第2章 イノセントフレイム

第43話 不可視の悪魔

 10年前のことだ。


 ジャズで有名なアメリカのテネシー州ナッシュビルにある、小さなハイスクールで、学生による銃乱射事件が起こった。今でもアメリカの銃社会を批判する時に象徴的に引用される、極めて凄惨な出来事であった。


 犯人の名前は、エド・ディラン。


 映画の影響を受けたと自白したエドは、その映画の内容通り、人類の大半は悪魔が皮を被ったものであり、そして悪魔の王がナッシュビルの小さなハイスクールに潜んでいると知り、世界を救うため、単身乗り込んだのだと語った。


 なお、映画では悪魔の王はクライスラービルの最上階でふんぞり返っており、より正確に言えば、人類の“大半”ではなく、せいぜい1万人程度の正体が悪魔である。目標となったハイスクールと、映画の内容を結びつけるような関連性は、あまりなかった。映画に触発されて殺人を犯したにしては、エドの自白内容には、詳細な部分にいくつかの齟齬が見られた。


 そのため、佯狂ではないか、との疑いがあった。


 裁判では、彼に刑事責任があるかないかが焦点となった。弁護士は精神に失陥があったとし、減刑を主張した。傍聴席の遺族は、死刑を求めるプラカードを首からぶら下げたまま、静かに弁護団を睨んでいた。


 ふてぶてしいのは裁かれる立場に立たされているエド本人であった。


 裁判の様子を他人事のように観察しながら、鼻唄交じりに、白熱する論戦を楽しんでいた。その様子を見た遺族は激昂して、なぜこのような凶悪な殺人犯のために意味のない裁判をしなければならないのかと、ナッシュビル中にビラを配って、全住民に訴えかけたほどだった。


 おそらく、この数年の間で、テネシー州において最も沸騰した裁判だったと言えよう。


 だがその激しい裁判も、エドが何者かに殺されてしまったことで、なし崩しに幕を下ろされてしまった。


 殺人は、驚いたことに裁判の最中に起きた。


 席に座っていたエドが突然呻き声を上げた。


 何事かと隣席の弁護士が横を向くと、喉笛をザックリと切り裂かれたエドが、血を大量に噴き出させながら、パクパクと口を開け閉めしていた。


 間もなく彼は息絶えた。


 裁判所がパニックで包まれたのは言うまでもない。すぐに全ての出入り口は封鎖され、中にいた人間は1人も外へ出られなくなった。


 それでも殺人犯は見つからなかった。


 目撃者は何人か存在した。彼らが口を揃えて主張することには、何者かがエドのそばに寄り、コソコソと動いているのはわかったが、その動きにはなぜか不自然な様子は感じられず、ついつい見過ごしてしまった――とのことだった。


 これが1人だけの証言なら真偽を疑うところだが、複数名から同じ話が出てきているのである。


 その後調査を続けていくうちに、殺される前日にエドが、独房の看守に必死で助けを求めてきたことがあったと判明した。


「助けてくれよ、奴が、奴が来る。見えない悪魔――見えない悪魔だ!」


 何事かと話を聞いてみると、独房の前に人が現れ、エドに対して死刑を宣告してきたとのことだった。


 その時は、馬鹿馬鹿しいと看守は一笑に付した。拘置所内は厳重に警戒されており、誰かが自分の前を通過してエドの独房の前へ現れることなど、不可能な話だった。


 しかし――エドが殺された後になって振り返ってみると、どうも自分の目の前を誰かが通過していたような気がして仕方がなかった。看守はその顔を思い出そうとしてみるが、いまいち記憶に残っていない。が、考えれば考えるほど、確かに誰かが拘置所にやって来たのだと思われた。


「悪魔だよ、悪魔。ナッシュビルに住む悪魔が殺しに来たんだよ」


 警察の聞き込み調査に応対した、ナッシュビルの古老は、ウィスキー片手に酩酊した様子でそう語った。


「あたしらはインヴィシブルマニトゥって呼んでる。ここ数年、目撃者のいない殺人事件が頻発しているだろ? ありゃあマニトゥの仕業だ」


 古老が話すには、そのインヴィシブルマニトゥは、ここナッシュビルで命を落としたチェロキー族の怨霊なのだという。


 “Trail Of Tears(涙の旅路)”でインディアン准州まで追いやられたチェロキー族の若者が、飢えと疲労に耐え切れず、ナッシュビルに到着した途端に力尽きて息絶えてしまった。その怨みから、たまに人界に現れては白人を惨殺する。


 エドを殺したのも、その怨霊の仕業なのだと語った。


 真実は違う。


 チェロキー族の血を引くある少年が、エドを殺したのだ。


 その少年の名はイール・ワールバーグ。チェロキー族とドイツ系の混血児で、澄んだ碧眼と小麦色の肌が美しい、少女のような顔立ちの美少年だった。


 イールは息をのむほど美しく、街を歩けばすぐに目立ってもおかしくないのに、誰からも注目を受けたことがない。


 彼と長時間接する機会のある友人ですら、時々、彼の存在がいやに希薄になるのを感じていた。実際に会話をしているのに、フッと空気の中に溶け込んでいくような違和感。イール自身、それが何であるのか理解していなかったが、少なくとも自分には他人に認識されない不思議な能力が備わっているのだと、感覚的に悟っていた。


(これは僕に備わった天賦の才なんだ)


 チェロキー族の祖父から聞かされていた、一族にまつわる悲劇の物語。白人によるいわれなき迫害。そして、その白人どもが巻き起こす愚かな戦争。イールは、自分が世界のために何を出来るのか必死になって考えていた。正義感の強いイールは、それだけで夜も眠れない毎日が続いていた。


 その結果、イールはある結論に達した。


(そうだ、僕がこの力を使って、白人どもを殺せばいい)


 その後、実は祖父も同じ能力の持ち主で、やはり同様の考えからナッシュビルに住む白人を少しずつ殺害しているのだと知り、彼に力の使い方を教えてもらった。その結果、祖父をも超える力の使い手となった。


 やがてイールは祖父を殺した。


 彼はしょせんはチェロキー族の復讐のことしか頭にない人間だとわかったからだ。そんなことのために理由なき殺人を繰り返す祖父に嫌気が差し、一騎打ちの末、あっさりと頸動脈を切り裂いて殺したのだった。


(僕は世界を救う)


 そのためには、理不尽に人を殺すような連中を生かしておくわけにはいかない。だから、出来るだけ多くのクズどもを葬る必要があった。祖父もその1人に過ぎない。

しかし自分1人の力では限界がある。


 何度か政府要人たちの命を狙ったが、自分の能力をもってしても彼らの近くに寄ることすら出来なかった。経験不足を痛感した。


 そのうち選挙で次々と政治家が入れ替わっていくうちに、彼らの首などどうでもよくなっていた。


 より大きく広義の――“悪”を――彼は殲滅したいと考えていた。


 そしてエドの事件が起きた。


 彼を“悪”と認定したイールは、拘置所で彼に殺人を予告し、裁判の最中に首を切り裂いた。見せしめのために衆人環視のもと、処刑した。イールにとってはただそれだけのことだった。


 その彼にシリアル・キラー・アライアンスからの接触があったのは、つい1年前のことである。


 活動内容に大いに魅力を感じたイールは、迷うことなく入会を希望した。すぐに会員証が送られてきて、彼はシリアル・キラー・アライアンスの支援を受けられるようになった。会費は、能力を活かして各所から現金を盗み、それを支払いに当てていた。


 彼の能力はシリアル・キラー・アライアンス内でも高く評価され、歴代の会員の中でも五本指に入る早さで、ランクAの称号を獲得した。


「興味無いよ」


 と彼は語ったが、その実、悪い気はしていなかった。


 殺人鬼集団に認められるほどの殺人能力が自分には備わっている。それにシリアル・キラー・アライアンスのバックアップも加われば無敵だ、と彼は喜んでいた。


 いつしか会の要請を受けて、規約違反の会員を抹殺する仕事もやるようになっていた。本来のイールの主旨とは違うが、会の邪魔をする者は自分の正義活動の邪魔をする者でもある。特に、会の情報をリークしようとする者は絶対に許せなかった。


 人知れず殺人を遂行出来る、生まれつきの暗殺者。


 それがイールという人間である。


 そして現在――。


 愛知県警前にイールの姿があった。


 誰も注意を払わず、彼の存在を見過ごしている。


 まるで石像を石像と認識して、大して注目するほどのものではないと、最初から目を向けることを放棄しているかのように。


(やはり僕の存在を誰も認識していない)


 そのことを改めて確かめると、イールはくすりと微笑み、ゆったりとした足取りで署内へと入っていった。


 彼にとって、たかが日本の警察の取調室内にいるヤクザ一人、労せずして殺せる相手だ。

 

 今回は楽な仕事だ――とイールは感じていた。

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