カナリア冒険譚

第1話

 クラスでカナリアを飼うことが決まってしまったことは民主主義の業に他ならない。多数決最大の瑕疵は少数の冒涜である。

 つまり私は冒涜されたのだ、嘆かわしい。私が生物委員であることも嘆かわしい。


 私は無類の動物アレルギーである。犬猫に始まり猿雉鼠牛虎兎龍蛇等々畜生に大変な拒絶を示す。ひとたび獣に触れれば家屋を吹き飛ばすがごときくしゃみが出て目の抉り出る壮絶な痒みに襲われ溶岩を思わせる紅の湿疹が浮かび上がる。


 もうひとつ、私は鳥が嫌いだ。

 アレルギーという不治の病から回復したとて鳥類嫌いという尊い個性は消失し得ない。古今東西の鳥類が廓の中に収まるのと、私が生を全うするのと、どちらが先か。密かに続く聖戦は一滴の血をも流さない。




   ※


 私は千葉県某市の高校に通う模範的な生徒である。

 生徒と学生の違いを十分に理解した語彙と軽減税率の計算を数秒で弾き出す計算力と英語力の限界を見極めて即座に翻訳アプリを起動する優れた頭脳はさながらスーパーコンピューターである。


 学則通りに制服を着こなし優等生のごとく授業に臨み予習復習に余念を欠かさぬ心意気を持つ私に人々は近寄り難さを覚える。私の生はいつだって孤独だが知略とは一抹の寂寥を孕むものである。

 無論多くないだけで志を共にする仲間はいる。彼らは私の理念に時に共感し時に反駁し切磋琢磨を欠かさず崇高な高校生活を享受している――のだが、どういうわけかカナリアの飼育には慄然とした挙手で賛成していた。


「じゃあみんなで世話するぞ。命を預かるんだから最後まで責任を持て。分かってるな?」


 平成の若手俳優さながらに白い歯白い肌茶色い髪を携えた若い担任教諭は、教壇を両手で叩いた。

 ワイシャツの袖を夏冬問わず二の腕まで捲る彼の名を近藤と言うが、私の人生にそう多くは関わらないので覚えなくてもよい。


「分かってます」


 毅然と言い放つは学級委員長の石毛という黒縁眼鏡をかけた角刈りの男だが、彼の名もひとまず覚えなくてよい。


「みんなで責任持つから大丈夫です」

「まずは名前を決めようよ」

「ポチとかでいいんじゃね」

「それは犬だろー」


 めいめいに騒ぐ連中の名を順に勝永、水川、藤堂、椎崎と言う。無論覚えなくてよい。


 なんたる惨状、なんたる愚行。

 民意によって仁義を踏みにじられるこの苦悩など露知らず、大罪の元凶たる鳥畜生を歓談の中心に祀り上げるとは。


「そうだな……じゃあ名前は生物委員が決めたらどうだ?」


 筋肉隆々の近藤がとんでもない発案をしたので、思わず私は「俺が?」と自分を指差す。


「そうじゃん、生物委員が決めなよ」

「生物委員ってことは生き物好きなんでしょ? いい名前にしてね」


 覚えてなくていい名前の武木と南雲に言われては最早反論の余地はない。

 そもそも生物委員に決めたのはがらんどうの兎小屋を見て「これはなにもしなくていいやつだ」という明察によってである。よもやこのような刑に処されるとは。


 結局カナリアの名は『しおだれ』に決まった。中笑いに終わった我がネーミングセンスは眩い黄色の鳥風情に記号を与え、20名に満たぬ学級の愛玩動物として親しまれることになる。もちろん私は除く。


   ※


 何故カナリアを飼う羽目になったのか、経緯を話さねばならない。


 事の発端はゴールデンウィーク明け。

 5日もの休みを終えて登校すると、教室にカナリアが巣食っていた。

 最初に見つけた小牧さんという慎ましく美しい女子生徒が余っていた水槽に小枝を設置した。

 他の生徒も籠やら餌やら給水器やらを持ち寄って、気付いたときにはカナリアが定住するに足る環境が整っていた。


 人間に媚びることを良しとするカナリアもといしおだれは、小牧さんの肩にひょいと飛び乗ると小便たれの黄色い頭を彼女の頬に擦り付けた。

 私を除く全員の心を掴んだのは言うまでもない。誰かが「うちで飼おうよ!」と笑止千万の発案をし、愚かな民意はたちまち賛成したのだ。


 そして冒頭の流れになる。大人になれば鳥風情に現を抜かす愚かさを解すると思っていたが筋肉男に常識的な感覚などなかったのだ。

 やれやれ、最後の砦が私というわけか。羽毛毟られ串焼きになるそのときまで、せいぜい愚人を篭絡しているがいい。


   ※


 案外しおだれは可愛いものだと思い始めてしまった。

 我が生涯に残る落ち度かもしれないが、あの愛くるしい瞳といじらしい仕草が堪らない。


 私は毎朝の餌やり当番に任ぜられた。平たく言えば押し付けられたに相違ない。不服だが、しおだれとの時間が増えたことはこの上なく幸福であった。


 朝7時半に教室へ入る。私の他には誰もない。真鍮の鳥かごは、壁際のラックに掛けられている。しおだれはかごの中をカタカタと飛び回っていて、羽ばたくたびに黄金色の羽毛が舞い散る。


 ケージを開けて外に出してやる。しおだれはバサバサバサと室内を忙しなく旋回し、やがて私の肩に乗った。これだ、これが可愛いのだ。

 眩いばかりの毛並みを擦りつけてくる小さくも愛らしい小鳥をどうして憎めようか。これなら制服が羽毛まみれになるのも止むを得まい。


 しおだれが落ちぬよう慎重に屈んで、鞄から餌を取り出した。。悪臭に耐えて手のひらにおくと、しおだれは美味そうについばむ。

 この鳥の賢いところは、決して私の手を傷つけないことだ。本来は嘴の先端で皮膚がズタボロになるため、直接餌を与えるのは禁じ手なのだという。

 やはりしおだれは格別の鳥なのだ。


 朝食を終えたしおだれは再び優雅に羽ばたいた。

 私の肩から椅子の背もたれへ。背もたれからロッカーの縁へ。そして再び私の肩に戻ったかと思えば、真鍮の籠の上に舞い降りた。

 点々と飛び移るしおだれはまるで私をどこかへ誘うかのようだった。


「ははは、こらこら。そう急ぐな」


 背もたれに脚をつけるしおだれは体を傾けて頭をクイクイと掻いている。胴体が傾いている様のなんといじらしいことか。

 しおだれを撫でようと手を伸ばすと窓枠にヒョイと飛び乗った。


「こらこら、そんなとこにいては落ちてしまうよ。さあ、危ないからこっちへおいで」


 笑顔と共に掌を差し出す。英国紳士さながらの振る舞いで誘うと、しおだれはポロポロと木琴のような鳴き声を上げる。私と戯れる朝が幸せでたまらないのだろう。


 その場に立ち尽くしてしおだれの歌声に耳を傾けた。

 やがてしおだれはグッと足に力を込めると、パタパタと身軽そうに飛び立った。風に乗って、そのまま窓の外、遥か彼方へ、空に吸い込まれるように――。


「しおだれええええええ!」


 悲痛の叫び声も虚しく、眩い蛍光の小鳥は朝焼けの向こうへ飛び去って行くのだった。


   ※


 さて、敢えて名前は明かさないが私には密かに思いを寄せる少女がいる。見た目は可憐で頭脳明晰。健康的な肉体を持ち朗らかな愛想を分け隔てなく向ける。品のある言葉と気高い所作振る舞い。装身具の類はどれも好みがいい。

 私の心を奪うに足る素敵な少女の名は小牧さんという。その小牧さんに殴られた。


「なに逃がしてんだよこのクソ陰キャ!」


 失恋した瞬間である。


「まあまあ小牧さん……」

「あんたがこんな奴を当番にしたんでしょ! どうすんのよクソ眼鏡!」


 私をフォローしたが故にクソ眼鏡呼ばわりされた麻生という男の名は別に覚えなくともよいが、さすがにいささか忍びない。


「でも実際心配だよなあ。カラスに襲われたりするかもしれないだろ?」

「さ、さすがにそんなことは……」

「くそ陰キャは黙ってろ!」

「まあまあ小牧さん――」

「黙れクソ眼鏡!」


 もう私は黙ることにした。なんなのだこ感覚は。罪悪感と恋心と虚しさと悔しさと怒りが順繰りに顔を覗かせては私の胸を引き裂いていく。

 思い思われ振り振られ、恋に破れた私はあることを閃いた。


「分かった。分かった、じゃあこうしよう。俺は今からカナリアを捜しにいく。風の流れと付近の木々を眺めれば、ある程度の方向は分かるはずだ」


 私の提案にはまるで同意がない。ただ誰かが「いや無理だろ」と呟くばかりである。しかし代案も同様に無かった。それなら私の勝利である。


「見つからなかったどうすんだよ」

「何もしないよりはずっといいに決まっている」

「無駄な苦労になんだろうがおい!」

「落ち着け小牧さん。他に何か手立てはあるか?」


 問い掛けたが、やはり誰も何も言わない。


「決まりだな。俺はしおだれを捜しに行く。志願者はいるか?」


 これも、誰も何も言わない。


 喧々諤々の議論の後で、私を祖とするしだおれ捜索隊の編成が決まった。

 私が隊長なのは言うまでもない。副隊長には学級委員長の石毛が任ぜられ、一般隊員に水川、小牧、麻生と続く。計5人のメンバーがじゃんけんによって選抜された。


「先生には言っとくからなー!」


 大きく手を振りながら廊下を出、裏門へ向かう道のりで教室へ大きく手を振り、門を乗り越えてからもう一度大きく手を振った。


 始業前に学校を抜け出すのは奇妙な気分である。もはやサボっているなどという気にもならない。「いま自分は何をしているんだろう」という漠然とした虚無感が共通認識にあった。

 もちろん私は違う。愛すべきしおだれを探し出すという崇高な使命があるのだ。彼らの怠慢に付き合う道理はない。

 しおだれの行方には当てがある。駅とは反対方向へ向かうとそれなりに広い雑木林があり、そこへ飛び立ったに違いないのだ。


「まずは自然を目指そう」


 私が指示を出すと、隊員一同は揃って嫌な顔を浮かべた。


「何が不満なんだ」

「遠いじゃん」

「そこに鳥いんの?」


 不平不満の嵐が吹き荒ぶ。

 全く理解できまい。鳥ならば自然を求める、これは当然の帰結ではないか。

 大地の恵みに息吹く生命が深緑を目指す道理を、何故彼らは否定するのか。


「鳥なんだから林にいるだろ」

「は、そんなわけなくね」

「じゃあどこに行ったんだ」

「近くの電信柱とかでしょ。まずはその辺の高いところを探すんだよ」


 苛立った声を上げるのは小牧だった。仕方がないのでここは私が引こう。口を開く前に足を動かすのは冒険のセオリーである。

 あくまでも戦略的譲歩である。決してシュンとなってしまったわけではない。


 私の譲歩もあって捜索隊は近辺を歩き回ることとした。

 ある者は電線を見上げある者は街路樹を見上げある者は住宅の屋根やアパートのベランダを見上げた。

 しかし例の愛くるしいカナリアの姿はない。陰鬱とした灰色の街並みに美しい羽毛の黄色は目立つはずなのだが。

 30分ほど辺りを彷徨っていたが、しおだれを見つけることは叶わなかった。小牧の見当は大外れだったと言わざるを得ない。


「気にすることはない」


 私は言った。


「目論見が違ったとしても、それはみんなの責任だ」

「はあ? なんだお前」


 フォローしたのにこんなに怒られるとは。シュンとなってしまった。


「今度こそ雑木林の方に言ってみる?」


 平然と提案するのは石毛だった。さすが副隊長である。停止をよしとせず前進することを推している。あっぱれな心意気だ。空気が凍り付くことも避けられた。


 私たちは頭上を見上げつつ雑木林を目指して進んだ。

 随分と遠くまで来たものだ。雑木林の存在こそ知れど、コンビニすら見当たらない場所へ行く用件などない。未知の領域へ足を踏み込む不安がゆっくりと押し寄せる。


 そういえば私たちの会話はあまり弾んでいなかった。

 寡黙な夢想家たる私は当然として、隊の連中がこんなにも無口だとはしなかった。気の利いた雑談でもあるのかと思ったが、口を開く者は一向に現れない。

 風も吹かず、獣の鳴き声もない。静まり返ったまま無心に歩き続けた。


 地面がアスファルトから泥濘に変貌し、いよいよ雑木林へ足を踏み入れた。


「うわ最悪」


 口を開くのは水川だった。


「どうしたの?」

「ここ電波入んないよ」

「えー、ホントだー」


 小牧も一緒になって不満を漏らすが、言葉とは裏腹に声色は弾んでいる。

 楽しそうで何よりだ。


「冒険してるみたいで楽しいじゃん」

「意味わかんないんだけど」


 私も仲間に入れてほしかっただけなのに小牧は冷たく跳ね除ける。

 ポンと肩に手を置かれた。麻生が悲痛な面持ちで私を見ている。やめろ、そんな眼差しを向けるな。私は可哀想な人ではないのだ。なんて言えるはずもない。本当は同情してほしくたまらない。


 雑木林なんて簡単に言うが、所詮は文明の一隅であり他と比べてまあまあ木の多いエリアに過ぎないだろう、という大方の予想はあっさりと外れた。

 進めば進むだけ土はぬかるみを増し、木々が深くなるほど梢から差し込む日光は小さくなった。さながら夕闇である。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。蓄積する疲労に負けじと、懸命に一歩一歩を踏み出し続けた。


「いないね」


 水川が言った。


「いない」


 石毛も繰り返した。


「帰ろうよ」


 小牧が息を切らして言う。


「もう少しだけ進んだら戻るか」


 隣で麻生が言ったので私は頷いた。これ以上の収穫は望めないであろう。すごすごと帰って「見つかりませんでした」と言うのは癪だが、徒労を重ねる方がよほど無益である。


 帰りたいという本音を押し殺して、私たちは歩いた。

 沈黙に耐えかねた水川や麻生が「小鳥ちゃーん」「カナリアー」と呼び掛ける。しおだれに人間の呼び名を躾けてはいないので答えるはずもないのだが、無意味だと知っても呼ばずにはいられないのだろう。世の中にはそういう愚かさもある。

 私も「しおだれぇ!」と叫びたくなる気持ちを必死で抑え付けていた。


 私たちの捜索も虚しくしおだれが見つかることはなかった。

 鮮やかな黄色い羽毛の影も形もなく、四方には枯れた緑の海が果てしなく続くばかり。雑木林の中は色彩を欠いている。深緑とは名ばかりで、土と樹木にまみれた光の届き難い場所だ。

 もしも世界中が雑木林であったら、モノクロは白と茶色で構成されていたであろう。


「戻ろうか」


 石毛の意見に全員が賛同した。何の成果も得られぬ空虚な旅路に身も心もへし折られた。

 これも全てあの憎き鳥畜生のせいであると考えると、かつてしおだれへ抱いていた愛情のことごとくが消え失せて尊い憎悪が再燃してくるかのようである、なんてことはまるでない。今でもしおだれに会いたいのだ。私たちの利害はその一点において合致している。


「いや――」


 私は足を止めて言った。


「このままでいいのか。本当にしおだれを取り戻すことなくすごすごと逃げ帰って、俺たちはそれでいいのか? あいつを見つけるまで戻れないはずだ!」

「じゃあ一人で探してろよ。ばいばーい」


 小牧が言ったので、私は慌てて追いかけた。


「小鳥ちゃんどこに行ったのー」


 嘆くのは水川だった。皆、一斉に首を傾げる。


「街中にもいないし、ここにもいない。となると……うーん」


 麻生も言葉を途切れさせたきりで唸るばかりだ。


「飼い主の家に戻ったとか?」

「でもカナリアが逃げましたーって貼り紙とかなかったよね」

「貼ってないだけでしょ。そもそもカナリアって野生にいなくない?」

「たしかに」


 たしかに。石毛の洞察に私たちは深く納得させられた。

 そうか、しおだれは帰るべき家に帰ったのか。であれば無理に取り戻す必要もない。それどころか無慈悲な強奪者と化し得ない。そうなる前に引き返さなければ。小牧がため息をついたそのとき、不意に先頭を歩く石毛の足が止まった。


「どうした?」


 おそるおそる石毛が振り返る。

 

「――迷った」


   ※


 十五少年漂流記では、無人島に辿り着いてまずしたことは大陸か島かを確かめることだった。幸いその必要はない。


「参ったな……何か目印があればいいんだけど」

「スマホも使えないしこれじゃあ分かんないじゃん」

「方角なら分かるよ。あっちが北だ」


 一方向を指差して麻生が言った。


「じゃあどこへ向かえば帰れるわけ?」

「知るか」


 あっさりと首を振る麻生に、水川は失望を露わにする。


「いや、方角が分かるのはありがたいよ」


 顔を上げて言うのは石毛だった。


「ここは学校の北側にあるから、南へ向かえばひとまずは出られるはず」

「えーすごーい!」


 手を叩いてはしゃぐ小牧を浅ましく思ったが、それはそれとして石毛の発案には納得した。実は私も同じことを考えていたのだが敢えて言葉にしなかったのだ、敢えてね。


 どうやら石毛のことをみくびっていたようだ。今後は私の思索の一隅に入れてやろう。賢い仲間の増えることは喜ばしいことだ。

 祝福の音楽を再生したが小牧に「うるさいんだけど」と言われてしまった。


 再び私たちは歩く。今日は歩いてばかりだ。何かを探すとは歩くことなのだろうか。歩行自体は嫌いではない。無心になって歩けば、それだけ頭の中を整理することができる。

 私の脳を埋め尽くす事象の数々、例えば「フラペチーノの新作って言うほど飲みたいか?」「マジでYouTubeで一発稼ぐなら何がいいんだろう」「グロい映画でグロい事件が増えるのにラブコメ見てる俺に彼女ができない理由が本気で分からない」「エレベーターが落下すると同時にジャンプしたら助かるのは本当なのかな」といった、人生を彩る想像が洗練されるのだ。


 そのとき、石毛が素っ頓狂な声を上げた。


「道がない!」

「なんだって!」


 見れば倒木が進路を塞いでいるではないか。

 直径数メートルはありそうな巨木が水平に道を阻んでいて到底乗り越えられそうにない。


「別の道を探すぞ」


 私はため息まじりに言った。人が通るに足る径は他にない。

 倒木と平行に横へ逸れながら木々をかきわけた。長い木の壁の脇をようやく外れたそこは藪の道である。ぼうぼうと生い茂る草壁へ突っ込む勇気は、仕方なしに私は引き返すことを提案した。


「このまま下がってどうするんだよ」


 真っ先に反論するのは石毛だ。


「頭を冷やせ。ムキになって進んでも埒が明かない。他方の出口を頼るのが賢明ではないか」


 一同の顔を見回す。石毛はしばらく考え込んでいたが、やがて「たしかに」と短く言った。

 私は小牧を振り返った。彼女は小さく頷いた。


 しばらく引き返すとようやく楽に歩ける小径へ出た。


「さっきの道じゃないよね?」

「我々の足跡はない。問題ないだろう」


 水川が眉をひそめたが、私が論理的に証明すると納得したようだった。

 小径に沿って歩を進めると、どこからかサラサラと流れる音が聞こえてきた。


「水だ」


 気付くや否や駆け出す。やはり清らかな小川が流れていた。こんなにも澄明な恵みが存在することに深い感動を覚えた。


「わー綺麗」


 小牧が言った。


「僥倖だ。皆、水筒に水を汲むといい」


 私たちはせせらぎを飲料水として使用することにした。これで当分の水不足には困らない。長丁場になっても、しばらくは持ちこたえられるだろう。


 私たちはその場に座り込んで、思い思いに休息を摂った。麻生は何度か屈伸をし、水川は清流を手で掬って飲み、石毛は大の字に寝転がった。

 小牧がふくろはぎを揉んでいるのに気付いた私は、彼女の傍へ歩み寄った。


「揉もうか?」

「お願い」


 私は小牧の白く柔らかな脚をもみほぐした。やはり微かなハリを感じる。彼女も疲れているのだと思うと私の闘志に熱いものがこみ上げてきた。


「手、あったかいね」


 不意に小牧が言った。


「ん、そうか?」

「なんか安心する」

「まだ早いぞ。出られる保証はどこにもないからな」

「もう、そういうことじゃないって」

「どうしたんだ」

「君といると安心するの」

「ん、なんて?」

「もーなんでもない!」


 小牧が何か言っていたが何て言ったのか聞こえなかった。心なしか彼女の顔が赤いように思えるが気のせいだろうかいやきっと気のせいだから私は気付かなかった。


 長い休息を終えて私たちは立ち上がる。冒険もいよいよ大詰めだ。気力を振り絞れば終わりがやって来る。クライマックスを迎えなければならない。


「さあ、下流を目指せば自ずと人里へ出られるはずだ」


 私の指示で動き出そうとしたそのとき、茂みがガサガサと動いた。大きな陰が蠢いている。

 ジッと見守っていると、やがて姿を現したのは巨大な虎だった。

 皆が息を呑んだ。私はすかさず全員の前へ躍り出た。


「大声を出すな! 静かに、ジッとしていろ――」


 素早く指示を出して虎と睨み合う。人の背丈の何倍もある巨大な虎だった。口元から鋭い牙が顔を覗かせ、熱い唾液が垂れて地面を焼いた。あの牙で幾人もの肉を食らい、血を流し、死に至らしめたのだろう。


 静かな睨み合いの末に虎が動き出した。重々しい胴体をしなやかに動かし、さながら大型トラックのように飛び出す。

 対する私は足元の棒きれを拾って構えた。

 虎の牙と私の棒が交錯する。その刹那――眩い光が私の手から放たれた。


 紫色の光彩を放ちながら、私は虎を押し返した。


「大丈夫か?」


 皆が怯え切った表情をしていた。

 腰が抜けて言葉も発せないらしい。やがて私を指差すのは小牧だった。


「それ、何……?」


 彼女の言う「それ」が何のことかは分かっている。しかし私は敢えて首を傾げた、敢えてね。


「これは知らない方がいい――」


 悲し気な笑みを浮かべた後で虎に向き直った。私のエナジーに慄いたのだろうか、かつて獰猛だった虎は慎重になっているようだった。当然だ。

 私のオメガバーストは『闘神の覇気』である。凄まじい闘気が感情を持つ生物のあまねきを戦慄させ人食い虎とて例外ではない。

 ちなみにオメガバーストは私の身体能力を跳ね上げるだけでなく代謝を倍増させることにより疲労にも無縁でさらに手にした武器の性能を向上させたり殺気をまとうことにより睨むだけで相手を倒すし波動を具現化することで光線を発射することもできるしこのときの記憶はない。


「動物畜生が戦意を失わないとは、その不屈は褒めてやろう」


 私は不敵に言い放ち、棒きれをグッと握り締めた。


「だが、私の道を阻むというなら容赦はしない。憐れなネコ科に引導を、殺戮の獣に断罪を――」


 私が詠唱するに連れ、手元の光が眩さを増す。ついには辺り一面を紫色に覆ったが、私は内から溢れるオーラを抑え込むのに必死だった。


「『滅賊の黒夜夢ジャッジメント・ナイトメア』――!」


 果てしないパワーは虎を彼方へと吹き飛ばした。

 気付いたときには獣の姿などなく、大きく抉られた大地が広がるばかりであった。


「なんだよ、今の……」


 背後で誰かが言った。石毛だった。


「ん、なんのことだ?」


 私は敢えてとぼけた、敢えてね。

 この力を知られるわけにはいかない。そうなれば彼らは無事では済まないだろうし『組織』のターゲットにされてしまう可能性まである。


「それじゃあ先を急ごうか」


 わざとおどけるように言って先導しながら、これで良いのだと自分に言い聞かせた。


 それからどのくらい歩いただろう。時間の感覚などとうに失われ、自分が自分でない感覚に襲われる。無事なのは私くらいだ。皆の疲労を思うと心に闇がかげった。


「見ろ!」


 不意に石毛が大声を上げた。


「出口だ!」


 彼が指差す方を見ると、たしかに真っ白な光がある。私たちは疲れのことも忘れて駆け出した。や森を抜けるとそこは切り立った崖になっていて、山間から儚い夕焼けが燃えていた。

 厳しい冒険の終焉か。巨万の富はないが、案外悪くはないじゃないか。


 人知れず苦笑していると片手にぬくもりを感じた。小牧が私の手を握って上目遣いにこちらを見ている。私が微笑むと彼女も恥ずかしそうに微笑んだ。

 私は誓った。この先何があっても彼女を守り抜くと。

 しかしそのときの私は気付いていなかった。強大な『組織』の影が忍び寄っていたことを――


   ※


 読者諸賢に謝らねばならないことがある。以上の顛末は嘘だ。

 本当は倒木なんてなかったので、あっさりと雑木林を抜けて学校へ帰った。先生にめちゃくちゃ怒られた。

 私が名誉回復のチャンスを得られなかったことは言うまでもない。冒険譚を話すのは石毛や小牧ばかりである。


「いいかお前たち」


 平成の名優こと近藤は、帰りのホームルームで重々しく口を開く。


「動物を愛する優しさは素晴らしいと思う。だけどそれはルールを守った上での話だ。学校を抜け出して鳥を捜しに行って、それで指導の対象になるなんて嫌だろう? 先生だって、お前たちの優しさに水を差したくはない」


 皆、殊勝な顔で聞いていた。動物愛護の志を肯定されたのがよほど嬉しいに違いない。教室の後ろでポロポロと軽やかな鳴き声がした。


 そう、もう一点の驚くべき事実がある。しおだれは私たちよりも一足先に帰っていたのだ。

 疲れた体に鞭打ちながら教室へ戻ると、皆が笑いながら真鍮のカゴを指差したのだ。そのときの素っ頓狂な顔と言ったら筆舌に尽くしがたいであろう。人生とはかくも虚しい。


 何はともあれ、これからもしおだれと離れることなく過ごせるのだ。それでいいではないか。私の地位失墜の契機となり得る冒険だったとしても目的自体は達成されたのである。まずはそれを喜ぶべきだ。


 町中にビラが貼られ始めたのはその矢先であった。


『鳥を探していてます

  かなりあ

  体長20センチくらい

  黄色

            見つけた方は以下の連絡先まで――』


 しおだれの放棄が決まってしまったことは民主主義の名を冠する暴力の業に他ならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カナリア冒険譚 @ZUMAXZUMAZUMA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ