救えないドクターと人魚姫
丸いテーブルによじ登ったクマのぬいぐるみに、黒髪の少年が何かを訴えている。
「ねえ、クマさん。君は、本当にあの果実を食べないのかい? コレを食べれば、君はマボロシからカクリツに成れる。もっと長い時間を、生きられるんだよ?」
博士の言葉は穏やかで優しく、薬を幼子に進める小児科医のようだ。
テーブルの上に置かれた、真っ黒い林檎のような見た目の果実を揺らす。
しかし、クマはそれに一瞥をくれると、ブンブンと首を振って拒否した。
「ボクは、たべないよ、博士。だって、コレをたべたら、ボクはあの子に、会いに行けなくなっちゃうんでしょう? ボク、あの子のおともだちなんだ。ボクがいなくなったら、あの子、泣いちゃうよ」
クマは子どもが抱き抱えられる程度の、小さなぬいぐるみだ。
話し方も幼かったが、それでも、言葉やボタンの瞳に宿る決意は固かった。
クマの意思は変わりそうになかったが、博士は食い下がって説得を続ける。
「そうだね。確かに、会えなくなってしまう可能性は高いよ。けれど、クマさん。もう、お友達だった契約者には、君の姿は見えていないし、一緒に遊んでくれないんでしょう? 残念だけれど、君は忘れられてしまったんだ。だから、君が帰らなくても寂しくなったりしないよ。ねえ、此処にいなよ」
指の無い丸く小さな手を両手で包み込み、目線を合わせて語り掛けた。
しかし、クマはそっと両手を引き抜いて俯いた。
「……博士は、やさしいね。やさしいけれど、残酷だね。ねえ、そんなこと言わないでよ。ボクたちは、確かにともだちだったんだ。必要とされていなくても、ボクはあの子が大好きで、消えてしまう最期の時まで、あの子のともだちでいたいんだよ。側にいたいんだ。それが、しあわせなんだ」
顔を上げたクマは、本当に幸せそうに笑った。
クマはテーブルを飛び降りてポテポテと歩き、博士の開いた通路から現実世界へと去って行く。
「待って」と瞳の奥が切なく揺れる博士に「ごめんね」と微笑んだクマは、二度と博士の前に姿を現さなかった。
クマのぬいぐるみは、きっと……
こんなことが、何度も続いた。
訪れるマボロシの姿は、人のようだったり、子供に与えられる玩具のようだったり、はたまた形容しがたい何かであったりと、実に様々だった。
博士は毎回、訪れる彼らに何度も世界の説明をして、果実をすすめた。
しかし、命を長らえさせたくてやって来るはずの彼らの多くは、果実により現実世界に帰れなくなる可能性があるのだと知ると、救いを拒否した。
食べた者たちも、博士を見ていると契約者を思い出して辛くなるからと、幻想世界の奥へ引っ込んでしまった。
博士に二度以上も会いに来る者は、ほとんどいなかった。
『苦しいよ。誰も、僕の側に残っちゃくれない。生きていてほしいのに、話なんて、きいてくれないや』
初めは熱心にマボロシに食い下がっていた博士も、何度も此処から去って行くマボロシたちに諦めを覚え始めた。
そして、穏やかに見送ることが増えたのだが、その内心は激しく荒れていた。
心が絶叫してボロボロと涙を流したまま、博士は優しい笑みを浮かべ続けた。
空いた穴に何かが詰まっていく。
酷い胸やけのような感覚がした。
普段は外出をしながら穏やかで楽しい研究の日々を、時折、激しい痛みの伴う来客対応をしながら、博士の時は進んで行く。
そんなある日、事件が起こった。
博士の前に現れたのは、以前に果実を拒否して現実世界に帰って行った、人魚の女の子だった。
水面のようにきらめく、清い白銀の髪を揺らめかせている。
キラリと輝く鱗は美しく、足の代わりに生えた魚の尾は刻一刻とグラデーションを変えていく。
「人魚さん、久しぶり! 人間に思い出してもらえた、わけではなさそうだね……消えかけてる。あと数分と持たないよ。どうして此処に? もしかして、消える間際になって決心がついたのかい? 待っていてくれ、すぐに果実を用意するよ」
薄く消えかける人魚のために、博士は大慌てで机の引き出しを漁った。
果実を引っ張り出す一連の動作は正確で、まるで急患を処置する医者だ。
けれど、人魚は俯いて首を振る。
「どうしたんだい? 生き残りたいから、僕の所へ来たんだろう? 早く食べておくれよ。消えてしまうよ」
必死で人魚に果実を差し出すが、彼女は決して受け取ってくれない。
痺れを切らした博士が人魚の胸元へ果実を押し付けたが、ダランとぶら下がった腕は決して果実を掴まなかった。
そして残酷に、救いは床へ落ちて転がって行く。
慌てて果実を拾おうと手を伸ばす博士に、人魚はクルリと背を向けた。
「ごめんね、博士。私、確かに生き残りたくて来たんだけれど、やっぱり、此処に来て、気が付いちゃったの。あの子と一緒にいたいなって。あの子と一緒じゃなきゃ、生きてても楽しくないなって、此処に来て、気が付いちゃった」
美しい人魚の声は震えていて、博士は何も言えないまま通路を開いた。
ユラユラと美しい尾を揺らして人魚は泳ぎ、現実世界の方へ進んで行く。
「私、帰るね。もうすぐ、消えちゃうんだけれど、最期はあの子の側で……あ……」
人魚は、泡になって消えた。
消滅の兆しに焦り、自分の在り方に迷って博士のもとを訪れてしまったから。
そして結局、果実すら食べなかったから。
誰にも正面から見てもらえないまま、おとぎ話の人魚姫のように、泡になって消えてしまった。
最低限の願いすらも、叶えられなかった。
博士はしばし呆然として、人魚のいた場所を眺めていた。
数滴の雫が床の上で揺れている。
「泣いていたんだね……」
数回、手のひらで目元を擦った人魚の後ろ姿が思い出される。
寂しい涙に小さな指先が触れようとした瞬間、水が蒸発して、空中に消えていった。
人魚の痕跡が、すっかりなくなってしまった。
これは、博士が初めて目の当たりにした彼らの消滅だった。
人魚の復活を願うように博士の真っ黒く潤んだ瞳から涙が零れて、彼女がいた場所にポツリポツリと雫を落としていく。
「嫌だ。人魚姫。嫌だよ……どうして君たちはそんなにも愚かなんだ、人魚姫。哀れで、可哀そうで、惨めだ。どうして、僕の所なんかに尋ねてくるんだ。いなくなってしまうなら、初めから此処には来ないでおくれよ、人魚姫」
グシャグシャと涙を拭いながら言うと、それっきり嗚咽交じりの声は言葉ではなくなって、ひたすらに博士は泣きじゃくっていた。
人魚姫というおとぎ話がある。
人魚のお姫様が、助けた人間の王子に恋をした。
人魚姫は王子と結ばれるために「声」という代償を支払い、王子との恋が成就しなければ泡になって消える、というリスクを背負ってまで両足を手に入れ、陸に上がる。
けれど、憧れていた恋は横恋慕の恋で、王子には既に婚約者がいた。
死の運命に晒された人魚姫は、王子を殺して血を浴びれば再び人魚に戻れるのだと、姉たちから短剣を手渡されるが、結局、彼女はそれを選ばない。
そして、泡になって静かに消える。
絵本などによって詳細は異なるが、これが大まかな「人魚姫」の内容だろう。
本来は自分たちの所属しない現実世界で、マボロシたちは契約者との「約束」に自己と幸福を見出し、自分たちを認識してくれない契約者の隣に存在したがる。
そして、無茶がたたって消えてしまう。
どうか生きてくれと願う博士の声など、聞こえはしない。
マボロシと契約者の関係は、友人や親子、兄弟であることが圧倒的に多い。
人魚の少女と「あの子」がどういった関係であったかも定かではない。
だが、それでも博士は、彼らの儚く依存的で、自分だけに犠牲を強いる歪な関係に人魚姫の物語を重ねた。
以来、博士はマボロシを人魚姫と、契約者を王子さまと呼ぶようになった。
前者には一方的に相手を想い続け、それを断ち切れない弱さに恨みと愛しさを込めて、後者には侮蔑や嫌悪感を込めた。
また、別の日のことだ。
博士は、洞窟の中から近隣の幻想世界を見ることが出来る。
そのため博士は時折、部屋の中から海を眺めていたのだが、そこで守護者を見つけてしばらく観察を続けた。
そして、ブラッドナイトがつくり出されるのを目の当たりにし、これまでの研究の成果と結び合わせて清川の特異な能力を知ることが出来た。
初めは好奇心で清川に近づき、彼女にくっついてきた守護者との再会を心から喜んだ。
ずっとはしゃいでいた。
独りぼっちで研究する生活は楽しいが暇で、実は、かなり寂しかったのだ。
それに、博士は守護者と消えてしまった人魚を少しだけ重ねていた。
刻一刻と変わる髪や全身のグラデーションや優しい笑顔が、人魚の少女を思い出させる。
その守護者が生きていてくれたのが、嬉しくて堪らない。
胸の中央がホクホクと温かく跳ね、妙に弾んだ楽しい気分がした。
しかし、清川を大切に守る守護者の姿や、それを当たり前のように受け取る清川の姿に、少しずつ博士の内心は荒れていった。
『いいな、狡いよ。僕の周りには誰一人残らないのに、藍さんばっかり、一方的に守られて。二人は王子さまと人魚姫じゃない。でも、普通ならとっくに守護者さんは死んでいたんだ。守護者さんだって、藍さんにつくられたことや、約束に縛り付けられていることは変わらないんだ』
幼いこどもの声が、拗ねて言った。
穏やかなままで不貞腐れて、清川に意地悪をする。
清川が泣くと優越感と安心感、そして、激しい罪悪感を抱いた。
怒った守護者の言葉に返しきれなくて、いじけた。
シンデレラとは違って何一つ痕跡を残さずに、バタバタと階段を駆け下りて行った金森たちのことが、恋しくて堪らなくなった。
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