第2話 ピース・レジャー
「でも、人を殺すのは悪いことなんだよね、人間社会では」
「言われなくてもわかっているし、今まさにケーキを出してお祝いしようとしているお前が言うな」
「正しいこと言ってるのに?」
「言行に不一致が見られる」
「なによ、難しい言葉使っちゃって。ゲンコーにフイッチ? 意味わかんない」
「もういい、食べるぞ」
「はあい、いただきまーす」
妻は、胸焼けのしそうなケーキを美味しそうに頬張っている。俺は二口、三口食べただけで、予想以上に甘ったるいケーキの味に、早くもギブアップ宣言をしたい気分だった。だが、「残しません」のポリシーが、嫌がる俺の手を無理やり動かし、ケーキの“処理”を続行させる。
甘いものは嫌いではないが、妻の病的なまでの“甘いもの好き”を前にすると辟易してしまう。
これはもう、ほとんど拷問だ。
「で、仕事はどう?」
妻が話しかけてきたので、多少ホッとした。これで気は紛れる。
「やはり三十歳の壁ってのはあるな。火炎放射器を構えると腰に響く。警察が俺を退治するよりも先に、体のガタのせいで、自然と死んでしまうような気がする」
「ご愁傷様。でも、私が聞きたいのは、本業の方」
ああ、そうか。「仕事」とは、本当に仕事の話か。
「店か。店は……まあ、ぼちぼち」
「マスターがいないと生ジュースも美味しくない、って常連の子が言ってたよ」
「勘弁してくれ。人を殺すのに、準備で手を抜くわけにはいかないだろ。誰かに店を任せないと……」
俺の本業とは、喫茶店の経営のことだ。
東京の大学を卒業した俺は、そのまま故郷金沢に戻り、香林坊の「109」裏にある雑居ビルで、ちっぽけな喫茶店を開いた。店の名前は、「ピース・レジャー」。学生時代に観たアメコミ映画で、印象的なヴィラン(悪党)を演じた、夭逝の俳優の名前をちょっとだけもじった。
――センス悪いなあ
結婚した後、妻は俺の店の名前を聞いて、容赦ない一言を叩きつけてきたものだ。今でも、店名を変えろとことあるごとに話を振ってくる。
こうやってケーキを食べているときでも、
「あの店さ、改名しない?」
と、何度聞いたかわからないセリフを、またも考えなしにぶつけてきた。
「前々から聞きたかったが、なんで、そう思うんだ」
「元ネタになった俳優さんが可哀相だから」
「好きなのか、あの俳優」
「『コールドうんちゃら』いう映画を観たことあるけど、まあまあ、かな? そこまで大ファンってわけじゃないよ。キミの観たっていうアメコミ映画は、まだ観てないし」
「あれこそ観ろ。今世紀最高のアクション映画だ」
「まだ“今世紀”は九十年近く残ってるよ。いいの? そんな太鼓判押して」
「そこまで深い意味で言ったわけじゃない。忘れろ」
「あ、そ……でさ、話戻すけど。改名しなよ。なんかバチ当たりそうだし。店まで早死にしちゃうよ」
「じゃあ、候補はあるのか?」
俺は飲みかけの紅茶をグイと一気に飲み干し、コースターに静かに置くと、まっすぐ彼女の目を見た。
「例えばぁ……『メラメラバースト』ってのはどう?」
「却下」
「どうして?」
「どう聞いても、『俺がマッドバーナーです』とわざわざ宣伝しているような名前じゃないか」
「大丈夫だよ。誰もあんなオンボロ喫茶店のマスターと怪人マッドバーナーを結びつけない、って」
「そう思えるお前は幸せ者だな。大体、武蔵ヶ辻に似たような名前の喫茶店があったぞ。ただのパクリじゃないか」
妻の顔に動揺が走る。やっぱり。店の名前は忘れたが、絶対にあの喫茶店の名前から連想したに違いない。
「だったら、『炎の喫茶店』とかどう!? ちょっと暑苦しい感じだけど、なんか、炎、ってつけると何でも美味しそうに聞こえるじゃない! 『炎の料理人』とか、『炎のカレーライス』とか」
「却下。意味がわからないし、第一、俺の正体を連想させるような店名をなぜわざわざ考えつく。おちょくっているのか?」
「えー、まじめだよ」
「だとしたら、お前のほうがセンス皆無だな」
俺はそっぽを向いた。
妻がなんと言おうと、雑居ビルの地下にひっそり佇む静かな俺の城を、城主である俺自身はかなり気に入っている。あそこは俺だけの世界であり、外界の煩わしいことは一切混じってこない、特別な空間である。だから、部外者である妻には、あまり店に関して口出しをしないでほしかった。
「やだ、怒った?」
突然、背後から妻の声が聞こえてきた。
いつ回りこんだのか。
妻は、椅子に座っている俺の後ろから腕を回して、シャツの中に手を滑り込ませてきた。
ひんやりした指先が、胸板をくすぐる。
「俺の店だ」
「ごめんごめん、口出ししないでほしいんだよね」
「わかっているなら、言わなきゃいい」
「だって……二日間もキミがいなくて、寂しかったんだぞ」
突然、妻は俺の首を強引に回し、無理やり口づけしてきた。俺の体の上に乗りかかりながら貪るようにキスをしてくる妻は、興奮しているのか鼻息荒く、目も潤んでいる。
(まずい)
たまに二晩くらい家を空けると、すぐこれだ。いつも妻は貪欲の化身と化して、くたびれている俺にお構いもせず、「相手して」と迫ってくる。それが堪らない男もいるだろうが、今年三十歳を迎えて体力も落ちてきている俺には、彼女の全てを受け入れている余裕などない。
今は、昼の13時。この時間から妻を満足させるように相手していたら、間違いなく魂まで搾り取られてしまう。
命の危険を(わりと本気で)感じたその時。
携帯電話が震えた。
「すまん、どいてくれ」
「わっ」
妻を押しのけて、机の上に置いた電話を見てみると、ピース・レジャーの店番をしているバイトの女の子からのメールだった。
液晶に、“美鈴伊咲”と表示されている。
「もぉ、盛り上がってたのに」
乱れたポニーテールの髪を直しながら、妻は頬を膨らませた。
俺はバイトの女の子伊咲ちゃんに、心の中で感謝の言葉を捧げていた。彼女は命の恩人だ。
「誰から? なんなの?」
「伊咲ちゃんだ。店に早く来てほしい、と。そろそろ今日のシフトが終わる時間だから、俺にバトンタッチしたいんだろ」
「まさか、私とイチャイチャしてるの知ってて、嫉妬してるんじゃ」
「馬鹿言え」
「でも私知ってるよ。あの子、キミのことが好きらしいよ。他のバイトの男の子がそんな話してたし」
「くだらない」
勝手なゴシップには付き合ってられない。俺は自転車のキーを壁掛けキーホルダーから取り外した。荷物は持たない。昨日は耐火スーツに、火炎放射器、予備の燃料と、ゴテゴテの大荷物を抱えて動き回ったのだ。今日くらいは自分にエコロジーに、身軽な格好で外出したい。
「もう、待ってよぉ」
妻は慌てて、玄関口に向かう俺の後を追いかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます