第40話 訪問異邦人
―2008年12月29日―
~東京~
「私は、マッドバーナーを追うなんておこがましい……役立たずのジジイにしか過ぎなかったようだ」
東京に戻ってから、倉瀬はすっかり覇気をなくしてしまい、簡単なデスクワークですらこなせないほど落ち込んでいた。
そのため、藤署長から有給休暇を取るように指示が出た。
「戦力外通告と思わんでくださいよ。前進しているのは確かなんです。マッドバーナー逮捕に向けて、まだまだあなたには活躍してもらわないと」
「ああ……」
署長の喝を受けても、倉瀬の表情は暗く淀んでいた。
全ては絶望的だった。
マッドバーナーとの遭遇に成功したのは、5年前の大阪での大捕物以来、久々のことである。その絶好の機会で逃してしまったことで、倉瀬はもう、自分が定年を迎えるまでにマッドバーナーを逮捕出来るのは無理じゃないか、と感じていた。
そして何よりも倉瀬の心に陰を落としているのは――風間ユキと、上杉小夜の失踪である。
風間ユキが失踪してから5日。
上杉小夜が搬送先の名古屋市の大学病院から姿を消してから、半日が経過していた。
風間ユキは、事件直後から行方をくらませ、いまだどこに行ってしまったのか調べがついていない。
殺人鬼に命を狙われていた少女が、なぜ誰にも何も言わずに消えてしまったのか。家を襲撃してきたヤクザに誘拐されたのか? それとも、そもそもマッドバーナーに殺害予告を受けたという話自体おかしな点があったから、実はマッドバーナーとは共犯だったのか。
それに加えて上杉小夜。
腹部を包丁で深々と刺されて、内臓に激しい損傷を負っていた彼女が、手術後の危うい状態で、忽然と病院から姿を消してしまったのだ。
痕跡からして、何者かに連れ去られたようだった。
聞くところによると、小夜は裏社会の人間たちに相当怨まれていたらしい。彼女のせいで検挙された連中は数多くおり、機会があれば復讐しようと狙っているとの噂も聞いた。
もし、そんな類の連中にさらわれたのだとしたら――
(いかん、駄目だ)
彼女の悲惨な末路を想像してしまいそうになる自分を戒め、倉瀬は頭を振る。考えてはならないことだ。
何がなんでも小夜を救い出す。その想いだけを胸に秘めていなければならない。
不吉な想像など、もっての外だ。
世田谷の家に帰ってからも、倉瀬は沈んだ顔で日本酒を飲んでいる。いつものような元気がない倉瀬に、妻の静江まで心配そうに眉を曇らせている。
座敷部屋の食卓で、向かい合わせに座りながら、静江は倉瀬にそれとなく話しかけた。
「あなた、大丈夫ですか? 顔色が悪いですわ」
お酌をしようと徳利を持ち上げたが、まだお猪口の中が空いていないことに気が付き、静かに徳利を机の上に戻す。
「……おかしいもんだな」
「はい?」
「私は今までに数多くの犯罪者を逮捕してきた。表彰もされたことがある。この通りの性格だから、昇進は上手くいかなかったが、所轄の最前線で皆に役に立ってきたことは大いに誇りに思っている。……それなのに、だ」
グイ、と一気に日本酒を飲み干す。
「それなのに、私は、マッドバーナーを捕まえられないことで、自分の人生全てを否定された気分になっている。そして――事実、そうなんだ!!」
滅多に怒鳴ったりしない、夫の剣幕を前にして、静江は口を手で押さえた。思わず出そうになった悲鳴を抑え込んだのだ。
「わかるか、静江! 奴は罪もない人々を焼き殺す、凶悪な連続殺人鬼だ! 一片の同情の余地もない! 頭の狂った、理性も常識もないような凶悪な精神の持ち主なんだ! 奴を野放しにしたまま警察を辞められるか! 辞められるわけがない! そして――」
徳利を奪い、そのまま酒を呷る。
静江が止める暇もない。
「私は、私は――再雇用まで受けて――惨めに、奴を追うつもりは――ない」
顔を真っ赤にした倉瀬は、酩酊した状態で、静江に語りかける。
「奴を――奴のせいで、私と――静江――お前の人生まで、狂わせるつもりはない――それもまた、敗北だ――だから、私は、定年――定年までに、奴を倒す――捕まえる――そう――で――なければ――」
そこで倉瀬は座敷に寝転がった。東京に帰ってからの疲労の蓄積もあり、一気に眠りの世界へと旅立っていってしまった。
いびきをかきながら、ムニャムニャとうわごとを繰り返して、赤い顔で寝ている夫の姿に、静江はクスリと微笑んだ。
「ご無理はなさらないで……あなたが犯人を捕まえられなくても、あなたの志は後進の方々の助けになりますわ。それが犯人逮捕に繋がる……」
静江は脇に置いてあった掛け布団をかけてやる。
今日は調子が悪そうだから――と、わざわざ気を利かせて、こっそり室内に持ち込んできたものだった。
「大丈夫ですよ、あなたはとても素晴らしい刑事です」
徳利とお猪口を盆に載せ、静江は立ち上がった。
台所へ運んでいく。
冷蔵庫にとりあえず徳利をそのまま入れて、お猪口は流しに置いた。ふと、冷蔵庫にマグネットで貼ったカレンダーを見て、今日が大晦日の2日前であることを知った。
「あら、私ったら」
夫のことで自分まで忙しくなっていたのか、年末の準備が整っていないことを思い出す。すっかり時間の感覚を失っていた。
もともと夫からの連絡では、事情聴取などの関係で愛知県警に協力するため、名古屋に長居するかもしれない、とのことだった。到底、年末までには戻ってこられないだろうと踏んで、気が緩んでいた面もある。
それが、風間ユキの失踪や、上杉刑事の拉致などの一件もあり、警察が混乱している中で、とりあえず報告と仕切り直しのために一度倉瀬は東京へ戻ることとなった。
そのために静江もまた、慌ただしい年末を迎えることとなり、ろくな準備も出来ないまま今日に至ってしまったのである。
「買い物しないと、お雑煮すら作れなくなるわ」
紙と鉛筆を用意し、明日の買い物リストを書き込んでいく。
そのとき玄関のチャイムが鳴った。
「あら、こんな時間にお届け物かしら」
静江は鉛筆を置いて、玄関へと急ぎ足で向かっていく。
土間に着くと、再びチャイムが鳴った。
「はい、どちら様ですか」
呼びかける。
が、返事はない。
「……?」
昔ながらの引き戸の向こう、曇りガラス越しに、人影が映っている。誰かがそこに立っているのはわかる。
けれども、声をかけたのに反応はない。
「あの、どちら様で……?」
もう一度誰何する。
ようやく、引き戸の向こうで人影が蠢いて、声が聞こえてきた。たどたどしい日本語で、どうやら外国人のようだ。
「オーウ、スミマセン。ヤブンオソクデキョウシュクデス。ワタシ、クラセケイジニヨウジガアッテキマシタ。ケイン、トモウシマス。アケテクダサイマセンカ?」
「はあ、どのようなご用件でしょうか?」
「スグスミマス。ホンノチョットデ。ダカラ、アケテクダサイ」
「……倉瀬には、あなたのようなお名前の知人はおりませんが」
静江は不気味なものを感じ、靴棚に隠してある樫の木棒を取り出した。
「ウタグリブカイ、オクサンデスネ」
鼻白んだ様子の声。
明らかに、苛立っている様子がわかる。ますます怪しい人物だと、静江は警戒心を強めた。
「ワタシハ、オクサン。マッドバーナーノジョウホウヲモッテキマシタ。ダンナサン、ホシガッテルンデショウ? ワルイコトハイイマセーン、ハヤクアケナイト、カエッテシマイマスヨ」
「夫は、自分の力で犯人を捕まえます。だから、あなたの情報など不要です。お帰りください」
「FuckinJap」
「……え?」
「イエイエ、ナンデモアリマセンヨ。デモネ、オクサン、ソレハオーボートイウモンデス。ワタシハオクサンデハナク、クラセケイジニハナシアリマース。オクサンガキメルコトジャアリマセン、クラセケイジガ、キメルコトデース。オクサンノイチゾンデキメテヨロシイノデスカー?」
「……」
しつこい男だ、と静江は感じた。
苛立つよりも前に、薄気味が悪い。なぜここまでしつこく迫ってくるのか? ここが刑事の家であることを知りながら、なお臆することなく、戸の前で粘って退こうとしない。
絶対に、相手がどんな甘言を弄しようと、戸を開けてはならない。
静江は心を固めていた。
「……ニホンジン、ショセンハ、サコクジョウイノチョンマゲヤローデスカ。ケイカイニモホドガアリマース。ジャア、ベツノイエニイキマスノデ、イイデース。グッドバイデース」
引き戸の前から人影が離れていく。
静江は安堵の溜め息をついた。
「Oh、ソウダ」
また相手は引き返してくる。
ギョッとした静江は、慌てて樫の木棒を構え直した。
「アナタノセイデ、ベツノイエニイクンデスヨ、ワタシハ。ソノコト、ヨークオボエテイテクダサイネ。コーカイシテモシリマセンヨ」
それだけ言い残して、謎の外国人は去っていった。
静江は、今度こそ気が抜けて、玄関口に座り込んでしまった。
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