第30話 ナイトストーカー
ひたひたと夜道を歩く。
街灯はついているが、月は雲に隠れている。誰かをこっそり殺すにはちょうどよい時間だ。
貢一はバッグの中に忍ばせた包丁を、確かにそこに入っているのか、何度も確認してみたくなったが、やはり現地に着くまでは不用意な行動は取らないよう自分を抑えていた。
それに、もしかしたら殺さないで済むかもしれない。
ユキは自分を愛してくれていた。一時の気の迷いで、「別れよう」なんてことを言い出したが、きっと誠心誠意話せば想いは伝わり、また愛してくれるようになるかもしれない。
そうしたら殺す必要はない。
何も殺すまでもない。
そうであってほしい、と貢一は願っていた。
※ ※ ※
初めてユキと出会ったのは、高校一年の春、部活動選びのため文芸部に足を運んだ時のことだった。
色々な小説が並んでいて、本を読むのが大好きな貢一は一冊一冊手に取っては、
「へえ、泉鏡花に、川端康成。あ、徳田秋声もある。いいなあ、この部室、いいなあ。幸せだなぁ」
と独り言を言っていた。
ふと気がつくと、二年生以上の先輩たちは作り笑いを浮かべていて、同じ一年生の見学者たちは気持ち悪そうにこちらを見つめていた。
周りから、(キモい)と言わんばかりの空気が流れてきているのを感じ、貢一は恥ずかしくなって本を棚に戻すと、
「ごめんなさい」
と呟いて、真っ赤にした顔をうつむかせながら、部室を飛び出した。
室内から笑い声が聞こえてきた。きっと自分のことを馬鹿にしているんだ、また小学校、中学校の時のようにいじめられるんだ――と思い、泣きたくなってきた。
昔から周りとの感覚のズレに悩まされてきた貢一は、それでも周りと同調しようと、一所懸命頑張ってきた。それでも根本的なところで他の人間と合わなくて、貢一はずっとずっと苦しんできていた。
高校こそはと心機一転、自分の感覚を世間の常識に合わせようと努力するつもりだったが、最初にしてこの調子だ。
(僕は、一生、誰からの理解も受けられないんだ)
絶望的な孤独感。
ただ他人と感覚が違う、その一点だけで、周りの人間は自分をもてあそび、馬鹿にし、差別する。こんなにも頑張っているのに、その頑張りすらも、面白おかしい足掻きとして、みんなは物笑いの対象にする。
唯一自分を笑わないのは両親だけだった。
いっそもう家に帰って、母と楽しくお喋りでもしていようか、と思っていた。
「待って」
誰かが後ろから駆け寄って、袖を掴んだ。
「だめ、逃げたらだめ。私だって戦ってる。あなたも逃げないで――」
振り返ると、ストレートの黒髪の美しい女の子が、真剣な表情でかぶりを振っていた。
今まで母以外の女性に優しくしてもらったことのない貢一は、こんな風に自分を心配してくれる同世代の女の子がいることに喜びを感じた。
それがユキとの出会いだった。
付き合い始めたのは、それから三ヵ月後の七月。
告白は貢一の方からした。
「私、お父さんが宗教の教祖だよ? それでもいいの?」
ユキは探るように聞いてきたが、貢一は最初から了解済みのことなので、強く頷いた。彼女がそのことで周囲から避けられて、中学時代もいじめられていたということをよく知っている。
そんな彼女だということを知ったから、なお告白したい、という気持ちになったのだ。
「僕は、君の全部が好きなんだ。僕みたいな男に好かれても困るかもしれないけど、でも、君と付き合いたい」
肝が据わったときの貢一は、信じられないほどの力を発揮する。昔から、平常時は頼りないけれども、何かのリーダーになった時は、普段の気の弱さはなりを潜めて、まるで別人のようなパワーで動き回ることが出来た。
ユキへの告白の時も、淀みなく凛々しい口調で、自分の想いを伝えた。
返事を聞くまで緊張で体が震えていた。
「……嬉しい」
その言葉を聞いた時、貢一は力が抜けて、ホッと溜め息をついた。
付き合い始めてからの二人は、絵に描いたように幸せなカップルだった。お互いの心の穴を埋めるように、いつも一緒に行動していた。映画を見に行ったり、遊園地に遊びに行ったり。休みの日を利用して、こっそり遠くまで一泊で旅行して、現地のラブホテルで寝泊りし、初めてセックスをしたり。何もかもが甘美で、輝くような、きらびやかな思い出。
その生活が一変したのが、2ヶ月前の10月。
約1年3ヶ月で、二人の関係は破局を迎えた。
「君が嫌いになったわけじゃない」
ユキはそう言った。貢一もその言葉を信じた。信じたけれども、それゆえに、なぜ彼女が別れようと言い出したのか理解出来なかった。あんなに幸せな関係を築いていて、「いつか結婚しよう」と何度目かのラブホテルでの行為のあと彼女に囁いたら、小さく頷いていたではないか。
「私はすべきことがあるの。将来のために。だから、今は君と付き合っていられなくなったの。ごめんなさい、わかって――」
「その、すべきこと、が、終わったら、また、付き合って、くれる、の?」
「わからない……でも、もしまだ“大丈夫”なようだったら、その時はまた二人一緒に……」
貢一はとりあえずは了承した。だが納得していなかった。
将来的にヨリを戻してくれると言うのなら、どうしていま別れなければならないのか。愛する男を捨ててまで、それほどまでに大事なことなのか。
母は、父とよい夫婦関係を築いている。お互いを尊重し合い、お互いのすべきことを邪魔せずに、しかし片時も離れることはない。また母は、母自身のすべきことは守りつつ、自分のためなら嫌な顔せず資金援助してくれるし、自分のことを常に気にかけてくれている。
こんなにも素晴らしいユキが、母以下であるという道理はない。ユキならば、母のように色々な人のために尽くしながら、それでも自分のしたいことだって出来るはずだ。
だから、その“すべきこと”のために、二人が離れなければならないという理由が貢一にはわからなかった。
何度も何度もそのことを説いた。
母と父の例も出した。
母の話を引き合いに出すたびに、ユキが嫌悪感溢れた表情になるのが、貢一にはよくわからなかった。
やがて何日かして。
貢一が話しかけようとすると、ユキは彼を見なかった振りをして、逃げるようになった。
初めて無視された時、貢一はようやく、自分がフられたのだと実感した。
家に帰って泣いた。泣きじゃくった。泣き喚いた。心配して部屋を見に来た母に、全てをぶちまけた。「男の子ならしっかりしなさい」と言いながら、母は優しく背中を撫でてくれた。それでまた余計に大声で泣き叫んだ。
それからは毎日が地獄だった。
夜に目が覚めては、大声で叫ぶ。
枕もとの壁を拳で殴りつける。
部屋の物を方々へ投げ飛ばす。
次第に、ユキが他の男に抱かれている光景まで想像するようになってきた。しかも、見知らぬ男に抱かれているというのに、自分はそれを空想して興奮している。自慰の道具にまで使う。
決して自分がユキを抱いている光景は想像しない。なぜなら母に、「男なら未練がましくしてはだめよ」と言われたから。母に言われたのだから、ユキに未練がましい思いを抱いてはいけない。
(ああ、だけど、ユキ、ユキ。忘れられないよ)
せめて他の男に抱かれている姿を妄想して、その様子を思い浮かべて興奮するしかない。
(ユキ、ユキ。こんなにも愛したユキ。僕しか、君を愛せないし、僕を愛せるのは君しかいない。ユキ、お願いだ、もう一度振り向いてくれ、ユキ。また僕の腕に抱かれてくれ。そんな冷たい目で見ないでくれ、お願いだから、ユキ。僕を嫌わないで。僕を見捨てないで。君に見捨てられたら僕はただの気持ち悪い男だ。気持ちの悪いマザコン野郎だ。誰も僕を愛してくれないし、誰も僕と結婚の約束なんてしてくれない。僕みたいな駄目人間を、誰が愛してくれる。君を逃したら僕はもう駄目だ。駄目になる。駄目になってしまう。ユキユキユキ。僕は君を愛している。何千回だって言う。君と僕は前世から出会う宿命だった。来世でも一緒になるんだ。君がたとえ新興宗教の教祖を父に持とうと、僕ならその全てを受け入れられる。他の連中みたいにいじめたりしない。だから、ユキ、戻ってきてくれ。ユキユキユキ。ユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキ「ユキ」ユキユキユキユキユキユキユキ「ユキ」ユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキ「ユキ」ユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキ「ユキ」ユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキ「ユキ」ユキユキユキユキユキ――)
※ ※ ※
「ユキ」
風間邸が見えてきた。
「ユキ」
高まる胸を押さえて、家の前まで行こうとすると、ユキが黒スーツを着た背の高い美女と一緒に、邸内から駆け出してきた。
電柱の陰に隠れて様子を見ていると、駅の方角へ向かって走り去っていく。
数秒ほど逡巡したあとに、貢一はユキと黒スーツの美女を追いかける。
「ユキ」
しばらく走って追いかけていると、前方からパトカーが五台も、猛スピードで住宅街を疾走してきて、けたたましくサイレンを鳴らしながら、次々にすれ違っていった。
あまりの勢いにビックリして後方を振り向くと、パトカーは風間邸の前で急停車した。
(……えっ?)
貢一の心臓がドクドクと脈打つ。
怒りで。
(呼んだんだ、ユキ……昼間の警官だけじゃなく、僕一人捕まえるために、あんなに、あんなにたくさんのパトカー……)
それが襲撃したヤクザを逮捕するための警官隊であるとは、貢一はもちろん知る由もない。
「うえ……ひっく……殺してやる……うぇぇ……ぶっ殺してやるぅ……なんだよ、こんなに好きなのに……なんだよ、なんなんだよ……なんなんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
怒号を上げてバッグから包丁を取り出した。
殺人鬼ナイトストーカーと化した貢一の狂気が、ユキたちに襲いかかろうとしていた。
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