調査

「昼食は冷蔵庫に入ってて、洗濯や掃除はやったから、のんびりしててね。あとは……」

「分かりましたから、早く仕事に行って下さい……」

玄関で僕の肩を掴むニマさんを宥めた。ニマさんはもう靴を履いて土間のところに立っているのに、なかなか出て行かない。

「だって〜一人にするの毎回心配なんだもん」

「留守番ぐらい出来ますから」

「ん〜、分かった。行ってくる……あ、そうそう」

ニマさんはドアノブに手をかけながら、僕の方を向いて笑顔を作った。口角を不自然なほど大きく上げたいつもの笑顔に威圧めいたものを感じ、僕は少し固まった。それを表情に飾り付けたまま、ニマさんは口を開いた。

「外に出ないでね」

「はい……」

 ニマさんの釘刺しに対して、僕は蚊の鳴くような声で返事をした。ニマさんは鍵を開けて素早く出て行き、やっと安堵する。

 ニマさんは日中仕事でいないため、長い時間僕だけで過ごさなくてはいけない。だから、その間に。

 僕は真っ直ぐニマさんの部屋に向かった。自室の真向かいに位置しており、実質一番近い部屋だ。部屋の前に立つと扉を開け、電気をつける。ベッドや机等必要最低限の家具しかない、簡素な部屋だ。

さて、やるか。

ここから脱出する、手がかり集めを。

僕は、ニマさんの部屋に足を踏み入れた。

一年前に病院で目覚めた記憶喪失の僕はニマさんと出会ったが、彼の無機質な笑顔に、鳥肌が立った。ニマさんは、身寄りがない僕を引き取りに来た昔馴染みらしい。記憶だけでなく身寄りもないと分かった僕は、名を体で表している得体の知れない人と生活する道を取るしかなかった。

 だけど外出は禁止されるし、四六時中不気味な笑顔を見せられているため、この同居生活にかなり気が滅入っている。

一番不気味なのはこの家だ。窓がなく、玄関には南京錠が掛かっており、鍵はニマさんが持っている。連れて来られたのは僕が退院してすぐだったが、道中ニマさんが運転する車の中で寝てしまい、気づいたらこの明るい監獄にいた。だから、ここが何処にあるのか、外観はどんな感じなのか分からない。

 テレビ等の情報機器がない、外界から遮断された箱庭から出たいが、ニマさん以外行く当てがない。そんな絶望的な状況から脱出する為、せめて記憶を取り戻せばニマさんの元から離れるきっかけを作れるかもしれないと考え、僕自身の記憶を取り戻すための手がかりを探している。

ニマさんには確かにお世話になっているし。けれど身寄りがないというのも信憑性に欠けるし、昔馴染みという割には僕の記憶を戻すことに積極的ではない。過保護すぎるほど世話してくれるが、引き取られてから病院に一度も行っていない。

 記憶喪失なのに病院に行かなくていいのか、何度か言おうとしたが、あの笑顔を前にするとどうも口が回らなくなってしまう。だから、こうしてコソ泥のような真似事をしている。

僕は、備え付けの収納スペースの前に立った。壁に開き扉が取り付けており、開けると中に空間が出来ていて、そこに物を入れるタイプのものだ。

僕は慎重に扉を開けたが、それは意味を為さなかった。足下に使い古された鞄が落ちてきたからだ。まずい、と身構えた一瞬の間の後、山積みになっている物が雪崩となって落ちてきた。身体全身で受け止めた後、中に無理矢理押し込んだ。ちゃんと整理して下さいよ、ニマさん……。

収納スペースには色んな物が詰め込まれているから、時々雪崩に遭う。一旦、足下に落ちた鞄を中に入れて扉を閉じよう。そこからまた慎重に物を動かしながら探そう……。僕は床に落ちた鞄を手に取り、持ち上げる。

 ゴトリ。

 鞄から物がすり抜けて何か固いものが落ちたらしく、腹の底が瞬時に冷たくなった。僕は、反射的に辺りを見回す。……あ、ニマさんは仕事か。自分の小心さに、僕は呆れてしまった。

 それにしても、何が落ちたんだ? 僕は床に落ちた物を見ると、目を見開いた。黒い長方形の板に、蜘蛛の巣のような模様がついていた。収納スペースに、蜘蛛でも湧いてしまったのだろうか。

屈んで板を拾い、顔に近づけてよく観察する。……スマートフォンだ。スマートフォンの画面が割れて、蜘蛛の巣が張っているように見えていた。収納スペースには壊れた置物だったり、破れた洋服とかが詰め込まれている時があるから、このような状態で出てくるのはふしぎではない、が……情報機器、あった。

ただ壊れているようだし、何より赤黒い染みがスマートフォンの半分を覆っている異様な状態だった。こんな不穏な物を目の前にしたら、普段の僕は尻込みしている。だが、僕の手は自然とスマートフォンを握りしめていた。手の中に丁度収まり、染みを指でなぞる。

すると、いつの間にか頭の中にモヤが湧いて出てきた。

これは何だろう。僕は暫くそれを観察していたが、ふと、釈然としない気持ちも湧いて出てきた。次第に、そのモヤがいる事実に段々と気が重くなってきた。僕はそれに苛つき、振り払いたい衝動にかられたが、突然内側から圧迫する形で膨張してきた。軋むような痛みに襲われ、頭を抱えてその場にしゃがみ込む。

 あまりの痛さに耐えきれず叫び、スマートフォンを手から離した。スマートフォンが落ちる音を皮切りに、断末魔に似た叫び声が部屋に響く。床を頭に擦り付け、とにかく痛みから逃げようとするが、どんどん酷くなってくる。

『……ぞ……マァ!』

『……いて……!』

 幻聴まで、聞こえてきた。男か女か判別できない叫び声が、鼓膜を内から突き破る。得体の知れない総攻撃に、僕の視界は次第にぼやけていく

「康くん!」

 意識を完全に手放す直前、何故かニマさんの切羽詰まった声が聞こえた。

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