第38話 報われぬ断末魔
鴻上貢一は昔からおとなしい性格で、争い事を好まなかった。
父や母の言いつけを素直に守り、また両親の愛情も一身に受けて、健やかに育っていた。
彼にとって世界とは“引っかかり”など存在しないものであり、人と人との争いなど、どこか遠い国のおとぎ話だと思っていた。
自分は人間を愛しており、両親が自分を愛してくれているように、他人もやはり自分を愛してくれるものと思っていた。
現実は違った。
小学校に入ってすぐ彼はいじめられるようになった。
その時点ではいじめの理由はよくわからなかった。普通に会話して、普通に振る舞っているだけなのに、みんなは白い目で見てくる。「うざい」と罵られたこともある。自分が何かするたびに、(また、あいつだよ……)とうんざりした表情で、みんなが溜め息をつく。
先生まで、「鴻上はどこかおかしい子なんだ、ほっておきなさい」と差別した。
父や母は、自分が間違っていたら優しく指摘してくれる。同じことをなぜ他の人間は出来ないのか。なぜキツく当たるのか。周りのみんなが自分に対して攻撃的になる必然性が見いだせず、貢一の頭は混乱していた。
自分が間違ったことを言ったのなら直すし、同じことは繰り返さないようにする。努力はしている。それでも彼らには足りないようで、ちょっと喋ったり動いたりするだけで、嘲笑ったり、睨んだり、酷いときは暴力を振るったりしてきた。
高校一年になったとき、貢一は答えを見つけた。
人間は、自分が思うほど上等ではない。その九割以上は、低脳で、下劣で、生きる価値もないような、人を愛する術すら知らないウジ虫以下の存在だと、悟った。
その考えに至ったのは、入学して最初のホームルームで自己紹介をした時の、クラスメートの反応がきっかけだった。
「僕は神話とか妖怪とか好きです」
同好の士を求めるつもりで、それをおかしいとも思わず、にこやかに発言した。
「げええ、妖怪? キモっ!」
髪を金髪に染めたチャラチャラした生徒が、阿呆みたいに口をパクパクさせながら、キイキイと甲高い声で、貢一の趣味嗜好を軽薄なひと言で否定した。
すでにクラスのムードメーカーとして人気者になっていた彼に、周りは同調して、貢一を馬鹿にするように大笑いした。貢一は寂しげに愛想笑いを浮かべながら、内心、人間存在に対する諦観でいっぱいになっていた。
その後は、目立っていじめられるようなことはなかったが、馬鹿にされ続けていた。
金髪の生徒を始めとして、クラスのみんなが自分を侮っていた。
「貢一はほんとにいい子ね」
ある日、夕食の手伝いをしているとき母がしみじみと言ったひと言に、貢一は涙がこぼれ落ちそうになった。
クラスメートに馬鹿にされているなんて、貢一は言えなかった。
そんなことを知ったら、自分を誇りに思ってくれている母はきっと傷ついてしまうだろう。
いい子だ、と母は言ってくれた。
それなのに、どうして周りから蔑まれなければならない?
自分は何も奇をてらったわけでもなく、普通に振る舞っているだけだ。
大好きな作家の小説を読んでいると、あの金髪のクラスメートがニヤニヤと近づいてきて、
「まーた、マニアックな本読んでるのかよ、妖怪くん」
と小馬鹿にした口調で話しかけると、本の表紙を見て、
「また気持ち悪い本読んでやがるぜ! おい、見ろよ、こいつの本」
自身が無知なだけであるのに、クラス中に大声でキャアキャアと喚いて大騒ぎする。
貢一はついに怒りが爆発した。
シャープペンを手に取り、金髪のクラスメートの上腕にブスリと突き立てた。彼は悲鳴を上げる。腕から血が滴り落ちた。
たちまち教室はパニックになった。
興奮した貢一は、金髪のクラスメートを殺すつもりで、彼の眼球を狙ってシャープペンを振り上げる。
駆けつけてきた教師が、胸ぐらを掴んで、貢一を殴り飛ばした。
「頭がおかしいんじゃないか、てめえは!」
爽やかなスポーツマン先生として全校生徒に人気の教師は、貢一がなんで騒ぎを起こしたか尋ねることもなく、一方的に貢一だけを罵った。彼の世界では、武器を持って襲いかかるような奴は、どんな理由があろうと許される存在ではなかったのだろう。きっと、問答無用で人間以下の卑怯者と見なしていたに違いない。
幸い警察沙汰にはならず、親同士の話し合いで決着はついた。
金髪のクラスメートの母親は、パート労働でくたびれきった顔を怒りで震わせながら、ヒステリックに怒鳴ったが、貢一の母は凛として自分の息子は間違っていないことを主張した。あまりの舌鋒の鋭さに、いつしか相手の親子も、スポーツマン先生も、貢一のために何もしてくれない無能な担任教師も、たじたじになって引き下がった。そんな母の気高さに、貢一は溜飲が下がる思いだった。
その日は早退することになった。
「ああ、むしゃくしゃしたわ。貢一、ケーキでも買いましょ。イライラした時は甘いものがいいわよね」
帰り道、母はにこやかに話しかけて、貢一を連れてケーキ屋に行った。そこで買った林檎のタルトは、とっても美味しかった。まるで一番幸せだった幼稚園の頃に戻ったような気分で、優しい母が買ってくれたタルトに舌鼓を打っていた。
しかしそれ以降、貢一は学校中の人間から避けられるようになった。
蔑みの目、嫌悪感に包まれた視線。あらゆる負の感情が貢一に襲いかかり、生徒はおろか教師まで、貢一を忌み嫌っていた。
そんな中で、風間ユキだけは貢一を愛してくれた。
誰も自分を愛してくれない、と悲観的になっていた貢一は、自分みたいな人間と付き合ってくれるユキに深い愛情を注いだ。
いや、依存していた、と言ってもいい。
初めて肉体的関係を持ったときから、ますます貢一のユキを愛する心は強くなっていった。
(ユキ、君しかいない。僕の人生で、僕みたいな薄気味悪い男を愛してくれるのは、君しかいないんだ)
そう思っていた。
ユキに別れを告げられた後でも、その気持ちに変化はない。
ただひたすらユキとの復縁を望み、それも叶わないとなると、貢一は自暴自棄になって彼女を殺そうとした。もともと彼女なんて存在しなかったことにして、傷ついた自分の心を救いたいと思っていた。
心の救済。
誰にも愛されない自分を、唯一愛してくれた女性が、やはり自分を裏切ったという絶望感を洗い流すため。
そのために、貢一はユキを殺そうとした。
包丁で刺し殺そうとした。
それでも彼はユキを愛していた。
かつて、ユキのためなら死んでもいい、と貢一は思っていた。
自分の命すら投げ打てるほど、ユキを愛していた。
その想いが、蘇ってきた。
(僕は、僕はいい子なんだ。お母さんが言ってたんだ、いい子だって、言ってくれたんだ!)
いい子は、何をすべきか?
殺人鬼にまで愚弄されて、このまま済んでもいいものだろうか?
いいわけがない。
いいわけが、ないんだ。
(お母さん、ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい。僕、僕は、僕は僕は僕は僕は僕は僕は)
マッドバーナーが、火炎放射器を構えた。倒れているユキを、狙っている。
(僕は、いい子だ。お母さんに愛されるいい子なんだ)
マッドバーナーに蹴り飛ばされて、床に転がっていた貢一は、泣きじゃくりながらも体を起こす。今まさに、怪人に焼き殺されようとしているかつての恋人を救うために、震える脚を抑えて、懸命に立ち上がる。
「やめろぉぉぉおおお!!」
恐怖を乗り越えて、マッドバーナーに向かって突進していく。
心のどこかで自分は生き延びると信じていた。
ちょっと曲がった道を行っても、最後はヒーローになると信じていた。
なぜなら自分は、「いい子」だから。
お母さんが誇りに思っている、「いい子」だから。
でも、現実は――
※ ※ ※
俺が火炎放射器でユキを焼き殺そうとした、その刹那。
あっという間に、貢一少年が正面に飛び込んできた。
彼は、火炎放射器の銃身に掴みかかると、そのままグイと持ち上げて、狙いを強引にユキから逸らす。だが、噴射口は彼の上半身を捉えている。
(なにっ⁉)
予想外のスピードだった。
引き金を引くのを中断出来なかった。
カチリと音が鳴り、火炎放射器の内部で発火装置が作動する。
紅蓮の炎が噴射口より噴き出した。
それは一瞬の出来事だった。
「ああ、ぎゃあああ、があああああああああああ!!」
上半身を炎に包まれた貢一少年は、この世のものとは思えない大絶叫を上げた。床に倒れて、転げ回り、炎を消そうとするが、どうしようもない。
俺はその地獄絵図を呆然として見守っていた。
もう彼は助からない。
「お母さぁぁぁぁぁ……!!」
断末魔に、彼は母親に泣き叫んで――
――息絶えた。
燃え続ける死体はピクリとも動かない。
(なんて、こと、を)
後悔が俺の喉をカラカラに渇かす。
取り返しのつかないことをしてしまった。
狙ったターゲットではない人間を殺してしまった。
初めての感覚。自分が人間の枠を外れて、化け物になっていくような恐怖感。血の気が引いていく。
俺はとんでもないミスを犯してしまった――。
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