第7話 VIPルーム
海城飯店を出た後、俺とリーファは夜になるまで二人で中華街を巡っていた。そして夕飯も中華街で食べた後、リーファの部下の車で、新山下のダンスクラブまで直接向かった。
クラブの中から、ベイサイドに響き渡るほどの大音響が漏れている。踊るのは久々なのか、リーファは喜色満面の様子で、
「早く行くわよ」
と俺の手をグイグイと引っ張った。
「……ああ」
俺は後ろの方に神経を集中させていたから、生返事を返した。
何者かが先ほどから俺たちの後をつけてきている。ヤクザか、警察か。願わくば前者であってほしい。争い事は御免だが、警察に追われるより遥かにマシだ。
「気にしては駄目よ。あいつらは堂坂組の構成員。人が大勢いる所まで行けば、どうせ手出しは出来ないわ」
「知っていたのか」
後ろをうっかり見ないよう、前にだけ顔を向けたまま、俺は横目でリーファを見た。
「当たり前でしょう。これくらい気が付かなかったら、ダークサイドでは生きてけないわ」
クラブの入り口に、黒いタンクトップを着た筋肉質な男が立っている。髪を短く刈り上げ、目つきは鋭く、堅気だとしても見るからにまともじゃない。店番と言うより門番だ。
堅気の集まる店、とリーファは言っていたが、本当にそうなのか怪しく思えてきた。
「おい、リーファ」
話が違う、と文句を言うため、彼女を睨みつける。
「そんな目しないでよ。“集まるのは”堅気よ」
その意味するところを察した俺は、いっそ何も言わず引き返そうかと思ったが、堂坂組の尾行がついていることを知りながら彼女を独りにするのも気が引けて、結局足は前へと進んでいってしまった。
「ハーイ、リャン」
男はリャンという名前らしい。厳めしい面を崩さないまま、静かに頭を下げた。この男に入場料を払うのかと思い、財布から札を出そうとすると、
「いいのよ。私と、私の連れは、タダ」
とリーファに止められ、俺は財布を尻ポケットにしまった。
何も支払うことなく、俺とリーファはクラブの中へと入っていく。入ってすぐエントランスとなっており、左右に備え付けられたソファに若い男女が五、六名腰かけてくつろいでいる。
正面の奥に、防音性で分厚い、毒々しい赤色をした開き扉がある。あの奥がフロアになっているのだろう。
エントランスから左右へ伸び上がるように階段があり、その右手の階段へとリーファは上っていく。階段を上りきった所に黒服の男が立っていることから、あちらはVIP専用のフロアであることが窺える。
階段上の男も、リーファの顔を見ると無言で脇にどいて、彼女を自然に通過させた。
「顔パスか。やはり組織が経営母体か?」
「近からずとも遠からず。ま、細かい話をしてもしょうがないでしょう?」
たしかに。
わざわざ聞いたところで俺が何か得するわけでもない。
それに組織の情報は極力耳に入らないようにしている。いくらトップが俺の義父とはいえ、余計なことまで知れば容赦なく粛清されるであろうことは目に見えている。
「わかった、聞かないでおこう。だが本当にまともなクラブなんだろうな?」
「アキラ、前に言ったわね。ファイトクラブとか殺人ホステルとか、そういうのは勘弁だ、って」
「ああ」
「映画の見過ぎ」
「誰も闇社会については教えてくれないだろ。俺はただの殺人者であって、マフィアの構成員じゃない。その世界から身を守るために、たとえ作り話であったとしても、それぐらいしか情報を仕入れる術を知らない」
「じゃあ改めて教えてあげるけれど、表と闇は表裏一体。何をもって堅気か堅気じゃないかを判断するかは、実は非常に曖昧な境界線で区切られているものなの」
「ああ、小さい頃から耳が痛くなるほど教えられてきた」
「その割には本質を理解していないわね。いい? 例えば、今から入るダンスクラブで法的に危ない薬の売買をしているとするわ。そのことを全く知らずに、フロアで踊っている若者たちがいる。二つを隔てるのは壁一枚。じゃあ、踊っている若者たちは堅気ではない、と言えるかしら?」
「そんなことはないだろう」
「でしょう? つまりは、認識するかしないかの違い。そこに闇があるか光があるかなんていうのは大した問題ではないのよ。むしろ、光が差せば闇が生まれる。光の無いところに闇は無いわ。私たちの生きている世界は、そういうところなの。明白了嗎?(わかった?)」
「要するに表面上は堅気が集まる店だと、そう言いたいわけなんだな」
「そういうことよ」
二階を進んでいくと、廊下の突き当たりに防音扉が現れた。青い扉だ。その前に立っているサングラスをかけた黒服の男が、何も言わず、ミチミチと音を立てて分厚い扉を開き、俺たちを部屋の中へと招き入れてくれた。
扉が開いた瞬間、重低音のドラムン・ベースがさらに巨大な音の奔流と化して、俺の体を包み込んでくる。明滅を繰り返すミラーボールの色とりどりな光が、室内を刺激的に照らしている。
そこはVIPルームだった。
一階のフロアがガラス張りの窓から一望の下に出来る。ただ踊るようなスペースはない。特別待遇の者が、ここで踊り狂う若者たちを観察しながら、優雅に酒を飲んで時間を潰すような、そんな部屋。
踊りたいリーファには物足りない場所と言える。
「踊らなくていいのか? ここでは酒を飲むくらいしか出来ないぞ」
「今はいいの。あとで思う存分躍らせてもらうわ。それより、ほら」
リーファの指差す方向を見ると、今まさに、フロアの真ん中で二つの勢力が睨み合い、一触即発の空気を醸し出している。一見喧嘩に見えるが、あれこそがダンスバトルの醍醐味だ。まるでギャング同士の抗争のような雰囲気の中、ストリート形式のバトルを行わせる。
しかも今回は一般客に囲まれたフロアの中央で戦わせるようで、ステージには上がらせていない。粋な計らいだ。この野趣溢れる演出には、ざわざわと血が騒いでくる。
「あのニット帽を被っているのが、横浜チーム『Crusades』のリーダー、ニッチ」
「ニット帽だから、ニッチか?」
「違うわ、新田くんだから、ニッチ」
「ネーミングセンスないな」
「そう? かっこよくもないけど、普通じゃない?」
「俺は認めない」
そう言ってから、自分がなんで、「ネーミングセンスない」などとクサしたのか、その理由がわかって思わず苦笑した。いつも妻から、「店の名前がダサい」と馬鹿にされている、その意趣返しだったようだ。無関係な新田君にとってはいい迷惑だろうが。
「それから、あっちが名古屋チーム『H.A.L.E.S』のリーダー、ファティマ」
色黒肌のスレンダーな体系の美女が、ニッチと正面から睨み合っている。ほとんどキスせんばかりの距離で、お互いに顔を近づけてガンを飛ばし合っている様子は、もはやダンス勝負とは思えない凄みがある。
「ファティマ? アラブ系か?」
「日本人よ。本名は忘れちゃったけど。実はけっこういいところのお嬢さんみたい。でも綺麗でしょ。カラーコンタクトらしいけど、あのブルーの瞳が特に――」
そこでリーファは口を閉ざす。
何事か考えて沈黙した後、おもむろに口を開いた。
「アキラ。あの子、好み?」
ファティマは、体にぴったりフィットした白いボトムシャツに、黒のデニムという地味な服装だが、その鍛え上げられて洗練された肉体から並々ならぬ風格を漂わせている。
横浜チームの新田くん――ニッチよりは、ファティマの方が俺好みだ。ニッチはガタイが良すぎる。筋肉ムキムキの奴がパワフルに動くのを見るよりも、無駄なく鍛え上げられた肉体でスピーディーに動く奴を見る方が、遥かに面白い。
「興味はある」
「だめよ、いい女だからって。惚れたりしたら」
冷たくリーファは言い放つ。
「惚れてはいない」
「本当に? 奥さん泣かせたりしないでしょうね。昔、誰かさんの心をズタズタに引き裂いたように」
その物言いに棘がある。「奥さん」という言葉を口にした時は特に、暗い響きが込められていた。
俺はリーファの横顔を見つめた。何を考えているのか、階下を見続けている彼女の目つきは険しい。かつてお互い恋人同士だった頃のことを思い返しているのか。
オオオオオ。
歓声が上がる。
ついに、リーダー同士がお互いの拳を叩きつけ合い、左右に分かれた。入れ違いに、それぞれの仲間が一人ずつ、前へと進み出る。
ダンスバトルが始まった。
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