第26話 這い寄る暗闇
夜が近づくにつれて、次第に緊張感が高まってくる。
小夜は、ユキと一緒の部屋にいる。
ひと通り点検はしているが、それでも安心しきれず、二度、三度と室内の隅々まで確認していた。
(このまま何事もなければいい)
そう願う一方で、マッドバーナーが現れることも望んでいる。なんて女だろう、と小夜は自分自身に嫌悪感を抱いていた。
フカフカのカーペットの上で体育座りして、小夜のことを観察していたユキは、おもむろに口を開いた。
「小夜さんの 《死んだ恋人って……》」
「とても柔らかな印象の子だった」
途中まで言いかけたユキの言葉を遮って、小夜は答えた。
「そう 《やっぱり聞いたら悪いかな……》」
「いいわ聞いても」
「あの、女の人を好きになるのって、生まれた時からそうなんですか?」
「よくわからないわ。少なくとも小学生の時が初めてだった。同級生の女の子を好きになったけど、周りを見ていたらどうも私だけ違うんだってことはわかって、特に告白とかしなかった。だから他の人には知られなかったけど、私だけが自分自身のことをよくわかっていた」
「つらいですか?」
「つらいわ」
小夜はユキの方を向いた。
「周りの理解を得られないのがとてもつらい。残酷なのは固定観念。みんな右にならえで、これが常識だと信じているものを押し通そうとする。異なる思想を持った人間が現れると、まず排除しようとする。それが一番楽だから。理解出来ない他人をすべからく否定することで、常識という名の幻想を確固たるものにしようとする、傲慢な考え方――」
そこまで話して小夜は苦笑した。ユキが若干引いている。
「ごめんなさい。つい感情的になった」
「ううん。ちょっとびっくりしただけ。話はとてもよくわかる」
「そう?」
「私のクラスの同級生――ある男の子も、性格悪い男子にいじめられて、こう言ったの。『いちいち突っかかってくんなよ!』って。そしたら、そのいじめっ子が大笑いして、『“いちいち”、ってなんだよ。わけわかんねー』って」
「……? 何がおかしいの? そのいじめっ子が笑った理由がよくわからない」
「そいつ、単に“いちいち”って言葉を知らなかっただけ」
「はぁ?」
「知らないくせに、まるで彼が意味不明な造語を使ったかのように、ギャアギャアと喚いて馬鹿にして。でも、クラスの誰も、そのいじめっ子に指摘しなかった」
「そのいじめっ子は相当怖いの?」
「ううん。そうじゃないみたい。ただ、あんまりいじめっ子が自信たっぷりに馬鹿にするものだから、クラスのみんなも『そうか、“いちいち”って言葉は変な言葉なんだな』って思ったのかも」
「いやな話」
小夜は顔をしかめる。
「で」
ユキは大仰に溜め息をついた。
「そのいじめられていた子が、私が付き合っていた人」
ああ、あのストーカーがそうなのかと、小夜は二神に触れた時に見えた映像を思い返してみるが、あまり鮮明には思い出せない。
「失礼」
小夜はユキの腕に触れた。
「その彼のことを考えてみて」
と指示する。
ユキは素直に目をつむった。
すぐに小夜の脳内に、ユキの考えているイメージが流れ込んでくる。線の細い色白の少年。太い眉毛を情けなく八の字に垂れさせて、今にも泣きそうな顔をしている。
(名前は
文字のイメージも流れ込んでくる。
大体のことはわかり、小夜は手を離した。
「いかにも気が弱そうな男の子ね」
「映像も見えるんですか?」
「触れている時だけ。普段は音声しか聞こえない」
「あ、なんか私と似てる」
「似てる? 私とあなたの能力が?」
「条件によって発揮できる能力が左右される、っていう点で。私の先を読む力にも限界があるし、逆に条件さえ合えば本来持っている以上の効果を発揮することがある。一番すごいのは、これから会うべき人の名前がわかる時」
「名前がわかる?」
「うん。会うべき人の名前が自然と頭の中に浮かんでくるんです。実際にその場所に行くと、頭に浮かんだ名前の人が必ずいます。倉瀬さんにもそれで出会った……でも」
「でも?」
「法則性が読めない」
ユキは力なく首を振った。
「私にとって最良の道は見えます。見える、と言うよりも、自然と考えられる、って言ったほうが正しいかな? でも、例えば目の前にいる人の名前を知りたいと思っても、それがわかるわけじゃない」
「あくまでも最良の未来を選ぶために必要な情報ならわかる、とか?」
「そうかもしれない。彼と、貢一くんと別れたのも、なんとなくそれが正しい道のように思えたから。付き合い始めたのは、私の意志――優しい人だって思ったから、彼の告白を受け入れた。でも」
ユキは座ったまま膝をキュッと抱えた。
「それも本当に私の意志だったんだろうか、って」
「……」
小夜にはなんとも答えられない。
ユキの持っている能力は、どこまでが能力で、どこまでが彼女自身の意思なのか、判断がつきにくい。もしも全ての行動が能力によって導かれたものだとしたら、どんな気分になるだろうか。まるで運命の女神が回している歯車の軌道上で、ひたすら機械的に動かされているような、落ち着かなさを感じることだろう。
「最初は何気なく言ったの。なるべく傷つけないように。そうしたら急に優しかった貢一くんが、見る見るうちに怖い顔になって」
「豹変、したの?」
「あの人の本性かもしれない。泣いたり、怒鳴ったり、狂ったように私に迫ってきた」
「怖かったでしょう」
「もちろん私がいけないんです。本当はもっと酷い女の子になりきって、彼が、『こんな奴どうでもいい』と思えるくらいの別れ方をすれば――そうすれば、諦めてくれたかもしれない」
「それは違うと思う。その手の男は何を言っても無駄。過去しか見ていないもの。過去の幸せだった思い出ばかり掘り返しては、『あの時はあんなに愛してくれたから、きっと気の迷いなんだ』と都合よく解釈して、決して諦めようとしない。男ってそういうものよ」
「だったら、なおのこと別れなければよかった」
「あのねえ。男と女が交際するのはそんなに深く考えるような話じゃないでしょ。本来は。愛が冷めたら、また新しい愛を求める。それは人として当たり前のことじゃない」
「そうですよね。きっと仕方のないことだったんですよね……」
ユキは窓の外を暗い表情で眺めた。ほとんど日は落ちて、外は黒く染まっており、微かな光すら消えようとしている。
「私、馬鹿だったな。彼の告白を受けるべきじゃなかった」
「何を言い出すの」
「彼を好きになった理由は、彼も孤独だったから。私は、親が新興宗教の教祖だから意味もなくいじめられていた。馬鹿にされていた。彼は人とずれた感性を持っているから、それでいじめられていた。彼には確かに親近感を抱いていた。でもそれは恋なんかじゃなかった」
やがて日は完全に暮れ、外は闇に包まれた。
夜の六時を過ぎていた。
※ ※ ※
神領駅前に、黒塗りの車が六台停車している。
改札を出た地元の住人たちは、通り過ぎ去りながら、不審の目でそれらの車群を眺めている。
一番先頭の一台から、スキンヘッドの男が降りてきた。
その隣にパンチパーマの男。
二人ともどこからどう見ても堅気の風貌ではない。
それもそのはず、彼らは広域指定暴力団堂坂組の直系幹部であり、その筋の者であれば名前を聞いただけで震え上がる殺戮の突撃部隊、通称『悪獣』と呼ばれる面々なのである。
スキンヘッドの男は『悪獣』のリーダー格、冨原市朗だ。
「昔な。穴隈」
「へえ」
パンチパーマのヤクザ穴隈は、ライターを出して冨原の煙草に火をつけながら、軽く頭を下げる。
「俺の親父は山門衆の一人だったんだよ。知ってるか? 山門衆」
「兄貴がよく話しているじゃないですか。あれでしょう、少林寺拳法の本山で宗道臣のボディガードをやってたっていう、強い連中でしょう」
「で、倉瀬って奴が山門衆の同僚でいたんだよ」
「そいつがどうかしたんですかい?」
「オヤジは狂犬みてえな男だった。ヤクザや暴走族相手に見境なく喧嘩売っては暴れ回っていたそうだ。ところが、同僚の倉瀬は、そんなオヤジのことを兄弟子たちにチクったんだよ」
「そんで? どうなったんです?」
「オヤジは呼び出された。で、話がこじれた結果、あろうことか宗道臣に殴りかかったんだと」
「トップ相手に無茶やりますね」
「とにかく見事に負けたらしくてな。破門になって山を追い出された」
冨原は煙草の煙を盛大に吐き出す。
「だけどな」
「へえ」
「オヤジは宗道臣に組み伏せられながら、歯の折れた口でずっと喚いていたんだとよ。『究極の理法を修めつつそれを振るわないことは、力に対する侮辱でしかねえ』と」
「つまり?」
「ちゃんと説明しないとわからねえか」
ククッ、と冨原は嘲笑った。
「この世界を制するのは力だ。だから力を持っているやつらはためらっちゃいけねえ。たとえ女子供であろうと、ぶっ殺すときはぶっ殺す」
「はあ」
「あの時、さ」
「は?」
「情報屋の赤城を脅しに行った時、いきなり爺さんが現れただろ? で、赤城の野郎、なんて叫んでたよ? 『倉瀬さん、助けてくれえ!』だよな。あの爺さん、てめえの名前を言うの嫌がってたけどよ。俺ァ、ちゃんと赤城のセリフを聞き逃してなかったぜ」
「あっ! もしかして、さっきの話の倉瀬って――」
「で、だ。俺たちがこれから先向かう場所で、例の女の護衛をやってるのが、また倉瀬って名前の定年間際の刑事なんだよ」
「そんなら、その護衛の刑事ってのは、この間赤城を助けた爺さんで、さらに兄貴のオヤジさんを追放させた奴の――」
「最後のところは俺の邪推かもしれねえがな。もしドンピシャだったら楽しいじゃねえか。親の因果が何とやら。江戸の怨みを長崎で、ってやつだ」
クククと笑いながら、冨原は車に乗り込む。
パンチパーマのヤクザ穴隈も続けて運転席に乗り込んだ。
「さァて――ぼちぼち行くぞ。風間清澄の邸に、よ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます