第49話 虚身遊戯
イールは気持ちを落ち着かせて、あの老刑事がなぜ自分に攻撃を当てられたのか、考えてみた。
存在感を完全に消したイールではあるが、透明になったわけではないので、姿は相手に見えている。
ただ、“そこに存在している”という実感が湧かないから、攻撃が“しにくい”だけで、躊躇せずに攻めれば、普通に攻撃は成功する。イール自身、その弱点には気が付いている。それゆえに、タイミングをずらしたり、相手の気を逸らしたりといった地道な駆け引きで、弱点をカバーしていた。
だから理論上は、相手が適当に繰り出した攻撃が、イールに当たっても不思議ではないのである。
ところがイールはかわせなかった。
そもそも“イールの方が”老刑事のパンチをよけられなかったのだ。
(まるで……)
まるで、自分と同じように、“そこに存在している”という気配を消したかのように。
(馬鹿な、不可能だ)
世界には、自分と同じ能力を持った人間はいる。レベルの大小はあれ、似たような効果を発揮する。この老刑事もその一人だというのだろうか。
(そんなはずはない)
だったら最初から能力を使うはずだ。
しかし、ここに来て、急に老刑事の気配の質が変容した。
なぜだろうか?
イールは考えたが、結論を出せない。
(ならば、また試してみるか)
もう一度老刑事に飛びかかる。
イールの腹に、前蹴りがぶち当たった。
「ぐっ」
威力は大したことなかったが、牽制される形で、イールはやむをえず後退した。
(集中だ! 僕の攻撃の瞬間を悟られないくらい、気配を殺して――!)
息を深く吸い、吐いて、肉体を落ち着かせ、イールは三度目の攻撃を仕掛ける。
「無駄だ、坊主」
前へと踏み出したイールの脚を狙って、老刑事は下段足刀蹴りを放つ。脛に蹴撃を喰らい、運歩を封じ込められたイールは、またも後退させられた。
(なんで――なんでだよ!)
自分の動きが読まれているだけでなく、相手の動きまで読めない。普段ならどうということのない蹴りを、なぜか避けられない。
イールは苛立っていた。
(こいつ、鬱陶しい!)
もはや、好敵手と巡り会えた、と呑気に構えていられる余裕はない。
少々苦戦はしても、最後には倒せる相手であれば、イールも心落ち着かせて対処出来る。
ところが、この老刑事は、何度攻めても攻略の糸口が掴めない。
(殺してやるよ、今度こそ――)
湧き上がる怒りを抑えて、極力冷静な感情を保ったまま、イールは静かに前へと進んだ。
一定の距離まで近づいたところで、イールは床を蹴った。素早く老刑事へと接近すると、ナイフを高速で振る。並の人間なら、まず対応しきれないほど、気配を感じさせない攻撃だった。
が。
ズン、と脳味噌まで揺さぶられる。
イールのこめかみに、相手の裏拳打ちがヒットしたのだ。
「う、か……」
体をふらつかせながら、呆然と、自分の身に起きたことが信じられず、イールは老刑事を見つめていた。
(なんで……っ⁉)
体のバランスが崩れると同時に、心も動揺する。能力を発揮し続ける余裕もない。
「オオオ!」
雄叫び、ナイフを振り回すイール。
その愚かで乱雑な攻撃は、腕を掴まれたことで中断させられた。
老刑事はイールの背後に回り込みながら、腕を捻って、イールを投げ飛ばした。空中で綺麗に一回転したイールは、受け身を取れず、水浸しになった床に叩きつけられる。
バシャ、と水飛沫が上がった。
(くそっ)
イールは立ち上がり、ナイフを突き出したが、得物を持つ手を手刀で叩かれて、床に落としてしまう。
今度は素手で老刑事の顔面に殴りかかるが、相手はイールのパンチを腕で打ち上げて、カウンター気味に腰の入った中段突きを、水月に叩き込んできた。
ズシンと鈍くて重い衝撃が内臓に伝わり、イールの息が止まる。
(ま……ず……い)
能力の活用には呼吸法が欠かせない。その呼吸が、今の水月への一撃で、満足に出来なくなっている。
焦ったイールは、がむしゃらに腕を振り回したが、そんなぞんざいな攻撃が老刑事に当たるわけもない。
相手の反撃が始まった。顔、胸、腹……老刑事の怒涛のラッシュパンチが、乱舞となってイールの全身に叩きつけられる。もう、イールには抵抗するだけの力がない。
(僕が……負ける)
信じたくはなかったが、どうやらそのようだ。
理屈はわからないが、老刑事は自分の能力を破る方法を思いつき、さらに老刑事自身が存在感を消す能力をコピーした。能力を封じられただけでなく、真似までされて、どうして倒すことが出来ようか。
イールは力なく膝をついた。
その顔面目がけて、老刑事の拳が迫ってきている。
全てがスローモーションに見える中、相手の言葉が耳に飛び込んできた。
「この外道め」
ゲドウ。
その日本語を、何かの機会でイールは聞いたことがある。
日本人は時として、その言葉を“悪”と同義で使う、ということも。
先ほど廊下で殺した一人の男のことを思い返した。
(そうか……僕は、悪だったのか……)
悪を滅ぼす、という目的に熱中するあまり、自分が悪になっていることに気が付いていなかった。いや、気が付いていても、都合よく目を逸らしていた。
(僕は……僕こそが……悪か……)
シニカルに苦笑した後。
イールは老刑事の攻撃を喰らい、意識を失ってしまった。
※ ※ ※
倉瀬は暗殺者を倒した後、気が抜けて、洗面台の上にもたれかかった。
「なんて……奴だ」
ここまでの異能者と戦ったことなど、倉瀬の豊富な戦闘経験の中で一度もない。暗殺者は、自分自身の気配――いや、“存在感”を、自由自在にコントロールしていた。想像もしたことのないような能力者だった。
幸いなことに、倉瀬は過去に似たような能力を持つ者と、少林寺拳法の道場で戦ったことがある。
その相手には一度も勝ったためしがないが、後日、勝てる方法を思いついた。ただ残念なことに、その時にはすでに相手は病気でこの世から消えてしまっていたため、実践してみたことは一度もなかった。
勝てる方法に気が付いたのは、道場で鏡を見ながら、自分の型の研究をしている時だった。
鏡面に映し出された自分の姿に集中しているうちに、自分自身の肉体の感覚が消失してきて、肉体を運動させているというよりもむしろ、鏡の中の像を動かしているような、奇妙な浮遊感を感じてきた。その感覚は、まるで操り人形を繰り動かしているかのようで、どうにも気持ちが悪かった。
が、それが倉瀬にヒントを与えた。
鏡の中に映った自分は、実体のない虚像である――それを動かす感覚で、やはり鏡に映った相手にぶつけていったら、どうだろうか。
さながら、若者が興じているテレビゲームのように、実際に存在するわけではない平面上の画像を動かして、同じく存在しない敵と戦う。自分の肉体に対する感覚すらもヴァーチャルの世界に置くことで、存在感のない敵と渡り合うことが出来る。相手が他界したせいで、試す機会は結局訪れなかったが、いい線行くのではないかと、何度も頭の中でシミュレーションを繰り返してみた。
ただ並大抵の技量では、真似出来る芸当ではない――とある段階で悟った。相手の動作も確認しなければならないので、必然的に鏡を横目に見ながらの戦いとなるが、正面を向いたまま鏡の動きをチェックしつつ、通常と変わらない感覚で戦うのは、まず不可能だ。
その後倉瀬は、八方目の鍛錬を怠らず、正面を向きつつも横の鏡面に意識を集中出来ないかと、実際に道場で練習に練習を重ねた。二度と同じ相手と戦う機会はないだろうと予感していたが、それでも、自己の研鑽を積むために、ひたすら生真面目に、倉瀬は亡き拳士のことを思い浮かべながら、繰返し同じ技術を磨いていた。
そして、倉瀬の鍛錬は、結果として活きることとなった。
警察署内で鏡のある場所は、トイレ以外に思いつかなかった。冨原の血を撒き餌とし、敵をトイレの中に誘い込んだ。
水を床に撒いたのは、保険だった。万が一、鏡を使っての戦闘が失敗した場合、水浸しの床で相手の動きを判断出来るように、念のため二重の策を張っていた。だが、その程度は敵も予想済みだろうと、倉瀬は感じていた。
案の定、敵は水の上でも、巧みに存在感を掻き消して戦いを挑んできた。
倉瀬は、洗面台の鏡に彼我の姿が納まる位置まで後退して、自分の体の感覚を消し、あくまでも鏡に映った自分の体を操る気持ちで、全神経を鏡面へと集中させた。まさにゲームをプレイしている感覚だ。鏡に映った相手の虚像が、自分の虚像へと向かっていく瞬間、鏡の中の自分を動かす。
実感は湧かない。が、鏡の中で自分の拳が相手に当たっていた。
(おお――!)
倉瀬は軽い感動とともに、この戦法が通用することを感じた。
それからは倉瀬の独壇場だった。
迫りくる相手を、何度も撃退する。意識は鏡の方に向かっているから、拳にはほとんどヒットした感触はない。
そのうち、相手の動きが鈍くなり、存在感が掻き消えることもなく、乱雑な攻撃しかしてこなくなった。そうなったら、もはや強敵ではない。容易く、屠れる相手だった。
※ ※ ※
イールの誤算は、老刑事が常人を遙かに超えた“努力する”武術家であり、それゆえに異常な能力を持つ敵でも、それなりに対処出来る、「技術の引き出し」を保有していたことにある。
普通の武術家では、イールと満足に渡り合えなかっただろう。
老刑事――倉瀬と矛を交えてしまったことが、イールにとって不運な出来事だったのである。
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