第27話 PM8:00―夜襲―

「ただいま」


 貢一は家に帰ると、まず先に二階の母の部屋へ行き、挨拶をした。


「あら、遅かったのね」


 自室でテレビを観ていた母は、時計を見ながら言った。遅い、と言っても、まだ18時半だ。


「ちょっと本屋とか寄ってたから」


 弱々しい声で貢一は喋った後、母の部屋から出て、同じ階の自分の部屋へと向かった。


 ベッドに横になり、ぼんやり天井を見上げる。


(畜生)


 かつてユキに別れを告げられた時、自分としては冗談半分のつもりで、


「家の前で待ったりしてもいい? 君とちょっとだけでも会話したいんだ……」


 と言ったら、


「そんなことされたら、きっと私、悲鳴を上げる」


 とキツい口調で突っぱねられた。


 何もそこまで言わないでもいいじゃないか、と思った。


 だが彼女は本気だったようだ。家の様子を見に行ったとき、中に警察がいた。危うく逮捕されるところだった。


 ユキはこの1ヶ月学校に来ていない。先生に聞いたら体調不良とのことで、心配になった自分は毎日様子を見に行っていた。それだけなのに。電話やメールをひっきりなしにしたのも、家の中に入り込んでいたのも、心の底から心配していたからなのに。


 それを、あの女はストーカー扱いしやがった。


「僕が、どれだけ君のことを愛していたと、思っているんだ!」


 ドン、とベッドを握り拳で叩く。


 彼女が風邪で学校を休んだとき、母が作ってくれた料理を運んであげた。


 彼女が宿題を忘れたとき、こっそり自分のノートを渡してやり、身代わりになってあげた。


 彼女がクラスの馬鹿な連中に父親のことでいじめられていたとき、飛び込んで助けてやった。


(僕だけは君の全てを受け入れられる。そして、君だけが僕のことを愛してくれた。それなのに……)


 部屋のドアをノックする音が聞こえる。


 もう夕飯が出来たのだ。


「貢一、先に下へ行ってるぞ」


 父の声だ。


 今日の夕飯の当番は父。両親は交代で夕飯を作っている。


 二人はとても仲がいい。他の家庭では滅多に見られない、理想の夫婦。父と母は貢一にとって憧れの存在だ。いつの日かユキと幸せな夫婦生活を送りたいと思っていた。


 その夢は、ユキから別れを告げられた瞬間、無残に砕け散ってしまった。


 食事の間も、貢一はそのことばかり考えていた。


 食欲は湧かなかった。しかし母に心配をかけさせたくないし、父がせっかく作ってくれた料理である。平常と変わらぬ態度で、貢一は箸を運んでいた。


「貢一、最近は作品、どう?」


 母に聞かれて、貢一は顔を綻ばせながら、嬉々として語る。


「うん、八割方進んだよ。あと少しで完成する」


 父がビーフシチューの皿から顔を上げ、貢一を見た。


「なんて賞だったかな、あれは」

「やだなあ、父さん。これだよ」


 貢一はテーブルの端に置いてあった案内のチラシを手に取り、父の前へ差し出した。名古屋市主催のそこそこ大きな文学賞だ。


「いきなり入賞なんて無理だろうけど、まずは腕試し」

「まあ、最初は腕試しでもいいだろうが、作家になるんだったら、賞を取れるぐらいにはならないとなあ」


 父が微笑みながら、チラシを返してきた。


「なるよ。賞もいつか取ってみせる」


 強い意志を持った口調で、貢一は断言した。


「金の卵を産むような作家になってみせる。そしたら、母さんや父さんにうんと楽させてやるんだ」

「あら、嬉しい」


 食卓が和やかな笑い声で包まれた。


 食後、貢一は台所で包丁を取り、カバンの中にしまった。


(ユキのいない未来なんて……)


 作家にはなりたい。


 だけど、ユキが自分のそばにいて自分を愛してくれないのなら、作家になったって意味はない。


(大丈夫だよ。文学を志す人間は心に闇を持っているものさ。むしろ人を殺した――くらいの病んだ過去があった方が、箔がつく……)


 フランスで女性を殺して、その肉を食らいながら、普通に表舞台で活躍している作家もいるくらいだ。自分に心の傷を負わせたあの女を殺すことくらい、世間は許してくれるはずだ――と貢一は思っていた。


 かつて小学校に乱入して子どもたちを惨殺した男も、小学生の生首を校門に飾った男も、世間の非難の裏では少数ながら支持者がいた。


(わかる人はわかってくれる)


 ずっと母も父も自分を愛してくれてきた。自分のことを“心の優しい、いい子”だと言ってくれてきた。そんな自分だから、世間はきっと認めてくれる。そんな自分だから、自分を捨てたあの“ビッチ女”が死んでも、あの女の自業自得だと思ってくれる。


 殺せ殺せ殺せ。


 復讐だ。


 侮辱された、引き裂かれた、蔑ろにされた、可哀想な自分の心を救うための、大義ある復讐。


 これ以上心が壊れてしまう前に。


 あの“ビッチ女”の血を、自分の心に捧げるのだ。


 僕はストーカー?


 ただのストーカーではない。


 心に巣くった悪魔に従う、歪んだ狂信者。


 ナイトストーカー。


 ※ ※ ※


「妻の作る料理がねえ、あんまりにも酷いもんですから、いつも私が料理しているんですよ」


 八田は見事な手さばきでフライパンを操っている。ワインを入れた瞬間、ボンと炎が立った。


「お」


 見守っていた二神が小さく声を出した。


「で、結婚当初は二人でかわり番こに夕食を作っていたんですけどね。もうね、妻の料理の不味いこと不味いこと。子どもたちも赤ちゃんのころから拒絶反応を起こしてましたし。妻も料理はそんなに好きじゃないみたいで、とうとう私が全部作るようになったんです」

「夜勤は?」

「え」


 倉瀬の突っ込みに、八田の笑顔が引きつる。


「夜勤の日は飯なんか作っていられないだろ。夜勤の時は家族はどうしているんだ」

「それを私に聞きますか」


 クッ、と八田は泣いたふりをする。


「それは、もう……心穏やかではないですよ。子どもたちが、妻の酷い料理で、どれだけ地獄を見ているのかと思うと……な、涙が止まらない」

「ああ、そうかい」


 別に倉瀬にとってはどうでもいい話だった。


「平和ですね」


 ポツリと二神が呟く。でかい図体に似合わず、寡黙でおとなしい。


「平和だな」


 願わくば、この平和が今日という日が終わるまで続けばいいが――と倉瀬は思う。


 やはりマッドバーナーには現れないでほしい。ユキの安全を考えるならそれが最良の展開だ。


 時刻は夜20時を迎えた。


 マッドバーナーは早ければこの時間から出現する。今までの事件で一番早かった時間が、20時20分。もう警戒を強めていい頃だ。


(これがあの子の嘘だったら、どんなにかいいことか)


 全て茶番であってほしいと思う。どれだけマッドバーナーを逮捕したいと思っていても、一人の少女を危険にさらすくらいだったら、無駄骨折りのほうがどれだけマシか。


 手が震えている。


 5年前の大阪で犠牲になった島谷エリカの、断末魔の泣き叫び声が鮮明に蘇ってくる。


(自分はマッドバーナーを恐れているのか?)


 倉瀬は愕然とした。


 ※ ※ ※


「……?」


 小夜は何かを察知し、窓際に寄った。


 暗い住宅街の路上を、集団で歩いてくる連中がいる。明らかに様子がおかしい。連れ立って歩く、というよりも、徒党を組んで侵攻してくる、といったほうが正しい。

その集団を追い越すように、6台の車が滑り込んできて、邸の前に停まった。


――まずガキをさらうとしよう

――護衛は適当に痛めつけるか

――場合によっちゃ殺すか


 ドスのきいた声音が小夜の脳裏に響いてきた。他にも無数の雑多な声が聞こえてくるが、はっきりと聞こえるのはたったひとつだけ。距離が離れているから、全員分の心までは読めない。


「どういうこと?」


 マッドバーナーを警戒していたら、まったく予期せぬ集団が現れた。


 邸の中に入ってくる。


「ユキちゃんはここに隠れていて。絶対に顔を覗かせないで。いい?」


 窓に寄ろうとしたユキを静止して、小夜は部屋を飛び出した。


 同時に、一階の窓ガラスの割れる音がした。


 ※ ※ ※


「ななな、なんだね、君たちは! 不法侵入で逮捕するぞ!」


 フライパン片手に、手錠をちらつかせながら、八田は裏返った声で脅しをかける。

だが侵入者たちは動じていない。いずれも屈強な男たち。ひとりひとりが総合格闘技の選手のように鍛え抜かれた肉体を持っており、その外観だけで、素人であれば抵抗しようという気が失せてしまうだろう。


「ゴチャゴチャ抜かすな!」

「おら、ガキを出さんかい! 風間ユキとかいうガキじゃ!」


 怒号する暴力集団に、八田は震え上がって、二、三歩後退してしまった。


 仕方なく倉瀬が一歩前に出る。このような連中に押し負けたとあっては、警察の名折れだ。


「お引取り願おうか」

「あんだぁ⁉」

「今日は、大事な仕事があるんだ。帰ってもらいたい」

「ガキを渡せ、ってゆうとるじゃろがぁ!」

「あの子に手を出すのであれば、容赦はしないぞ」


 その時、二階から小夜が下りてきた。


 倉瀬は一瞥し、目線で、(ユキを守れ)と指示を出したが、小夜は無視して、そのまま下まで来てしまった。


「ひゅう」


 ヤクザの一人が口笛を鳴らす。


「たまんねえ。いい女いるじゃねえか。連れ帰って、マワそうぜ、なあ、兄貴、あの女マワしてもい――」


 下卑たことを言うヤクザの顔が、突然飛んできた拳で、ぐしゃりと潰れた。


「えぶぇ⁉ な、なんべ――⁉」


 血を撒き散らしながら、泣き喚くヤクザのこめかみに、高回し蹴りがヒットした。気を失ったヤクザはくにゃりと崩れて、床に倒れ伏す。


「極道たるもの言葉に品位っつうのは必要だよなぁ? 汚ねえ口きいてんじゃねえよ」


 スキンヘッドの男が、ヤクザ者たちを掻き分けて現れた。


「お前は――!」

「よぉ、倉瀬さん。また会ったな」


 冨原は口もとを歪めた。


「私の名前を知っているのか」

「あのとき赤城が叫んでいたじゃねえか。それに、ここへ来る前に調べさせてもらったぜ。つくづく、あんたと俺とは縁が深いようだな」

「こちらとしては、ご免蒙りたい縁だがな」

「すっかり嫌われちまったなぁ。で、爺さん。悪いが、今回は退いて済む話じゃねえんだ。てめぇらが守っている風間ユキを、何としてもさらわせてもらう。下手に抵抗するなよ。抵抗しなければ楽に潰してやるよ」

「潰す、だと? 刑事相手にそのようなことをして、ただで済むと思っているのか」

「クククッ」


 冨原は苦笑した。


 そして突然後ろを振り返って、


「なあ、お前ら!」


 と仲間のヤクザたちに呼びかける。


「お前ら、この爺さんの言うことを聞いたか⁉ 刑事相手に、だってよ! ちゃんちゃらおかしいぜ! 笑え! 笑え!」


 冨原の煽りに応じて、ヤクザたちは一斉に笑う。


「なあ、爺さん。倉瀬の爺さんよ。なんで日本は平和なんだと思う? なんで日本の警察は優秀でいられると思う? なんで日本の警官は殉職率が低いんだと思う?」

「さあな」

「日本が豊かだからだよ。真面目に生きてりゃ食うには困らねえ。だから誰も国家権力に喧嘩売ってまで、裏社会で生きようとは考えねえ。だけどな、渋谷のセンター街あたりで爆弾テロでも起きてみろ。ひっきりなしに各地で暴動が起こってみろ。たちまち日本中大パニックだ。当たり前だ。これまでは誰も暴力を振るわなかっただけ。日本のシステムは暴力を抑え込むには有効じゃねえのさ」

「お前の考えは」

「まあ聞けよ。人の話は最後まで、よ」


 冨原は一歩前に出た。


「例えば、ここに一個の戦闘集団がいる」


 両腕を広げて、暗に自分たちがそうだと言わんばかりに、冨原は体全体で誇示する。


「そいつらは死刑を恐れねえ。法を恐れねえ。恐れるのはただひとつ、カシラの不興を買って殺されることだけだ。だから誰もがカシラに従い、そいつのためなら命をも投げ打つ覚悟で戦いに望む。戦うためなら、国家権力であろうと皆殺しにする。そんな集団」


 冨原は冷たく笑った。


「そんな集団が、いま、お前たちの目の前に現れた。さて、この後どうなるか? 警察手帳を見せればおとなしく引っ込むか? それとも躊躇せずに突っ込んでくるか? どっちだと思う?」


 答えはわかりきっている。


 倉瀬は戦闘態勢に入った。


「ユキを連れて逃げ――!!」


 小夜に怒鳴りつけるのと同時に――


 一足で踏み込んできた冨原の掌底が、倉瀬の額にクリーンヒットした。


 吹き飛んだ倉瀬の体はキッチンの食器棚にぶつかった。


 中の皿がガシャガシャと雪崩落ちてくる。


 そのまま倉瀬は動かなくなった。


「行け。必要だったら殺ってもいいぞ」


 冨原の非常な命令が下され――


 ヤクザたちは雄叫びを上げながら、怒涛の如く邸内に攻め入ってきた。

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