第56話 人として

 ―2009年1月4日―

  金沢 ピース・レジャー


「それでマスターはどうなったんです?」


 相変わらず抑揚のない声音で、伊咲ちゃんは親父に尋ねた。親父はカウンター席でくつろぎながら、グイっとビールを呷って、「おうよ」と威勢良く返事する。


「玲のやつ、あやめちゃんに散々しぼられてたよ。そりゃあ当然の報いだ。あんな可愛い子を嫁にしておきながらよ、女子高生に鼻の下伸ばしてるロリコン野郎なんだから」


 ピース・レジャー店内に響き渡る大声でろくでもないことを喚いた後、親父は厨房にいる俺に向かって、


「浮気してると俺があやめちゃんを奪っちまうぞぉ!」


 と最低なことをほざいてきた。


 あんただって妻帯者じゃないか。人のことを勝手に浮気しているだの何だの醜聞流しやがって。


 俺は舌打ちし、親父の注文したチキンカレーの中に、通常の十倍以上の香辛料を混ぜてやった。死ぬかもしれない。いや、むしろ死ね。


「おう、おう、いい匂いだ。美味そうだ」


 爆弾級の辛さを誇る、俺のカレー史上最高の激辛カレーの匂いを嗅いで、親父は恍惚とした笑みを浮かべる。


 俺は無言でカレーの皿を突きつけた。


 見るからに毒々しい赤色をしたカレーを前にして、親父は何も気が付かず、早くもスプーンでルーとライスをすくう。伊咲ちゃんだけは、すぐにわかったのか、俺とカレーを交互に見比べている。


「マスター……?」


 ためらいがちに、伊咲ちゃんがカレーのことで突っ込みを入れようとした瞬間、


「うおおお、美味い、美味すぎる! 味に目覚めそうだ!」


 親父が吼えた。


 俺は面食らった。あれを食べて生きていられるなんて、人間の舌ではない。それとも、間違えて香辛料ではないものを入れてしまったのか。不思議に思って、自分もまたスプーンを入れて、ルーを口に含んでみる。


「ごふっ」


 むせた。


 歯茎に激痛が走る。舌から感覚が無くなる。眼球の裏がジンジンと痛み、止まることなく涙が溢れてくる。辛い、というレベルを超えて、痛い。痛覚を極限まで刺激する、悪魔のカレーだ。


 誰だ、こんな食べ物を作ったのは! と文句を言いたくなったが、他ならぬ俺が作ったものだ。


「ガハハ、馬鹿め! 馬鹿息子め! 俺様は日ノ本一番の辛党よ! お前がよからぬことをしているのは気が付いていたが、俺に辛いものを食べさせてどうにかしようたぁ、十年早いんだよ!」

「ごふ、ごは……こ、の、クソ親父……ぐふっ」


 耐えられない。


 俺は厨房に駆け込み、蛇口をひねって、口の中に直接水道水を流し込んだ。本当はラッシーが一番、辛い物を食べた後の口内には優しいのだが、冷蔵庫に入っているヨーグルトドリンクを全部飲み干したとしても、おそらく今の状況を脱することは出来ないだろう。


 とにかく冷やし続けないと、口の中が焼け爛れてしまう。


「マスター、大丈夫ですか」

「ぐはっ、ぶっ……がぼ……」


 仰向けになって、蛇口の下で大口開けて水を飲んでいる様は、かなり格好悪い。あんまり伊咲ちゃんには見てほしくない。出ていけ、と俺は手を振った。それでも伊咲ちゃんは去ろうとせず、無表情な顔に微かな翳りを浮かべながら、俺の顔を覗き込んでいる。


 その時、彼女は急に距離を詰めると、俺のエプロンのポケットに何か紙を入れた。


 身動きの取れない俺が、何事かと彼女に尋ねようとする前に、伊咲ちゃんは厨房から出ていってしまった。


 まだ口内はヒリヒリするが、我慢して一度水道水治療を中断した。エプロンのポケットから、伊咲ちゃんが入れてきた紙を取り出す。


『約束の釣りはいつ?』


 それだけ書かれている。


 あっ、と俺は伊咲ちゃんとの約束を思い出し、急いでそのメモに追記をすると、カウンターで親父と話をしている彼女の近くにこっそりと置いてやった。


『今度の日曜日はどうだ?』


 十二月の初頭に、伊咲ちゃんに堤防釣りの誘いを受けていた。彼女は大野の町、金沢港の目と鼻の先に住んでいるから、よくそこで釣りをしているのだそうだ。クールな性格の彼女からは、釣りというキーワードはあまり出てこない。だから彼女がこの店でバイトを始めてから二ヵ月後、その話を聞かされたときは、珍しく冗談を言っている程度で、話半分にしか受け止めていなかった。


 彼女がなぜ俺を釣りに誘ってきたのか、理由はわからない。だけど、いつか妻が言っていた、『あの子、絶対キミに惚れてる』というセリフを思い返すと、どうも妻の勘が当たっているような気がしてしまう。


 果たして本当に彼女の誘いを受けてしまってよかったのだろうか、と今さらながら後悔してきた。


 俺の返事を読んで、少し微笑んでいる伊咲ちゃんの様子を見ていると、ますます断るべきだったのではないかと思えてきた。


 カランコロンと鐘が鳴り、入り口のドアが開く。


「こんにちはー」


 妻が入ってきた。ピース·レジャーには滅多に顔を見せないのに、珍しい。


「どうした」

「どうした、じゃないでしょ」


 妻はふくれる。


「三ヶ日終わって早々に仕事するなんて信じらんない。来週からでいいじゃない。私、もうちょっと遊んでほしかったのになぁ」

「正月が終わったから、こうして営業しているんだろ。お前みたいに子育てもなく、気楽に主婦業やってられる奴とは、抱えている責任の重さが違うんだ。お前はそんなひどい文句を言うためだけにここに来たのか」

「ううん、ユキちゃん連れてきたの」


 またドアが開いた。


 今度はユキが店内に入ってくる。


「なんで連れてきた」


 俺は妻を睨んだ。家の中にいる方が安全なのに、わざわざ外へ連れ出すなんて、自殺行為としか思えない。


 シリアル・キラー・アライアンスの「マンハント」が本当にもう始まっているのであれば、いつユキを狙って殺人鬼が襲ってくるか、知れたものではない。


「私に言わないでよ。この子がお店に行きたい、行きたいって言うから、仕方なく連れてきたの。大体、ほっておけばいいところを、わざわざ面倒見てるのはキミじゃない」


 妻の言う通りだった。


 ユキを保護してやる義務はない。生きるための手段を求めて、俺の所へやってきた彼女だが、そんなの無視すればいいだけの話だ。俺が彼女のために骨を折る必要はない。


「やっぱり浮気?」


 各テーブル席に座っている計六名の常連客が、一斉にこちらを向いてきた。みんな好奇の目で、俺とユキを見比べている。なんだかまたロリコンと言われているような気がして居心地が悪かった。


「断じて違う。俺はただ」


 ただ、なんだろう?


 俺は風間ユキをどうして見捨てようとしないのだろう?


「ただ――人として」


 そうだ。


 俺の中に存在する最後の理性。


 人としてのライン。


 どこかで狂気の殺人鬼となることを忌み嫌っている俺は、常に人間の心を失ってしまわないよう、心がけている。


 だから、俺はユキを見捨てられない。


 殺人鬼たちに命を狙われている彼女を見捨ててしまえば、俺はその瞬間――人ではなくなってしまう。


「人として、だあ? 男として、の間違えじゃないのかぁ⁉ この浮気野郎!!」


 親父が余計な横槍を入れてくる。


 頼むから、これ以上話をややこしくしないでくれ。


 そんな俺の願いも虚しく、妻は顔をクシャクシャに歪ませ、大粒の涙をこぼし始めると、びええええと店のガラスが響くほどの大声で泣き喚いた。あまりの音量に、常連客たちはタジタジになって、出来るだけ妻から距離を取ろうと席を移動させている。


「わああん、浮気なんて、酷いよぉ、酷いよぉ」


 これが三十超えた女の言動か?


 泣き顔は可愛い。


 だが、あまりにも子どもっぽい言動にはドン引きだ。


 結婚する前の彼女はこんなではなかった。もっとギラギラしていて、俺なんか太刀打ち出来ないような凄みを持っていて、むしろ俺から彼女に結婚してくれと頼んでしまったくらい、彼女の方が強烈だったのに。


「おーおー、この馬鹿息子は。可愛い可愛いあやめちゃんを泣かすとは、ひでえ野郎だぜ。よしよし泣くな、あやめちゃん。俺がもらってやるよ」

「いい加減にしてくれ……」


 どいつもこいつも。


 うんざりした俺が肩を落としていると、同情したのか、伊咲ちゃんが無言でバナナジュースを差し出してくれた。


 本当にいい子だ。この子をバイトに雇ってよかった。


 そんなことを考えている間も、妻は延々と泣き続けていた。

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