ニマさん

「康くん!」

 俺は康くんの肩を掴み、気を失っている彼に声を掛ける。頭からの出血が酷く、見るからに大怪我だと分かる。

 部下からの連絡で確保したはずの敵の暴力団員が逃げ出したなんていうから、一旦引き返してみたら康くんは倒れてるし、何かバール持ったゴミは来るし。仲間が半数捕まったっていうのに、無駄な悪あがきしやがって。

 床に倒れているゴミを一瞥する。馬鹿みたいに叩かれている玄関を開けたら、バールを持ったそのゴミが立っていた。襲いかかるゴミと闘ったが、一瞬の隙をつかれて身体を二、三度重めに殴られ、蹲ってしまった。

 身体を引きずるようにして康くんの所に向かったが、ベッドの上で康くんは倒れていて……。とりあえず最後の力を振り絞ってゴミはボコしたが、康くんの目は覚めないままだ。

「お願い、起きて」

君の味方になるって言ったのに……君は、記憶喪失前から忘れていたけれど、俺は……。ひとまず康くんの出血を少しでも止めようと、掌で頭の傷口を圧迫する。指の隙間から赤い液体が溢れ、康くんの命を取りこぼしているようで不甲斐なさが身に染みる。

「仁摩、さん」

 上手くいかない処置に苛立っていたら、康くんのか細い声が聞こえた。顔を見ると、目を細く開けて、俺の方を光が乏しい瞳で見つめていた。

「康くん話すな。今から処置を」

「仁摩さん、僕を、本当に、守ってくれていたんですね」

 康くんが力なく笑って、殆ど吐息の言葉を紡ぐ。

「だから話すなって」

「僕ね、仁摩さんを疑っていたんです。僕は優しい貴方を、記憶を無くす前も、無くした後も、疑って、申し訳ないです」

「そんな事……って、今、記憶無くす前って……」

 俺は、真紅に染まった康くんの顔を見る。穏やかな、笑顔だった。記憶が、戻った? どこまで? 

 俺がそれを言う前に、康くんはもう一度言葉を紡ぐ。

「仁摩さんの笑顔も、怖いって思ってしまったんですよ」

「……そんなの」

「本当は僕を安心させるために、していた事だったんでしょう?」

「え?」

「仁摩さんは僕の味方、ですから」

口角を柔く上げ、無垢に微笑む姿は、昔の思い出を想起させる。

 暴力団組長の息子という立場は、奇異な目を向けられる。それは齢十七歳の高校生でも。毎日実力を過信した不良に喧嘩をふっかけられ、学校では無視される。おまけに俺は笑顔を作るのが下手で、子供に笑いかけたら泣き叫ばれる程だ。

 そんな中、当時五歳の康くんだけは泣かなかった。それどころか公園で喧嘩した後、返り血だらけで休んでいる俺に、心配そうに近づいてきた。俺が大怪我をしていると思ったらしく、大丈夫かと、康くんは何度も尋ねた。

 やさぐれていた俺は鬱陶しく思い、不気味だと評判の笑顔で追っ払おうとしたら、お兄ちゃんが楽しそうに笑えてるなら大丈夫だね、と康くんは無邪気に笑っていた。普段組以外の連中に冷遇されている俺は、康くんに肝を抜かれた。

 それから公園で喧嘩して、休んでいる時は度々康くんと会った。奇妙な子供と認識した俺は避けていたが、遠慮なく迫る康くんに、俺は避ける事すら億劫になった。俺は、あの時康くんと会う事が嬉しかったんだと思う。だって、本当に迷惑なら休憩場所を変えればいいから。

 その内、康くんのお母さんと出会った。康くんの帰りが遅いから迎えに来たお母さんは、穏やかで優しい人だった。俺の素性は知っているにも関わらず、康くんとの仲を見守ってくれていた。時には、昼飯をご馳走してくれる事もあった。柔らかな日差しの昼下がりに、康くんの家で食べたオムレツの味を今でも覚えている。

 二人のおかげで、荒んだ心が洗われた。いつか、恩返しがしたい。そう思うのは必然だったけれど……程なくして二人は夜逃げした。

 調べると、康くんのお父さんが莫大な借金を押しつけて失踪した事が原因だった。俺は二人を助けたいと考えたが、夜逃げした原因を調べるのに二年ぐらいかかったし、二人は何処にいるかまでわからない。組の中で何の地位も立場もついてない俺は無力で、組長は抗争をしない主義だから、敵勢力の暴力団を鎮圧しようという働きは特になかった。

 絶対に二人を助ける。そう決意してから、がむしゃらにシノギを削り、若頭という地位で自営業のキャバクラを立ち上げるには十年ほどの月日を有した。組長が引退したら次期組長になるが、場合によってはあの二人の捜索を優先するつもりだ。若頭でも、二人を見つける事なんて容易いはずだと思ったから。

 そんな事を考えていた二年後、十七歳になった彼が、俺の店の面接を受けに来た。でも、彼は俺の事を忘れて、俺の笑顔を気味悪がっていた。

 優しく接したけれど、俺だと限界があるようで、康くんを助けようにも彼は俺を避け続けた。だから、自ら……。店の電話口から声を聞いた時、止める言葉が出て来なかった過去の俺を殴りたい。   

 ここまで来ると敵勢力の暴力団を、根絶やしにしないと気が済まなかった。組長には内密で康くんを守る為に作った地下シェルターに匿い、数人の部下を連れてゴミを綺麗にする為に奔走した、けど……結局、傷つけてしまった。

 記憶を戻すように治療した方が良かっただろうか。康くんが入院していたところの医者が、記憶は刺激させるのが良いと言われたから、康くんの私物を出来るだけ回収して収納スペースに詰め込んだのだ。康くんは記憶を戻したがってたけど、そうなったら俺を怖がってしまうかもしれない事が怖くて、小さい頃の楽しい思い出がない記憶なのが嫌で、先延ばしにしてしまった。

「仁摩さん」

「どうした? 何?」

 康くんが囁くように僕の名前を呼んだ。前のめりになる僕に、康くんは無垢な笑顔のまま、途切れ途切れにこう言った。

「怪我治ったら、オムレツ食べたいです……できたら、遺影……あるかどうか分からないけれど、母さんも一緒に」

「へ?」

「だから……泣かないで、下さい」

 あまりの稚拙な物言いに、僕は笑いそうになった。全く君って奴は本当に……。頬に伝う涙の存在なんて、今気づいたよ。俺は、口角を上げて康くんに言った。

「忘れないでね、もう」

「はい」

 康くんはもう僕の笑顔を見ても、怖がらなかった。逆に小さい頃の純粋で、何者にも穢れていない笑顔を僕に向け、安心したように眠った。呼吸は安定しており、傷口からは感触が淡白な液体を流れているものの、頬には赤みがさしている。

 玄関の方が、騒がしい。俺に情報を送った仲間が、やっと着いたんだろう……罰として、ゴミの処分はアイツらに任せよう。

 罰は甘いかもしれないが、今はそれよりもやっと訪れた平穏を噛み締めたい。傍に穏やかな顔で横たわっている康くんの、赤い塊が所々にこびりついた頭を撫でた。

「俺は、君の味方だからね」


 これからも、ずっと。

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純愛の箱庭 @anything

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