第47話 ナチュラル・ボーン・アサシン
間一髪で倉瀬は身を反らせ、ナイフをかわした。
切っ先が鼻の頭をかすめたが、薄皮一枚傷ついた程度で済んだ。
後退しながら体勢を整え、重心を安定させると、すかさず敵に向かって飛び込んでゆき、拳で相手の顔面を突き抜こうとした。
またも相手の気配がフッと消える。
姿は見えているのに、そこに存在しないかのような違和感。
感覚を狂わされて戸惑う倉瀬に、突きを避けた敵は、再びナイフで切りかかってきた。
「っ!」
刃がシャツを切り裂く。
このまま戦い続けてもらちが明かないと判断した倉瀬は、また相手の気配が消えてしまう前に、攻撃のため突き出されたナイフを持つ腕を、素早く片手で捉まえた。
相手の脇をすり抜けながら、同時に腕をねじり上げ、屈んで、勢いをつけながら投げ飛ばす。
敵は机の上に叩きつけられ、「グッ」と呻いた。
「八田、逃げるぞ!」
すっかりパニックを起こして、部屋の隅で震えていた八田を叱咤する。顔を押さえて苦しんでいる冨原を背中にしょい、取調室から脱出した。敵が起き上がろうとしているのか、倒れたままなのか、確認している暇もない。
廊下に出て、五、六歩進んだところで、刑事の一人に呼び止められた。
「おい、どうした? 何があった?」
刑事は、ただ事ではない様子の倉瀬に不審を抱きつつ、取調室の中を覗き、また倉瀬の方へと顔を向けた。
その目が、顔面を血まみれにして呻き続けている冨原へと向けられた時、刑事の顔色が変わった。
「あんた――なにやってるんだ!?」
おそらく取調室の中には、何も見えなかったに違いない。
いや、確実に敵の姿は見えていたはずだが、それが人間であるという認識にまでは至っていないのだろう。
無人の取調室から、血まみれの容疑者を背負って飛び出してきた、よそ者の刑事……何か、とんでもない過ちがあったと誤解してしまったとしても、仕方がない。
「その中に殺し屋がいるんだ。応援を――」
「冗談はよせ!」
倉瀬の警告を、刑事はまるで取り合おうとしない。
「誰もいないじゃないか。あんた、そいつに何したんだ? 正直に言えよ。なんで、そいつは血まみれなんだよ。おい、八田、何があったんだ? 教えろ」
いきなり名指しされて、八田はビクンと体を震わせた。
「ほ、本当に、殺し屋が――」
「どこにそんなもんがいるってんだよ、ああ!? その爺さんがカッとなってぶん殴ったとか、そんなところなんだろ! かばったりすると、あとが大変だぞ!」
「本当なんだ、いきなり殺し屋が現れて、そいつは姿が見えなくなる奴で」
「マンガの読み過ぎだ!」
刑事は恫喝した。
「部屋の中には誰もいないぞ! お前らが出てきた瞬間を、俺は見ているんだ。お前らしかいなかった」
「信じてくれ、本当に――」
「だから! いねえって言ってるだろうが! 取調室には誰も――」
激昂しながら、取調室内を指差した刑事だったが、その目がもう一度部屋の中に向けられた瞬間、彼の顔は恐怖でひきつった。
「――いる⁉」
次の瞬間、部屋から飛び出してきた人影が彼の横を通り抜け、頸動脈をナイフで切りつけた。
首から盛大に血が噴き出し、廊下の壁に散布される。
「か――⁉」
自分に何が起きたのか、理解する前に、刑事の眼球に次の刃が突き刺さった。激痛で絶叫を上げる刑事の目玉を、敵は無惨にもえぐり出す。ベチャリと、床に左眼球が落下した。
続けて、顔の正中線が下から上へと切り上げられた。顔面が縦に真っ二つに割れ、真っ赤な血が宙に飛び散る。その返り血を浴びた敵は、少しも気にしている様子なく、血のシャワーにうっとり酔い痴れていた。
助ける間もなく、一人の刑事が犠牲になってしまった。
倉瀬は唇を噛んだ。このままでは圧倒的にこちらが不利だ。負傷した冨原と足手まといの八田を守らなければならない現状、全力で戦うことは出来ない。
「しっかりしろ、八田!」
恐慌状態の八田に喝を入れようとするが、腰を抜かした八田はうわ言を繰り返すだけで、一歩も動けるような状態ではない。
ここで八田一人のために命を落とすわけにはいかない。
しかし彼を見捨てるわけにもいかない。
確かに、八田を置いて逃げるのは一番懸命な選択肢かもしれない。冨原を狙っている敵が、八田一人を殺すのに時間をかけるとは思えない。だが、追いかける際の障害になるとして、とりあえず殺してしまう可能性もある。
だから倉瀬はあえて前に出た。
敵の方向へと、冨原を背負った状態で、突進していく。
(とりあえず逃げるさ――が、八田は殺させんぞ!)
まさか向かってくるとは思っていなかったのだろう。相手は一瞬、動揺した表情になった。
だが、すぐに腰を落として戦闘態勢に移行する。
気配が消えた。
(呼吸を読むな! 視線を感じるな! 五感に頼るな、己の経験に頼れ!)
倉瀬は強い意志でもって、敵がいた方向へと突き進んでいく。
攻撃のタイミングは、どんな玄人であろうと一定のパターンはある。戦いの上手な人間は、そのパターンを各種戦闘技術でカバーすることで、相手に悟らせないようにしているだけだ。
この敵の場合、気配を消す、という手段を取っている。完全に存在感を無くしてしまうことで、攻撃のタイミングを読ませない。だが相手は大して膂力もなさそうな青年だ。一手二手先の攻撃を予測して、勘だけで防ぐことも不可能ではない。
姿だけ見えて、存在を感じさせない敵。
その立ち位置を頭の中に叩き込んだ倉瀬は、あえて目を閉じて、自分の五感を極力削って、経験にもとづいた第六感だけを頼りにする。
攻撃のタイミングが見えた。
「おおお!!」
雄叫びを上げ、倉瀬は体勢を低くして床に腰を落とす。その頭上をナイフが空振りした。
すぐに倉瀬は床に座り込んだ状態から足払いを放ち、相手の脛を払って、前のめりに倒れさせた。
「けあ!」
立ち上がった倉瀬は、足を上げ、倒れている相手を踏み抜こうとする。
敵は横転して、踏みつけをかわした。
(っ⁉)
倉瀬はふくらはぎに激痛が走るのを感じた。
いつの間にか脚を切り裂かれたようだ。血が溢れ出ている。
脂汗を掻き、倉瀬は足を引きずりながら、廊下を逃げていく。
背後で敵が立ち上がった気配がした。
(厄介な奴を相手にしてしまったもんだ)
倉瀬は、かつて道場で似たような能力を持つ人間を相手にしたことがある。
ここまで極端ではなかったが、その時の相手も、ふとした瞬間に存在感を消してしまい、たまに戦闘のテンポを狂わせることがあった。
人間は気配を感じる時、少なからず五感で相手の存在を認識している。
それは、息遣いであり、匂いであり、視線であり、また体温でもある。
生きている存在がそばにいるということは、どれだけ沈黙を保っていようと、それなりに空間に影響を与えているのであり、鈍感な人間でもなければ、容易に気が付いてしまう。
熟練の戦士であればなおさらのことだ。
すなわち微弱な気配でも感じ取ることの出来る、ほとんど悟りの境地に達している武術家などは、そういった人間の醸し出す何かを鋭敏に認識出来る者なのである。
そして、この世界にはごく稀に、生まれつき存在感の薄い人間がいる。
それはただ単に地味とか暗いとか、集団の中で埋没するような人間のことを指すのではない。
呼吸をほとんどしない。匂いがない。視線を感じさせない。体温が極端に低い。
全ての要素が、生命としての存在を感じさせず、相対していながらにして人間とは認識させない。人間の形をしており、確かに目はその者を捉えているのだが、マネキンを人間と思い込めと言われても完全に思い込むことは無理なように、その者を認識せよといくら言われても、存在を認めることが困難な人間。
ナチュラル・ボーン・アサシン(生まれつきの暗殺者)とでも呼ぶべきだろうか。
倉瀬がいま戦っている敵は、まさにそんな恐るべき存在なのである。
(幸いにして私には経験がある)
少林寺拳法の道場で、唯一勝てなかった相手。
あの拳士との戦いが、自分をさらなる高みへと押し上げ、また世界には想像を絶する武勇を誇る人間がいるのだと教えさせられた。
(負けるわけにはいかん!)
ある場所へ向けて、倉瀬は逃亡を続ける。
傷ついた冨原を守りながら、気配を殺してしまう敵と渡り合うには、あの場所しかない。
怪我を負った脚に顔をしかめながらも、敵に追いつかれる前に、急いで倉瀬は歩を進めていた。
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