第11話 倉瀬泰助

 ―2008年11月24日―

 ~東京~


 老刑事倉瀬泰助は、ここ最近、頻繁に連続殺人鬼マッドバーナーの夢を見ている。


 彼は、今まさに焼かれようとしている女性を助けようと、全速力で走っている。目の前でマッドバーナーは火炎放射器を構える。腰を抜かした女性は逃げられない。走りながら拳銃を構えて何発も連射するがマッドバーナーには当たらない。おまけに走っても走っても相手のそばに近寄れない。高速で動くランニングマシーンの上をひたすら走り続けているような、徒労感だけを伴う運動。


「やめろ!」


 叫び声は殺人鬼の心には届かない。


 マッドバーナーは引き金を引く。銃口から炎が噴き出す。


 耳をつんざかんばかりの悲鳴。頭の中に入り込んでくる悲痛な叫び。


「助け――誰か――ぎゃあああああああ」


 燃やされて泣きながら転げまわる女に追い討ちをかけるように、マッドバーナーはさらなる炎を浴びせかけた。


 もはや言語として成立していない声を張り上げて、火だるまになった女性はもがき苦しみながら絶命した。


「おおおおおおおおお!!」


 自分の叫び声で、目が覚める。


 数回深呼吸をして、自宅の布団で横になっていることを思い返し、安心して額の汗を拭った。


 木造の天井をぼんやりと眺める。


「おはようございます」


 横から声をかけられた。


 妻の静江はすでに起きていて、縁側に通じる窓ガラスを雑巾拭きしている。障子紙が置いてあるので部屋の障子の張り替えも行うつもりらしい。


(正月はまだなのに、気が早いな)


 と思いつつ、枕もとの置時計をふと見ると、時刻はまだ朝六時。倉瀬にとってはいつも通りの起床時刻だが、静江はいつも寝ている時間だ。


「起こしたかな、静江」


 仰向けに寝たまま静江に尋ねる。


「いえ」


 それだけ静江は答えた。


 そのたった二文字の回答に万感が込められている。悪夢を見た後には、静かな言葉は耳に優しい。静江の細やかな配慮にしつつ、倉瀬は上体を起こした。


「助かる。おかげで気が落ち着いた」


 もそもそと動いて掛け布団を横にどかし、もう一度仰向けに寝転がると、腰を右、左とねじる。まず起きたばかりの眠っている体に刺激を与える。倉瀬の日課である。これをやらないと、不思議なことに一日中調子が悪い。


「今日は遅くなりますか?」


 きゅっ、と雑巾を絞り、バケツの中にパチャパチャ水を落としている。静江の水作業が、炎の悪夢を見た直後の倉瀬にとっては実に心地よい。


「あなた?」


 心配そうに顔を覗き込む静江に、倉瀬は黙って首を縦に振った。


「遅くなりそうだ。今日はちょうど11月24日。クリスマスイブの一ヶ月前だからな。奴の対策会議が開かれる」

「ご無理だけはなさらないでくださいね」

「わかっているさ。私だって来年の1月には還暦なんだ。定年間近でもう無茶はせんよ」


 倉瀬は嘘をついた。


 定年退職を間もなく控えているからこそ、ずっと警察を悩ませてきている殺人鬼マッドバーナーを、次の殺人が起こる前に確保したかった。


(私の目の前で、犠牲者を出してしまった)


 ずっと後悔している。


 5年前、まだ世間にマッドバーナーの存在が認知されていなかった頃、倉瀬は敵を確保寸前まで追い込んだことがある。


 実は同様の事件は13年前から毎年発生している。報道関係者もそこまでは気が付いてはいない。ただ、地下鉄サリン事件や、911の航空機テロなど、前代未聞のより大きな事件が断続的に発生していたこともあり、あまり注目されていないだけで、毎年1人、クリスマスイブに誰かしら焼き殺されている。


 一連の殺人事件が全て同じ犯人によるものと断定されたのは7年前のこと。


 そして6年前に世田谷でマッドバーナーの姿が目撃され、警察は自分たちの追っている犯人が常軌を逸した異常殺人者であるということを改めて認識させられた。


 そのため公開捜査に踏み切った。それまでに犯人を野放しにしむざむざと人を焼き殺されてきたとなると警察の威信に関わるのだが、もはや面子やプライドの問題ではなくなっている。どんな手段を使ってでも犯人を捕まえなければ被害は広がるばかりである。


 かつてない大捜査網だった。


 倉瀬は若い頃少林寺拳法の関係で懇意になった裏社会の人間を密かに訪ね、警察による繁華街の抜き打ち捜索の情報と引き換えに、マッドバーナーに関する情報をひたすら集めるよう依頼した。


 翌年の11月下旬。蛇の道は蛇――ある組から、有益な情報提供があった。


「焼殺犯は次に大阪で誰かを焼き殺すらしい」


 情報の出所は不明だった。


 いくら顔の広い裏社会の人間とはいえ、どうしてマッドバーナーが次に殺しを行う場所がわかるのか、それも不明だった。


 情報提供者は語った。


「刑事さん。悪いことは言わねえ、やめた方がいいぜ。俺はこの世界に足を踏み入れてから4年くらいだが、それでも十分、闇の世界のことはわかっている。普通、殺人鬼ってのは隠れながら人を殺すもんだ。だが、あいつは堂々と表に出て人を殺している。俺にはわかるね。あいつは――裏社会とつながりがある。それもとてつもなく巨大な組織と、だ。あんまり首突っ込んでもろくなことないぜ」


 無論、倉瀬にはわかっていた。


 これだけ派手に人を焼き殺していながら、いまだ正体すら判明していない殺人鬼。そんな犯人が何の後ろ盾もなく活動しているとは思えない。表社会であろうと裏社会であろうと、社会的に力のある協力者が必ずマッドバーナーの背後にいる。


 しかし、それは別の問題で、マッドバーナーを捕まえてから吐き出させればいい話である。余計なことは考えず、倉瀬は捜査に集中することにした。


 さっそく情報を捜査本部に提出した。入手方法とその信憑性については、長年の経験で培われた舌先三寸で、上手く誤魔化してしまった。そして世田谷で起きた殺人事件の捜査担当として、大阪府警察に協力すべく、12月に入ってからすぐ大阪へと飛んでいった。


 府警は大阪府内全域に厳重な警備体制を敷いていた。パニックを恐れるのと、情報に対していまだ確信が持てなかったこともあり、大阪府民の誰かが次のターゲットであることは伏せたままでいた。が、どこかで不審な人物が現れればすぐに連絡が行き渡るよう、蟻の子一匹逃さない警備網であった。


 それでもマッドバーナーの凶行を止められなかった。


 しかも運の悪いことに、よりによって倉瀬の目の前で。


(あと数ヶ月で定年だ。再雇用を受けてまでお前を追う体力はない。必ず捕まえて裁判を受けさせてやる)


 静江の作った一汁一菜の質素な朝ごはんを食しながら、ひたすらそんなことを考えている。


 悪魔には相応の裁きを。


 とても自分たちと同じ人間とは思えない、狂気の殺人鬼マッドバーナー。どんな狂った人間が罪もない人たちを焼き続けているのか。いずれにせよ、たとえ気の狂った人間であろうと、罪は罪だ。倉瀬は一切容赦する気はない。多少怪我を負わせたとしても、必ず生け捕りにして自分のしてきた悪事を反省させてやる――と鼻息荒くご飯をかき込みながら、心の中で息巻いていた。


「ごちそうさま」


 食べ終わった後、倉瀬は両手を合わせてお辞儀をする。


 くすりと静江は微笑んだ。


「なんだ。何かおかしいか?」

「いえ。あなたって、いつも食べているときはガツガツと乱暴なのに、食べる前と食べ終わるときは、とても丁寧に挨拶しますから。改めて感心していたのです」

「当たり前のことだ。ご飯を食べる前は、『いただきます』。食べ終わった後は、『ごちそうさま』。そして、もうひとつ忘れてはならないのは」

「はい」

「残さず全部食べる、ということだよ。自分が作ろうが他人が作ろうが、出てきたものは全部食べる。それが食べ物に対する礼儀ってもんだろう?」

「その通りです。いつも綺麗に食べてくれて嬉しいです」

「急に変だな。何かあったのか?」

「わかりません。ただ、この幸せを噛み締めたくって……」

「……」


 静江は気が付いている。自分が定年を前にして、たとえ命を落とすことになろうとも、せめてマッドバーナーの凶行を食い止めようと躍起になっていることに。


 倉瀬は、静江に聞こえるか聞こえないか、の小さな声で、


「すまない」


 と呟いた。


 邸内の廊下を歩く倉瀬の後ろ、静江は黙ってついてくる。板張りの床をドスドスと踏み鳴らしながら歩く倉瀬とは対称的に、静江は音も立てずに摺り足でするすると進んでいく。


 廊下から見える庭園を見渡しながら、定年退職後はのんびりと庭造りでも趣味にしようか、と倉瀬は考えた。


 静江と肩を並べて、枝を切ったり土をいじったり。ここ数年の激務から離れて、ホッと一息ついた自分に訪れる、安息の瞬間を空想する。無事マッドバーナーとの戦いに勝利したらそうやって晩年を過ごそう。


 捕まえられなかったら?


 その時はその時だ、と倉瀬は考えている。


「いってらっしゃいませ」


 玄関で見送るときに、静江は火打石をカチカチと鳴らした。


「行ってくる」


 妻の気遣いがひとつひとつ嬉しかった。倉瀬は顔が綻びそうになるのを抑えながら、わざと渋面を作り、ハンチング帽を目深に被る。こんな最高の妻と一生を共にすることができ、本当に自分は幸せだと、倉瀬は心の底から思った。


 全ての決着がついたらもっと妻を大事にしよう。


 その時こそ思い切り妻と笑い合おう。


 そう心に決めていた。

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