第48話 撒き餌

「あらゆる生物が避けられない無防備な瞬間とは、捕食の瞬間だ。撒き餌に誘き出された魚が、その中に潜む付け餌に気がつかず、針にかかるように。人間もまた食事を取っている瞬間は最も油断している。食を取る、という行為は、あらゆる生物にとって、何よりも優先すべき本能の行動だからだ」


 祖父が語った理論を、イールは一度も忘れたことがない。


 実際に人を殺すようになって、イールが感じたことは、想像していたよりも人間には隙のない時間が多く、逆に一度隙を見せると拍子抜けするほどあっさり殺せる、という事実だった。


 イールは、基本的に殺すターゲットがどのような状態にあるのか、気にする必要はない。なぜなら、彼の存在を犠牲者は死ぬ直前になっても認識出来ないことがほとんどだからである。


 イール自身不思議だが、周りの人間は自分の姿形を目で見ていても、頭の中では認識出来ていないようなのだ。


 それでも祖父の言う通り、一番楽に殺せるのは、ターゲットが食事をしている瞬間だった。特に物を口に運んでいる最中は、周りに対する警戒を怠っている。


「あれだけ警戒心の強い魚が、なぜ針にかかるか? それは食事に集中力が向いているからだ。撒き餌を食べることに熱中するあまり針には気がつかない」


 祖父は、最後にイールに警告した。


「イール、よく聞きなさい。それは我々も同じだ。目の前に餌がある状況で油断してしまうのは、人間の避けられない性だ。殺したいと思う相手が目の前にいる時、周りの様子に集中出来るか? いや出来まい。だから我々もまた殺人を犯す時には――まず冷静にならなければならない」


 冷静に、確実に。


 たやすく殺せる相手だからと、決して興奮せずに。


 ※ ※ ※


 イールは、自分の邪魔をする老刑事に対し、ちょっとした感動を覚えていた。


 それは好敵手に巡り会えたことに対する喜びでもあるのかもしれない。


 人生はつまらない。


 祖父は、「若いうちは夢を見ろ。働くのは老いてきてからでいい」とイールに語ってくれたが、イールにはすでに夢などなかった。


 世界中の悪を駆逐することが彼にとっての夢ではあるが、生きている間に実現出来るかどうか、難しいところだ。やれる限りのことはしたいが、現実的に考えてみれば自分一人の力ではどうしようもない。シリアル・キラー・アライアンスの協力があってこそ成し遂げられるものであり、そのシリアル・キラー・アライアンスだって、最終的には壊滅させるつもりだった。


 そもそも悪の定義とは?


 どこまで殺せば、悪はこの世から消えてなくなる?


 自分の知らない悪が存在するとしたら、どうやってその者を殺せるというのだ?


(虚しい)


 自分一人だけ楽しむには人生は長すぎるし、世界のために何かを成し遂げるには人生は短すぎる。


(虚しい、虚しい、虚しい)


 イールの存在感の無さは、彼自身の抱えている虚無感から来ている面もある。


 常に空虚な心を持っているイールは、生まれつきの体質に加えて、全ての行動に生気が宿っていない。まるで人形が操り糸で動かされているように、その動きに人間的生命力を感じさせる要素は皆無である。


 だからこそ彼と相対した人間は、彼を正常に認識することが出来ない。


 他の人間の脳は、イールを生きている人間として正確に識別することが出来ないのである。


 それほどイールは異常だった。


 とにかく彼は人生の虚しさに嫌気が差していた。


 生半可な目標では、生きていくことに喜びなど感じられない。この世から悪を一掃するという大きな目標でもなければやってられない。


 しかし……。


(つまらない)


 悪を滅ぼすという目標ですら、彼にとっては生き甲斐とはならない。


(じいちゃんと戦った時が一番面白かった)


 祖父との戦いは、唯一イールに生きる喜びを与えてくれた。


 血湧き肉踊る、戦士としての本能を満足させてくれる死闘。同じ悪を殺すのでも、あんな風に興奮出来る相手と戦って、命を奪いたい。


 イールはより強い相手と矛を交えたかった。


 そんなイールにとって、老刑事は待ち焦がれていた相手だった。


 トミハラを守りながら、自分の攻撃をかわし、頑固に抵抗を繰り返している。歳の割には強い。


(殺してみたい)


 イールは胸を昂ぶらせていた。


 奴を殺せたら、自分の退屈な人生に箔が付くような気がしていた。


 廊下に血の跡が点々としている。


 顔面を切りつけられたトミハラから、こぼれ落ちた血が、床に残ってしまっているのだろう。


(馬鹿な奴)


 くす、とイールは冷笑した。


 どれだけ逃げようと、血の跡を辿っていけば、追いつくことが出来る。どこか狭い行き止まりにでも追い詰められれば、自分の能力を駆使して、簡単に殺すことが出来る。


 しばらく廊下を進んでいくと、血の跡はトイレの中へと入っていった。


(僕を待ち伏せする気か? でも、こんな狭い場所に入って、頭悪い相手だな)


 トイレの中に足を踏み入れると、ベチャリと濡れた感触が足の裏から伝わってきた。


 床が水浸しになっている。


 脇にバケツが転がっていることから、敵が自分で床に水を撒いたのだと悟った。


 おそらく、自分が気配を消すことを察し、その動きを捉えるために、このような策に走ったのだろう。水の上を歩く際には、どうしても水音が立ってしまう。なかなか上出来な作戦だ。


 だが甘い。


 イールは精神を集中させ、息を吸い込んで、一度止めた。口を開いて、ゆっくりと息を吐き、体全体をリラックスさせる。


 意識すると失敗する。


 能力を発揮するには、無意識の動きをコントロール出来なければならない。


 準備が整い、イールは一歩前に踏み出した。


 不思議なことに、水音はほとんど聞こえなかった。


(この程度の仕掛けで、僕の動きを見破れるとでも?)


 祖父の代から研鑽を重ねられてきたこの能力。水場での心得も伝授されている。これくらいの水浸しの床など、取るに足らない。


 スイスイと軽やかに歩いていったイールは、血の跡の終点となっている、一番奥のボックスの前に立ち、扉を開けた。


 便座の上に腰かける形で、両目を傷つけられたトミハラが、力なく座っている。


 老刑事の姿はない。


「?」


 どこかで見落としたか、それとも別の場所に逃げたのか――イールが首を傾げていると、トイレの入り口から、老刑事の声が聞こえてきた。


「おい、私はここだ。ここにいるぞ」


 イールはすかさずナイフを構えて、入り口の方を向いた。


 トイレの中に入ってきた老刑事は、拳を構えて、同じように戦闘態勢に入る。


(馬鹿な老人だ)


 この状況で自分から姿を見せるなんて、冷静な人間の取る行動ではない。


(あんた、“詰み”だよ。このゲームは僕の勝ちだ)


 イールは満足げに微笑んだ。


 その直後に床を蹴って、一足で距離を詰め、老刑事の懐へと潜り込んだ。


 ナイフで切りかかる。


 ところが――イールの顔面に、拳がめり込んだ。


 老刑事の放ったストレートパンチだ。


(え?)


 イールは殴られた勢いで後退する。


(何が起きた?)


 再びナイフを構える。


 今度はすぐに飛び出すような真似をせず、相手の出方を見つつ、自分に攻撃を当てたからくりを解明しようと考えた。


 両者睨み合ったまま、しばらく一歩も動かずにいた。

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