記憶

 僕が立っている目の前で、女性が数人の男に囲まれて暴力を振るわれている。

 顔はボヤけていて見えないが、女性は蹂躙され続けており、痛々しい光景であることは明らかだ。大小の痣が出来ている身体を捩らせ、男の足下から逃げようともがいているが、それすらも男達は楽しんでいるようで、拳を振るう手は止まない。

『こちとら慈善事業じゃねえんだぞクソアマぁ!』

『ハハっ、ゴキブリみたいな生命力だなぁおい!』

 反響する汚い言葉に全身が打ち震え、今すぐにでも女性を助け出したかった。足が動かないため、代わりに口を開いて男達の行動を言葉で止めようとした。

 だが、誰かに首を掴まれ、口をすぐさま閉じる。冷たく、節くれだった指が僕の首を強く食い込んでいく。そして後ろに引っ張られ、惨劇との距離が急激に空いていった。

 後ろの人は愉快そうに、泥水でうがいをしたような下卑た笑いを撒き散らした。


 身体が突き落とされるような感覚がした後、僕は自室のベッドに横たわっていた。

 背中まで冷や汗がじっとりと染みており、ベッドのシーツと引っ付いているような感覚がして、目覚めはとても悪かった。

 随分、後味の悪い夢だった。

 首を掴まれた生々しい感触は残っているし、下卑た笑いもまだ耳にこびりついていて気持ち悪い。

 そもそも何で僕は寝ているんだ。えっと、ニマさんを送った後、手がかりを探すため、ニマさんの部屋をいつものように漁っていたら、赤黒い染みが着いたスマートフォンを発見して、パニックに……。

 それで気を失う時、ニマさんが……。

 僕は背筋が凍り着き、反動でシーツが身体に引っ付く感覚が一瞬でなくなったおかげで、飛び起きることができた。

 ニマさんに、見られた。物を漁っている所、絶対にバレたよね。どうしよう、誤魔化した方が……。

「康くん」

 静かな声が、僕を呼んだ。記憶を失ってから都度、名前を呼ぶのは一人しかいないからすぐに分かった。

「ニマ、さん」

「おはよ」

 絶対零度の笑顔を浮かべて、ニマさんは僕の側に立っていた。僕はあまりの恐ろしさに口をつぐんでしまった。ニマさんはその様子を知ってか知らずか、静かな声のまま話し始めた。

「忘れ物しちゃってさ、部屋に戻ったんだよ。康くん倒れてたから、ビックリしちゃった」

 淡々と語るニマさんは、不気味な笑顔を崩さない。とっさに弁明や謝罪をしようにも、頭が上手く回らない。口先の罵りだけで済むだろうか。下手したら、もう一回気絶する事になるかも知れない。僕はあらゆる最悪のリスクが頭の中で次々と過ぎる。

 ニマさんの笑顔から目を逸らし、目を固く瞑った。

「……良かった」

「……え?」

 存外柔らかい声に、非道な罰を次々と浮かべていた僕は、間の抜けた声を出した。固く瞑っていた目も開き、ニマさんの方を見る。

 日が陰っているような、湿った表情だった。笑顔とは程遠い顔で、思わず目を見開いた。ニマさんの笑顔以外見たことがなかったので、一種の珍事だ。激情を滲ませるニマさんは初めてで、どう対応していいのか分からない。本当にどうしよう。

 僕が戸惑っていると、突然玄関の扉の方から、連続的に大きな音がした。僕は肩が盛大に跳ね上がり、毛布を握りしめた。穏やかな空気が一転し、場には張り詰めた空気が流れた。

「康くん」

「は、はい」

 ニマさんの柔らかな声が、緊張という芯が通った硬い声に差し代わった。ニマさんは背を向けているから、どんな表情をしているか分からない。ただ、背中に宿る気迫は、誰も近寄らせないほど尖っていた。

「絶対にこの部屋から出ないでね、お願い」

 僕は返事をする余裕もなく、首を縦に振った。ニマさんは背を向けているから、声を出した方がいいと気づいたのは、既に数回振った後だったが、ニマさんは特に何も言わず部屋から出て行った。鍵を閉める音を最後に、扉は完全に閉ざされたことを告げた。

 ニマさんが出て行って暫くして、扉の音は止み、平和の影に闇が暗躍しているような空気が流れた。僕は立て続けに事件が起こったせいで、言動の仕方一切を一時的に忘れてしまった。かろうじて頷けたのはニマさんがいたおかげだ。

 乱暴に玄関を叩く音が、頭の中で反響しているせいもあった。恐怖を掻き立てるような不協和音に萎縮して、大人しく毛布にくるまっている事が精一杯……。

 その時、部屋の扉が大きく揺れた。揺れと共に玄関と同じような音が劈き、跳ね起きる。何が起こったんだ……? 状況が掴めずにうろたえる僕をお構いなしに、扉は叩いた振動で揺れている。

 早く逃げないと。でも、何処へ? この部屋から出られる所は、あの扉しかない。妙に肌に纏わりつく冷や汗が身体中を這い、呼吸を刻む感覚が短くなる。僕は胸を抑えて、暴れ狂う恐怖を抑えつけた。

 そして、とうとう扉のドアノブ部分がひしゃぎ、聞いた事のない轟音を発しながら開いた。僕は、その瞬間動きどころか呼吸の仕方さえも忘れた。

 扉を突き破って出てきたのは、赤黒い液体が垂れているバールを持ち、こちらを射るような目で睨み上げてくる男性だった。息が荒く、口の端から涎が垂れている様は、凶暴な猛獣のようだ。

 猛獣は、一気に距離を詰めてきた。

「お前のせいで俺らは!」

 男性は怒鳴りながら、バールを振り上げる。全ての動きがコマ送りに見え、ただ暴力を受け止めるだけの肉塊になるんだな、と嫌に冷静な僕がいた。

 丁度夢で見た、あの、母のように——。

 ……今、僕はなんて?

 鋭い痛みが、頭に走る。気を張っていないと、意識を丸ごと持ってかれそうな衝撃だ。これ、前にも何処かで。僕は記憶を手探りしていると、男性が一層声を上げて罵り始めた。

「てめぇが記憶おっ死んだせいで俺らがどれだけ苦労したと思ってんだよ。借金したのはそっちなのに、なんであいつらに追いかけられるんだ!」

 この荒い言葉遣いも、聞き馴染んでいる感覚がして、僕の記憶を刺激していく。同時に、頭から生温かい液体が流れているが、僕は記憶を取り戻す方に専念した。借金、ぶっ殺す……あと、もう少しで、何か思い出せそうな気がするのに。焦ったく思っていると、男性は咆哮にも似た叫び声でこう言った。

「しぶといなぁ、オメェの母チャンみてぇによ!」

 母。夢の中に出てきた、母。母は、殴られていて……。僕は男性をジッと見つめた。母を殴っていた数人の男性の一人と、体格が一致する。ボヤけていた顔が一気に鮮明になり、連鎖的に他の男性の顔も思い浮かぶ。そして、母親の顔も鮮明になり、記憶の糸が猛スピードで手繰り寄せられていく。

 ああ、思い出した。闇金融を運営している暴力団から、借金を背負っていたんだ。

 元は父が背負った借金なのに、父は母に押しつけて失踪した。母と僕は夜逃げしたもののすぐに捕まり、母は汗水垂らして日夜働き、僕も高校を中退して働き始めたけれど、利子は膨れ上がる一方だった。母は何度も闇金融の連中に暴力を振るわれ、過労と多大なるストレスで亡くなってしまった。

 借金の矛先は自然と僕に向かった。母を助けられなかった罰だと思って受け入れていたけれど、耐えきれなかった。

 だから僕はこの地獄から逃げようとしたんだ。

 自ら命を経った人も、地獄に行くらしいけれど、目先の地獄を体験した僕にとっては別に大丈夫だろう。そんな思考を持つほど、僕の精神は危うくなっていた。

 雲一つない青空の中、僕は繁華街のとある廃ビルの屋上に立った。空の中に飛び込むように落ちるのは、どんなに心地が良いんだろうか。もう、借金取りが扉を叩く音に怯えて跳ね起きることもなくなるんだ。これで、安らかに眠れる事ができる。

 未練は、もう……あ、でもあの人には連絡したい。普通のバイトでは金が足りず、泣く泣くキャバクラの黒服の正社員として就いた職場にその人はいるが、闇金融の所とは違えど暴力団が運営している。本当なら他のバイト同様に何の連絡もせずに切りたいが、特別にお世話になった方がいるから、その人には一言言いたい。

 面接時、普段のバイトだと借金が返済できないという理由で、夜の世界に無知で入った僕の事情を汲んでくれて、特別優しくしてくれた人。その人は事あるごとに、こう言った。

『何か困った事があったら言ってね。味方だから』

 本当に、ありがたい言葉だ。孤独な僕に、一筋の道標として光を与えてくれた。けど、その人は暴力団にいる。その集団に酷い目にあってきた僕は、素直に頼る事は出来なかった。

 屋上の淵に立ち、仕事用だと支給されたスマートフォンを耳に当ててその人に最後のお詫びと感謝を送った。


『ごめんなさい、ありがとう……仁摩(ニマ)さん』


 「昔馴染み」の仁摩さんを最後まで思い出せなかった僕は、スマートフォンを握り締めたまま一歩踏み出した。

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