなく距離を置いた。と言っても、せいぜい三歩ほど離れただけだが。


 しばらく彼女の様子を窺いながら、落ち着かない気持ちを抱えたまま、釣りを続けていた。


 釣果は芳しくなかった。


 余計なことに気を取られすぎて、目の前のことに全然集中出来ずにいた。


「釣れますか」


 誰かが話しかけてきた。


 男だ。


 声の質から、俺と同じくらいの年頃。壮年の男性であることがわかる。柔和で落ち着いた声音は聞き心地がいい。


 わざわざ話しかけるのだから、相手もそれなりに釣り好きなんだろうな、と感じた。


「さっぱりです」

「お隣は連れの方ですか?」

「ええ」

「私も釣りは大好きで、子どもの頃は川で遊んでいたものですが、今ではとんとやらなくなってしまいました。遊びでやる分には楽しくても、仕事の合間の気晴らしとしてやるには、釣りは面倒だったのかもしれません」


 話しているうちに伊咲ちゃんが一枚釣り上げた。アジのようだ。


「そこそこいいガラですね」


 そこで、初めて俺は相手の顔を見た。


 肩まである長髪。穏やかな眼差し。日本人離れした彫りの深い顔立ちは、ヨーロッパ生まれと言われても違和感のないものだ。絵画や彫刻で見るイエス·キリストのような、俗世間離れした風貌をしている。


 俺はその顔を見て、相手が誰であるか瞬時に推測出来た。


「あんたはユキの親父さんか」

「素晴らしい洞察力だ。いかにも、私がユキの父、風間清澄です」


 たしか新興宗教『三元教』の教祖だったはずだ。


「何をしに来た」


 ユキをマンハントに差し出したのは、この男だ。忘れてはいない。


「一〇五式火炎放射器をお返しいただいたことで、お礼に伺いました」

「そういえば、そうだったな」


 俺が使っていた一〇五式は、本来、風間清澄の祖母である風間ナオコの所有物であった。リウ大人を経由して、彼の手元に戻ってきたのだろう。


「どうですか」


 清澄は俺の横に腰かけた。突然の来訪者に不審を抱いたのか、伊咲ちゃんは、俺たちのほうをチラチラと見ている。


「仕事は上手くいっていますか」

「どちらの話だ」

「もちろん喫茶店の話です」

「順調だ。収入はカツカツだが、子どもがいない分、俺と妻で暮らしていくには十分だ」

「なるほど。幸せですか」

「ああ。殺人鬼の俺が、幸せになる資格などないだろうが」

「罪を洗い流せば大丈夫です――っと、引いてますよ」

「ん」


 俺は素早く竿を起こし、かかった魚の口に針を引っ掛ける。海中だからその様子は見えないが、経験に基づいて、見えずとも魚の様子は手に取るようにわかる。糸がたるまないように注意しながら、竿を立てたり寝かせたりしつつ、リールを時おり巻いてやる。しばらくして魚が見えてきた。


 黒鯛だ。しかも五十センチ以上の大きさがある。


「伊咲ちゃん、タモ!」


 俺の指示に、伊咲ちゃんはタモ網を用意して、駆け寄ってきた。その間も、竿にグングンとテンションがかかっている。手が震える。なんて強い引きだ。


「遠野さん」


 清澄は、伊咲ちゃんに聞こえないよう、俺の耳元で囁いた。


「罪は洗い流せます――あなたが、ユキを守りきれば――」


 なに?


「よろしく頼みますよ――決して、ユキを死なせないように――」


 謎の言葉を残して、清澄は去っていく。俺は追いかけて問いただしたい気分だったが、伊咲ちゃんに袖を引かれた。


「マスター、上げてください。タモに入れられません」


 姿の見えなくなった清澄に、俺は未練を感じていたが、伊咲ちゃんに催促されたのと、竿を持って両手が塞がっていたこともあり、諦めて黒鯛を釣り上げることに専念した。


 全部放り出して奴を追ってもよかったが、そんなことをしたら伊咲ちゃんに怪しまれてしまう。


 仕方なく、俺は黒鯛をタモの中へと運んでいった。


「すごい」


 大物の黒鯛がタモ網に絡まって、大柄な巨体をビチビチと弾かせ、堤防の上でのた打ち回っている。伊咲ちゃんは眼を輝かせている。だが俺はちっとも喜ばしくなかった。


(風間清澄……何を考えている)


 姿を現した、ユキの受難の元凶でもある、忌まわしき男。


 奴は何を考えてユキをマンハントに差し出して、そして何を考えて俺に護衛を頼んできたのか。


 どうもシリアル・キラー・アライアンスとは別のところで、彼には彼なりの思惑――計画――企みがあるような気がする。


 乾いた風が金沢港を吹き抜けていった。

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