第32話 炎魔ヶ刻

 風間邸での騒乱の後、みんな疲れ切った表情で後始末をしている。


 大乱闘の末に制圧したヤクザたちを一斉に、所轄の刑事たちがパトカーへと押し込んでいく。


 飛び交う怒号、罵声……。


 その中で、ひとり冨原だけは、後ろ手に手錠をかけられたまま、あぐらをかいて悠然としていた。


「のん気だな」


 倉瀬がその横の椅子に腰掛けた。


「負けるつもりでは戦わねェが、負けちまったもんはしょうがねェ」


 冨原は口の端を軽く歪めて、笑う。


 あくまでも余裕の態度は崩さない。


「極道も腑抜けになった昨今、お前さんのような武闘派がまだ生きていたとは、驚きだった。だが少々警察を甘く見ていたようだな」

「いや、わかっていたぜ、こうなるのはよ」

「わかっていた?」

「俺らもそう馬鹿じゃねえさ」


 連行されていく手下たちを、遠い目で見つめる冨原。


「ただ、これからの戦いを乗り切るためには、どうしても駒が必要だったんだよ。王を取るための飛車角がな」

「駒とは、風間ユキのことか?」

「あのガキはお前らが想像している以上に重要な人間だ」

「なんだと……?」

「まさかマッドバーナーに狙われているだけだと思っていたか?」


 クク、と冨原は嘲笑う。


「あのガキはな、もっとヤバい奴に狙われているんだよ」

「殺人鬼以上に危険な人間などいるのか?」

「あえて言うなら、そうだな……現代のイエス・キリスト、ってとこか」

「なに……?」

「もちろんキリストほど上等じゃねえな。だけど奴の力は本物だ。神に近い、と言ってもいい」

「随分」


 倉瀬は顎をボリボリと掻いた。


「誉めるんだな」

「間近で見りゃあ、わかる」


 冨原の目が陶然となった。


「俺は、奴の力に憧れた。堂坂のオヤジも奴の力をモノにしようとした。考えてもみろ、奇跡の力を我が物に出来るということが、どれだけ素晴らしいことか。チンケな極道なんてやってられねェ。上手くいけば、神だ」

「おい、何を言って」

「ま、続きは取調室でゆっくり話してやるよ。聞いたところで、てめえらのクソみてえな固定観念で、理解出来る話でもないがな――おう、いま行くぜ」


 最後の順番が回ってきて、刑事が呼びに来た。冨原は自分から腰を上げた。


「んなことより、別の心配をしたほうがいいんじゃねえのか?」

「別、とは、風間ユキのことか?」


 ※ ※ ※


 ユキは、隣の車両へ、隣の車両へと移動して、ストーカー貢一の追跡から逃れようとする。


 貢一は何事か喚きながら、包丁をブンブン振り回して襲いかかってくる。


 何両目かの車両で、連結部の扉を開けようとしているときに、攻撃の気配を感じて、屈んだ。


 その頭上を包丁が通過した。ユキは貢一に体当たりを喰らわせて、転ばせ、その隙に隣の車両へと移った。


 車内を駆けていくが、助けを求めようにも誰も乗っていない。貢一の凶行を止めうる人間が一人もいないことに、ユキは深い絶望を感じた。


(違った、のかな……?)


 自分が選んだ道には間違いがないはずだったが、ユキは自信がなくなってきた。


 この状況を正しい道と言えるだろうか?


 とうとう先頭車両まで来てしまった。


 もう逃げ場はない。


 やはり人はいない。


(なんで……⁉)


 これが正しい道ならば、誰かしら車内にいて、貢一を抑えてくれるはずだ。


 それなのに誰もいない。まるで貢一が自由に動き回るのを許しているかのように。


 先ほども、上杉刑事の邪魔をしたことが、貢一の助けになっていた。


 貢一が自分にギリギリまで迫ることが、正しい道だというのだろうか?


「ユ〜キィ〜……ユキィィィィ」


 最後の扉をゆっくりと開き、貢一が、ぬっ、と入ってきた。


 ユキは運転手に助けを求めようかと思ったが、背を向けた瞬間、貢一に刺し殺されるような気がした。


 迂闊には動けない。


「なんでだよぉ……どうしてだよぉ」


 首をゆらゆら左右に振り、貢一は一歩一歩、獲物をじっくりと追い込むように迫ってくる。


「なんで、別れないといけないんだよぉぉ。なんでさぁ」

「貢一、くん……」

「あんなに愛し合ってたじゃないか。二人にはお互いしかいないと思っていたじゃないか。僕を受け入れてくれたのは君で、君を受け入れられたのは僕だ。なんで、なんでその関係を、全部ぶち壊しにしちゃうんだ」

「……どうして」


 ユキは泣きたくなってきた。


 自分だってそう思っていたから、きっと貢一なら理解してくれると思っていたから、意を決して別れを告げたのに。それなのに。


 それなのに、貢一は逆上し、自分を殺そうとしてくる。


 ユキはユキで、信じていた心を裏切られた気分だ。


「君のことを好きになれるのは、私だけ、なんて思わないで。きっと、君のこと愛してくれる人は、きっと他にもいる。だから、もう自暴自棄になるのはやめて」

「へっ……他にいるもんかよ……こんな駄目人間な、僕を、愛してくれる人なんて……」


 包丁の切っ先を向けて、貢一はジリジリと迫ってくる。


 どうしてこんな事態になってしまったのか、ユキは貢一と別れてしまったことを悔やんだが、今さらどうしようもない。それに、ヨリを戻すと嘘をついたところで、互いのためにならない。


 でも、この場をどう切り抜ければいい?


 何も頭に浮かんでこない。窮地を切り抜けるための道は、何も。


(もう、終わり……?)


 ユキは、観念して、目を閉じた。


「ユキ、愛してるよ、ユキ、愛してるよ」


 うわ言のように呟きながら、貢一は包丁を振り上げ、ユキに攻撃が届く距離まで間合いを詰めた。


 ※ ※ ※


「あの女、マッドバーナーに殺されるぜ」

「まさか」


 倉瀬は否定する。


 マッドバーナーはユキに殺害を予告したが、居場所までわかるはずがない。せいぜい自宅の住所を押さえているくらいで、それもヤクザの襲撃に遭って逃げ出してしまった現在、マッドバーナーに彼女を見つける術はない。


 ない、はずだ。


「お前さんは、マッドバーナーが彼女を見つけられると思っているのか」


 何か、自分が大事なことを見落としているような気がして、倉瀬は思わず冨原に尋ねた。


 刑事に連行されていた冨原は、振り返り、ほくそ笑む。


「常識を捨てろ。マッドバーナーが、なぜ今まで無駄なく人を殺せ、捕まらずに済んでいたか」

「それは……」


 リビングドールとのやり取りで、微かに見えてきた、マッドバーナーの正体。


「協力者の存在か⁉」

「ははは、気付くのが遅えよ、爺さん。あのガキはもう丸焦げだな」


 冨原が連れ去られていくのを見届けてから、倉瀬は外へ飛び出した。


「倉瀬さん、どうかしましたか?」


 車のそばで一服していた八田刑事が、キョトンとした顔になる。


「車を出せ」

「へ?」

「ついでに無線で近隣の警官に呼びかけるんだ。風間ユキが危ない」

「は、はあ」

「早くしろ! マッドバーナーに殺されるかもしれんのだぞ!」

「ひえっ」


 倉瀬に怒鳴られて、八田は縮み上がり、震える手でキーを取り出して、運転席に入る。倉瀬も続けて助手席に乗り込んだ。


「風間ユキが危ないって、何があるんですか? マッドバーナーなら問題ないと思いますが……」

「お前さんの勝手な判断は要らん。早く車を出せ」

「は、はい」


 八田は上ずった声を上げて、命じられるがままにエンジンをかける。


 まずいな、と倉瀬は頭を掻きむしる。


「私の読みが正しければ、八田刑事」

「はい」


 八田は警察無線を使って、風間ユキの保護とマッドバーナーに対する警戒を呼びかけていたが、途中で倉瀬に目を向けた。


「マッドバーナーには協力者がいる。ターゲットの情報を逐一流している、情報提供者が」

「まさか。それじゃあ、連続殺人鬼の共犯じゃないですか。何の得にもなりやしない」

「普通は、な」


 だが普通でないとしたら?


 常識を超えたところで、マッドバーナーに協力するだけの利があるとしたら?


「私としたことが、予断を許されぬ状況だというのに――愚かだった!」


 倉瀬はダッシュボードを叩いた。


 その時、警察無線から報せが入った。


《春日井駅で、マッドバーナーと思しき人物が駅構内に進入! 繰り返します、春日井駅で――》


 ※ ※ ※


 電車が春日井駅に到着した。


 ドアが開き、外の冷たい空気が流れ込んでくる。


(逃げるならいま――!)


 ユキはこの機を逃すまいと、貢一に注意を払いつつ、一気に外へ逃げ出すため足に力を入れた。


 車内にアナウンスが流れる。すぐに車掌の声は途切れた。


(早く! 早く逃げないと!)


 足がすくんで動けない。


 いつ貢一が包丁を構えて、突進してくるかわからない。


「――!」


 歯を食いしばり、恐怖に耐え、外へと逃げようとする。


 が、遅かった。


 貢一がドアの前に立ちふさがった。


「逃がすものかぁ!!」

「きゃあ⁉」


 包丁の切っ先が鼻の前を通過する。皮一枚切れた。


 その間に電車のドアは閉まってしまった。


「あ……あ……」


 怖気づいたユキは、腰を抜かしてしまい、その場にへたり込んだ。生き延びようという気力が萎えてしまった。


(殺される……殺されちゃう……)


 歩み寄ってきた貢一は、ユキの首に手をかけ、包丁の刃を押し当てた。


 一度も研ぎ石を当てていない、刃こぼれのした切れ味悪そうな包丁が、ユキの頚動脈のあたりにピタリと押し当てられる。


「すぐ……楽にするから……すぐ……ユキ……」


 こんな包丁で切られて楽に死ねるわけがない。


 ユキは、やがて自分に訪れる無残な死に様を想像し、涙をこぼした。


「ユキちゃん!」


 春日井駅で車内に入った小夜が、車両をどんどん移動していって、ようやくユキのもとへと辿り着いた。


 小夜の出現でギョッとした貢一は、後ろを振り向いて、接近してくる彼女に対して包丁を向けた。


「やめなさい!」


 小夜は叫び、貢一に向かって手を伸ばす。


「邪魔すんなぁぁ!!」


 貢一は包丁を振り、小夜の黒スーツを切り裂いた。


 胸元が切り裂かれ、白いシャツが露わになる。幸い服一枚残っている状態で、肌や肉までは達していない。


「いい加減にしないと罪が重くなるわよ!」

「知ったことかよ! どうせ僕はもう駄目なんだ! ユキがいないと駄目なんだ! だから、死んだような人生を送るくらいなら、今ここで彼女をぶっ殺して、自分も死刑になった方がまだマシだ! ああ、マシだよ!」

「本当は死刑になる覚悟もないくせに偉そうに言うんじゃないわよ!」

「な、なんだと、お、お前に、僕の覚悟が、わかるもんか。ぼ、僕は本気だぞ、本気なんだぞ!! おおおおおおお!!」


 甲高い雄叫びを上げ、貢一は包丁を腰溜めに構えて、体当たりするように小夜へと突進していく。ヤクザの鉄砲玉がよくやる、捨て身の刺突。かわしにくい攻撃だ。


 小夜はいなそうとしたが、頬の傷がズキンと痛み、片目をつい閉じてしまった。


 気が付いた時には、貢一の接近を許してしまっていた。


 ズン、と腹に衝撃が走る。


「いやああああ!!」


 ユキの悲鳴が聞こえた。


(あ……)


 ドロリと腹部から溢れ出る血。


 命がこぼれ落ちていくのを感じる。


 小夜は腹を押さえたまま、膝をついて、虚ろな目で貢一を見上げた。紙袋を被って狂気の殺人鬼と化した貢一を。


(ユキちゃん……)


 守れない。


 エリカの時のように、自分は女の子一人守れない。


 それどころか、もうすぐ死んでしまう。


(神様……ううん、悪魔でも、いい……魂を売ってもいい)


 小夜は薄れゆく意識の中、天に祈った。


(誰でもいいから――だから、ユキちゃんを守って――)


 ガシャン。


 隣の車両に通じる扉――の窓ガラスが、突如として、音を立てて割れた。


 ユキも、包丁を振り上げていた貢一も、瀕死の小夜も、音のした方向を振り向く。

黒い巨体が、扉の向こうに見える。


 ドンッ、と轟音が響き、割れた窓から、紅蓮の炎が噴き出してきた。


「わああーーーーー!?」


 貢一が絶叫する。


 炎は、ただの威嚇だった。


 噴射が終わった後、扉を開け、ズン、と電車の車体を響かせながら、重量感のある黒ずくめの怪人が、この車両内へと侵入してくる。


 一歩進むごとに、ズン、ズンという重い足音が響き、背中のガスボンベの金具がガシャンと鳴る。ズン、ガシャン。ズン、ガシャン。リズムよく鳴る行進のメロディは、犠牲者を死へと誘う葬送曲だ。


 シュウシュウと聞こえる呼吸音が髑髏型のガスマスクから漏れており、さながら悪魔の息遣い。漆黒の闇を湛えた眼窩は、一切の感情を感じさせない。まさに死神の容貌。爆発耐性もある黒く大柄なスーツは、マッドバーナーが左右を向くたびに、ギチギチと革製品のような音を立てる。


「マッド――バーナー」


 小夜は、腹部の激痛を忘れるほど、意識を覚まされた。


 かつて自分の恋人を殺した仇敵が目の前にいる――


 ドンッと轟音。


 またも火炎放射器から噴き出される業火。


 上方に向けられて放たれた炎が、車内広告や路線図を焼く。車内に焦げくさい臭いと、熱気が篭もる。粘着性の可燃剤が天井に付着し、そのまま炎に包まれて、ゴウゴウと天井板を焼き続ける。


 紙の燃えカスが、ヒラヒラと舞い落ちた。


 燃え盛る灼熱の炎に囲まれ、黒い巨体を揺すらせながら、マッドバーナーは迫ってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る