第42話 帰宅

 ―2008年12月25日―

 ~金沢~


「……うそ」


 俺が一部始終を話し終えた後、ユキは青ざめた表情で呟いた。


 名古屋での一件が終わり、金沢に戻ってきてから、明くる日の昼過ぎに風間ユキが俺の店を訪ねてきた――その夜のことである。


 いつもは22時ごろまで店を開いているが、今日は20時で閉店とした。地下へ通じる階段の、地上入り口に「Closed」の看板を出し、誰も入って来れないようにしている。


 客のいない店内は、秘密の話を心置きなく出来る環境だった。


「私が、ゲームの目標で――それを推薦したのは、お父さん――」

「同情する」


 皿洗いをしながら、俺は慰めの言葉をかけてやった。


 世界中の殺人鬼たちが、ユキの命を狙ってこの日本にやってくる。


 年明け早々、『マンハント』は開始され、ありとあらゆる手段でユキは襲われて、1年以内には無残に殺されてしまうのだ。


 なぜそのような目に遭わなければならないのか。


 ユキの苦しみは当事者でなければわからない、想像を絶するものであろう。1年に1人を殺さなければ地獄の苦痛を味わう俺ですら、彼女の境遇には怖気が走ってしまう。


 が、彼女は冷静だった。


「……やっぱり」

「ん?」

「それで、私はずっとお父さんに恐怖を感じていたんだ。きっと、何かを起こすって思っていた。怖かった。でも、違う……私だけを狙うんだったら、違う。そうじゃなくって、別の何かが……」


 自分が殺されるかもしれない、そのこと以上に、何か他の考えに気を取られている。それがなんであるのか俺にはわからない。


 ただ、彼女の肝の据わり方には驚嘆させられた。


「昨日もそうだったな」

「うん?」

「昨日も君は、殺されそうになっている瞬間は随分と落ち着いていた。普通はあそこまで自分の運命を受け入れられないものだ。むしろ、他人が傷ついたり死んだりすることを、我が事のように悲しんでいた」

「だって――」


 ユキの目が赤くなる。今にも泣きそうだ。貢一のことを思い出したのだろうか。


「私は、私自身覚悟出来てるからいいけど、でも他の人は――他の人が死ぬのは――上手く言えないけど、その」

「優しいんだな」

「そんな通り一遍の言い方しないでください」


 ムッ、とユキは頬を膨らませる。


「私、優しくなんてないです。今だって、自分が生き延びてること、少しは嬉しいって思ってるんですから」

「とても嬉しそうには見えないが」

「嬉しいです」

「自分のせいで他人が傷つく、そのことを恐れて、自分自身を否定したくなる気持ちはわからないでもないがな。だからといって、己の美徳まで見て見ぬ振りをするのは、あまり感心出来ないな」

「そんなの私の勝手じゃないですか」

「ややこしい子だな。いいか、自分を卑下するという行為は、持っている可能性を潰してしまうことに等しい。時には堂々と、『自分が正しい』と振舞ってかまわないんだ。そうでなければ社会の荒波の中で生き抜くことは難しい」

「そんな単純な話じゃ」

「いいや単純な話だ」


 洗っていた最後のグラスを、洗い物カゴの中に置いて、俺はカウンターから離れた。店じまいのため、電源や汚れのチェックを行う。


「私、“道”が見えるんです」

「ほう。どんな道だ」

「正しい道――私自身が生き延びるための、こうすればいい、という道」

「未来が見える、ということか?」

「厳密には違うんですけど、そういうことなんです。今日会ったとき、あなたは信じてくれなかったですけど――」

「俺はオカルトは好きじゃないんだ。極めて科学的な話が好きでね、君がたとえ目の前で炎を吐いたり、空を飛んだりしようと、必ず科学的な根拠を求めてしまう。だから信じない」

「本当なんです。私の力は――」

「だったら、君は、これから先のことも読めるんだろう?」

「……」

「君自身が生き抜くための道を、君は読めるんだろう? どうすればいいんだ? なぜ、俺の所へ尋ねてきたんだ?」


 本当は彼女の力を信じている。


 何度でも復活するリーファだの、シリアル・キラー・アライアンスだの、常識を超えた存在を目の当たりにしてきた俺が、今さら未来視の出来る少女に会ったくらいで、その存在を否定するわけがない。


「私……て……ほしいんです」

「もっと大きな声で言え」

「私――」


 ユキの目に涙が滲んでいる。


 顔が赤い。歯を食いしばり、唇を噛んで、悲しそうに――いや、この表情は、どちらかと言えば悔しそうな表情だ。


 何を彼女は言おうとしているのか? それほど、口に出すのもはばかられるような内容なのだろうか?


 と、彼女は意を決したのか、ついに大きな声でワッと叫んだ。


「私を居候させてほしいんです!」

「……は?」


 俺は、開いた口が塞がらない。


「へ、変だと思います。本当は嫌なんです。殺人鬼の家に住ませてもらうなんて。でも、こうしてもらうのが最良の道だから――だから――あなたの家に住ませてください!」

「はあ⁉」


 すまん。


 何事にも動じないはずだし、どんな不条理な出来事でも受け入れられるつもりの俺だったが、こいつは無理だ。


 つまり、あれだ。


 落ち着け。


 彼女、風間ユキは、殺人鬼たちに命を狙われている。


 そんな彼女が生き延びるための方法は、たったひとつ。


 俺と寝食を共にすること。


 ……なんだそりゃ?


 風間ユキを前に、俺はこの意味不明な状況についていけず、呆然と突っ立っていた。


 ※ ※ ※


 ユキを放っておくわけにもいかず、ひとまず、家に連れて帰ることにした。


 別に、彼女が殺人鬼たちに殺されようが俺の知ったことではないが、彼女の元恋人を誤殺してしまった負い目もあり、相談には極力乗ってあげようと思っていた。


 シリアル・キラー・アライアンスとの約束は、「風間ユキを殺さない」ということであり、彼女が生き延びるための道にそれとなく手助けをしてやるくらいは、大した問題ではないと踏んでのことだ。ある程度までは手伝って、それで縁を切れば、特に連中にとっても支障はないはずだ。


 とにかく波風立てるような真似だけは避けたかったが、ユキを見捨てることも出来なかった。


 ただ、家に連れて帰るには問題がある。


 妻の存在だ。


 案の定、アパートの玄関口で出迎えられたとき、妻の目が怖かった。


「なあに、その子?」


 ユキは高校の制服を着ている。


 夜に制服を着た女子高校生を連れて帰ってきたら、一体どんな事情があるのか、まともな神経を持つ人間だったら普通は怪しむところだ。


 妻だって例外ではなかった。


「いや、実は、色々とあって……その、だな」


 普段は妻と対等に接している俺だが、この時ばかりは後ろめたい気持ちで一杯だった。


 と言うか怖い。


 妻を怒らせるのが怖い。


「あの、初めまして。私、風間ユキと申します」


 しどろもどろになる俺の後ろから、ユキが丁寧に挨拶をしてきた。その朴訥として可愛らしい挨拶の仕方に、かわいいもの好きの妻はたちまち顔を綻ばせ、


「やん、かわいい!」


 と黄色い声を上げるやいなや、ユキの手を引っ張り、家の中へ引きずり込んだ。予想外の事態に、ユキは戸惑いながらも、土間で靴を脱いで、妻に引っ張られるままに部屋へと入っていく。


「どうぞ、どうぞ。狭い家だけど、我慢してね。ご飯食べてく?」

「あ、あの、私――」

「いいの、いいの。うちの人、面倒見がいいから。よく、お店に来る常連客の人とか、受験に来る学生さんとか、泊めてあげているの。だから、慣れっこ。楽にしてっていいわよ。なんなら、泊まってって。あなたみたいに可愛い子なら、大歓迎」

「えっと、実は――」

「あー、もう、いいから。知ってるわよ。うちの人に殺されかけた子なんでしょ」

「え⁉」


 ユキが叫ぶ。


 ま、彼女がビックリするのも無理はない。いくらなんでも、殺人鬼の妻だからって、夫の犯罪行為を全て知っているとは思わないだろう。


 ところが、妻には――あやめには、俺の全てを話している。その全てを受け入れた上で、俺と夫婦生活を送っているのだから、彼女も相当イかれた人間だ。そんな頭のおかしい妻に、ユキとの同居のことを話したらどうなるか……。


 その時の修羅場を想像して、俺は青くなった。


「さ、座って座って。今日はクラムチャウダーだから。体、ぽっかぽかに温まるよ〜」


 ハイテンションなあやめに圧倒されたまま、ユキはずっと硬直している。


 俺は苦笑した。


 あやめがキッチンに行っている間に、ユキに話しかけた。


「さっきの話……妻にも正直に言ったほうがいいか?」

「……あの、私の感覚ですと」

「ああ」

「殊更に話す必要ないかと。どうせこうしてすんなり住ませてもらえるみたいですし……変に勘違いされたら、私たち、殺されちゃうかも」

「そうだな。実際、妻はそういう人間だ。勝手に裏の裏を読んでキレることが多々ある。命が惜しかったら、今日のことは黙っていよう。いいな」

「は、い」


 ユキは小さく頷いた。


 クラムチャウダーが食卓に出てくるまでの5分間が、異様に長く感じられた。


 でも。


「今日は最高に美味しく出来たよ! おかわり自由、いっぱい食べてね! ……って、どうしたの? 人の顔を見つめて」


 俺はあやめのことを真正面から見ている。


 ほとんど精神が化け物になりつつある俺にとって、唯一人間らしい生活を与えてくれるのが、妻だ。あやめだ。


 もしも彼女との出会いがなかったら、俺はとうの昔に人間性を失っていたに違いない。


 法は俺を救ってくれなかった。


 医者も俺を救ってくれなかった。


 救いの手を差し伸べてくれたのは、いつだって人間。


 あやめのような温かい女性がいたからこそ、俺はギリギリのところで人間として踏ん張れている。


 本当の殺人鬼になる一歩手前で、俺は耐え抜いている。


 彼女を愛している。心の底から感謝している。


 そんなあやめのために、俺は何が出来るのだろうか。このまま彼女に許されるがまま、毎年毎年罪もない人々を焼き殺し続けてもいいのだろうか。


 本来意図していなかった少年を焼き殺した、そのショックがまた蘇ってくる。


 俺は今まで、意味があって人を焼き殺していると思っていた。殺す価値があるからこそ殺すのだと、自分に言い聞かせてきた。だが、それは自分の中に生まれる罪悪感に対する卑劣な自己弁護ではないだろうか。


 きっとユキを予定通り殺していたら、俺はいつものように、「彼女は焼き殺すだけの高潔な魂を云々」と嘯いて、また翌年の計画を立てていたことだろう。だけど、まるで予定になかった少年を殺してしまった。そのせいで――いや、そのおかげで、悪い夢から覚めたような気がした。


 俺は、このままでいいのか?


 このままリーファが罵ったような、「化け物」に、本当になってしまっていいのか?


 何も考えなければ、ただの快楽殺人者になるのではないか? 腹いせとか、気まぐれとか、そんな程度の理由でも人間を惨殺出来るような、そんな悪魔になってしまうのではないか?


「……玲くん?」


 あやめは首をかしげた。


 温かいクラムチャウダーの湯気が、彼女の鼻先をふわふわと漂っている。


 胸の奥で、俺の心はざわついていた。

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