純愛の箱庭
葵
日常。
生温かい空気が顔にかかって、僕の意識は浮上した。閉じそうな瞼を何とか持ち上げ、景色を映し出す事に専念する。
記憶喪失である僕が、今という時間を刻む大切な行為。
だけど、それは自称昔馴染みの同居人によっていつも中断される。腹に強い衝撃を覚えて瞼が一気に見開き、軽く咽せる。ぼやけた視界から一気に鮮明になったため、おかげで起こした張本人をすぐ捉えられた。
ニマリという効果音がつきそうなほど、口角を不自然なほど大きく上げた笑顔の同居人……ニマさんが、不思議そうに小首を傾げていた。「康(やすし)くん、具合悪いの?」
「貴方が飛び込んできたからです……」
間延びした声で見当違いな心配をするニマさんに、僕は掠れた声で反発した。腹の上に乗って起こすのはやめて欲しいと何度も言っているのに……。体格差が一回りも違うんだから。
けれど、ニマさんは今みたいに起こす事を繰り返し、僕は毎回咽せている。最近ではもう受け入れつつある。認めているのではなく、あくまで諦観だ。
ニマさんは徐に立ち上がり、今度は身体を斜めに傾げた。
「朝ご飯出来てるよ。冷めないうちに食べよ」
そう言うと、寝室から出て行った。僕はその後を追いかけるようにベッドから降りると、柔らかい暖気に包み込まれた。そういえば、ニマさんが今日は冷え込むらしいって、昨日言ってたな。
部屋全体に篭る暖気は、ニマさんの優しさを表しているようで心地良い。記憶喪失の僕はニマさんの事を全然知らないから少し怖いけど、基本は優しいから多少気を許してしまう。
僕は部屋を出て、床暖房が効いている廊下を歩く。台所がある部屋は寝室を出て廊下を右に曲がったところだから、すぐに辿り着いた。
扉を開けて右に台所、左にリビングという空間が配置され、長細いカウンターテーブルに椅子二脚がきちんと収まっている。カウンターテーブルにオムレツやサラダ、食パンにスープと、健康的な朝食が揃い、腹の虫が早く食べたいと訴えるように鳴った。
「早く座って座って!」
いつの間にか後ろに立っていたニマさんに背中を押され、席に着くよう促される。さっきまで背後に気配を微塵も感じなかった事に驚き、僕はすぐ椅子に座った。
「すみません……!」
「康くんは何にも悪い事してないから謝んなくていいんだよ〜?」
「……はい」
これ以上意味のない謝罪を続けてしまう前に、黙って椅子に座った。ニマさんも隣に座り、心から笑ってない笑顔を貼り付けて僕に声をかけた。
「オムレツ、綺麗な形でしょ?」
「そう、ですね」
「食べてみて?」
言われるがまま半月形のオムレツにスプーンを差し入れると、黄金色の液体が溢れ出し、無意識に喉が鳴った。スプーンに乗せた一欠片の至高を口に入れると、優しい塩味と卵のとろみが広がった。咀嚼する間もなく口内に溶け、思わず口元が緩んだ。
「美味しい?」
僕はスプーンを咥えたまま、ニマさんの方を見る。鋭い吊り目が僕の返事を探り入れている様子に少し身震いしたが、事実ではあるので首を縦に振った。
「そっか、良かった!」
無邪気に弾けるような口調だが、表情は仮面を被ったような笑顔だ。取り急ぎ僕はスプーンを口から離して、ぎこちない笑顔を返した。
すると、急にニマさんは僕の瞳を覗き込んできた。
「康くん、生活してて何か困ったことない?」
「だ、大丈夫です」
僕は少し距離を取るよう身体を離したが、ニマさんはお構いなく距離を詰める。
「本当に?」
「大丈夫です……」
苦笑いしながら諌める俺に、ニマさんは満足そうに頷いた
「困った事があったら言ってね、昔馴染みだから。俺は君が記憶喪失でも味方だから」
不気味な笑顔で念押ししてくるニマさんに、僕は乾いた笑いを返す事しか出来なかった。
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