第55話 遠野屋旅館
―2009年1月1日―
金沢 遠野屋旅館
「明けましておめでとうございます」
「本年もよろしくお願いいたしまぁす」
俺と、あやめが交互に挨拶すると、親父は満足げにウンウンと頷いた。
どうもあやめの振袖姿にご満悦のようだ。
「新年早々、眼福もんだな」
ヒゲをガリガリと掻きながら、ガハハと豪快に笑った。
「変な真似はするなよ」
「しねえよ」
そうは言うものの、親父を信用することはできない。昨年、あやめの尻をこっそり撫でようとして、気が付いた彼女に腕を取られて関節を痛めた。さらにお袋にボコボコにされた。あの時の経験があるから慎重になっているだけで、きっとまたよからぬことを考えている。
「お義父様も、今年もワイルドで素敵です」
あやめは呑気にお世辞を言っている。
いや、彼女は意外と年上好きで、「私、いつかショーン・コネリーみたいなおじ様と結婚するのが夢なの」と、俺と結婚した後でも言い続けているような女だ。
俺の親父、遠野学円は、高野山で修行をしたこともある真言宗系の坊主崩れで、ワイルドだが整った顔立ちと、長年の修行で培われた風格が備わっている。
あやめにとっては本来ストライクゾーンに入るタイプの男なのかもしれない。
ちょっとイラッとくる。
「ね、ね、お義父様。ここの近くでステキな服売ってる店見つけたの。お年玉代わりに一緒に服買いに行ってくれない?」
「おう、あやめちゃんのためとありゃ、火の中水の中。任せておけ、金ならいくらでもある!」
旅館経営で金策に四苦八苦しているくせに、よく言う。俺は呆れ果てて、突っ込む気も起きなかった。
遠野屋旅館は、片町にある由緒正しい和風旅館で、金沢のセンター街ともいえる賑やかな街中にある。客層は、一見さんよりは、リピートで何度も泊まりに来る客、口コミで泊まりに来る客などが大半だ。
片町の喧騒でうるさい立地でありながら、宿の中に入れば静かで、小造りで質素だが上品なロビーや、ガラス張りの向こうに見える手入れの行き届いた中庭など、昔ながらの“和”の趣きが、客の胸に深く染み渡ってくる。海外の客もよく泊まりに来るが、彼らにとっても、古き良き日本旅館に寝泊りできることはまたとない体験となっていることだろう。
まあ、宿はいい。
問題は親父にある。
「おい、玲。なに浮かない顔してるんだよ。親父様に酒を注がんかい」
「さっきから注いでいるじゃないか」
「足りないんだよ。リウの野郎には紹興酒だの
「そういうセリフは、手元の酒を空にしてから言ってくれ」
「バカヤロウ、空になってからじゃあ遅いんだよ。こぼれてもいい、どんどん注げ!」
「正月早々、飲みすぎだ」
「ああ⁉ 正月だから飲んでるんだろうが。てめえ、新年迎えても、頭ガチガチな野郎だな!おい、あやめちゃん、こんなトーヘンボクのどこがいいんだ?」
酒臭い息を吐きかけながら、親父は妻に迫っている。
「セックスかなぁ」
俺は酒を噴き出した。
ちょうど去年の四月で高校生になったばかりの小次郎君が、おせちを運んで部屋に入ってきたところだった。俺の義理の弟、つまり親父の本当の息子になる彼は、妻の大胆な発言を聞いて目を丸くした。
色白で線の細い純朴そうな小次郎君には、少々刺激の強いセリフだったことだろう。
「あ、小次郎君、あけおめ。やん、今日もお人形さんみたいで、かわいい!」
妻は立ち上がって、小次郎君を抱き寄せると、その頭をワシワシと掻き回した。呆然としている彼は、口を半開きにしたまま、妻にいじられるがままにしている。放心のあまり、おせちを落としそうになっていたので、俺が代わりにテーブルに運んでやった。
ふと見ると、普段は宿泊客の朝食時か、家族の夕食時にしか使わない食堂の、全てのテーブルを埋め尽くすように料理、料理、料理……が大氾濫している。
(おいおい、お袋。食いきれるのかよ)
親父、妻、そしてお袋と、元旦から暴走しまくりの我が家族を見ていると、今年一年も大変なことになりそうな予感がして、早くも気が重くなってきた。賑やかなのはいいが限度というものがある。
「あやめ、離してやれ」
俺は妻に指示して、そろそろ彼を解放するようにさせた。
「えー。やだ」
「やだ、じゃない」
俺は小次郎君の腕を引っ張り、解放してやった。無理やり引き剥がされた妻はぶうぶう文句を言っていたが、すぐに忘れて、また親父と仲良く話を始めた。
(つまらん)
やはり妻が他の男と仲良くしているのを見ると、どうにも妬いてしまう。いつもは、「私が愛せるのは、キミしかいないよ」とハートマークを語尾につけそうなほど甘い言葉を投げかける妻だが、外では夫の俺の前で、堂々と他の男とベタベタしている。離れろと命令しても、「絶対、や!」と駄々をこねて、相手の男から離れようとしない。
(あいつは俺をからかっているのか?)
お猪口に入った日本酒を飲み干した。
たった一杯で、もう酔いが回ってきている。酒は弱くないつもりだったが、どうも連日の疲れが重なって、耐えられなくなっているらしい。
「あら、私がまだなのに、すっかり出来上がっちゃって」
割烹着のよく似合う、大柄な体型のお袋が、台所から食堂に上がってきた。肝っ玉母ちゃんとはお袋のような人を言うのだろう。太っているわけではないが、横に幅のあるガッシリとした体つきで、並の男だったらまず逆らおうという気は起きない。豪放磊落な親父も、このお袋にだけは頭が上がらない。まさに女傑だ。
「しょうがないねえ。ユキちゃん、あたしの分の熱燗を持ってきてちょうだい」
台所に向かって大声で呼びかけると、向こうの方から、「はい」というユキの声が聞こえてきた。
不思議と、ユキの声を聞いて落ち着く自分がいた。
同時に、ユキの言葉を思い出す。
――私を居候させてほしいんです!
理解不能、だ。
彼女の話を信じるのであれば、彼女は自分が生き延びるための最善の道がわかるらしい。時として、それは本能的なものとなり、考えるよりも前に体が動いて、危機を脱することもあるらしい。
実際、俺に命を狙われていながら、タイミングよくストーカーが現れたおかげで、そのストーカーが身代わりとなって彼女は助かった。
そんな彼女が、なぜ、俺の家に居候することが、自分の命を守ることに繋がると考えたのか。
ユキが言うには、「わからない」とのことだった。
その瞬間が来なければ、理由はわからないのだと言う。
(しかし、一緒に住むことで、命が助かるなんて理屈があるか?)
あるわけない。
そんなことで何かが変わるとは思えない。仮に何か変化があったとしても、それが生き延びるために必要なことだとは考えられない。
(わからない)
何度考えても、納得のいく答えは見つからなかった。
「熱燗、出来ました」
「ありがと。そこ、置いといて」
お袋は適当な所を指差した。
ユキはちらりと俺の方を見た。目と目が合う。微かに動揺した様子で、彼女は目を逸らし、あえて俺のほうを見ないようにしながら、静かに熱燗をテーブルの上に置いた。
「……なによ」
妻がふくれっ面を見せる。
「アキラとユキちゃん、なんか怪しい。まさか、不倫してるんじゃないでしょうね」
「してない」
即座に俺は否定した。
「怪しい。アイコンタクトしてたじゃない」
「見間違いだ」
「うそ。目が合ってた。ちょっとムカつく」
俺は面倒くさくなって黙ることにした。
もう一度ユキを見ると、彼女も俺を見ていた。
目が合った瞬間、また彼女は顔を横に向け、食堂から出ていった。
「アキラくーん?」
抑揚のない声で、妻が不気味な呼びかけをしてくる。俺はうんざりしてかぶりを振った。ここ最近、女難の相でも出ているようだ。いまならばおみくじを引いて、“大凶”を当てる自信がある。
とにかく、今後このユキをどう扱っていくか。
それが当面の最大の課題であった。
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